朱の記憶

 理由はもう思い出せないが、そのとき僕は泣いていた。泥で汚れた掌で瞼を何度も擦っていた。涙は絶えず、嗚咽が漏れて喋ることもできなかった。まだ僕が幼かった頃の話だ。
 落ち着いて一息つけるようになって、目を開いたら知らない子が目の前に立っていた。着物を着こなし髷を結った、時代劇の登場人物のような姿をしていた。赤い着物の裾が風に揺られていたのをよく覚えている。風なんてどこからも吹いていなかったのに。
「誰?」
 震える声で尋ねたけれど、その子は口を開かなかった。その代わり、赤らんだ唇を弓なりに撓ませて僕の腕を掴んだ。汚れてしまった僕の手から泥がぽろぽろと零れた。
 僕とその子は長い時間遊んだ。口を利かずに二人でどのように遊んだのか、詳しくは覚えていない。僕らは神社の境内の中にいた。昔はこの町の中心だったその神社には当時すでに誰も住んでおらず、隣町の宮司が管理をしていた。寂れた朱色の鳥居が僕らの戯れを見下ろしていた。
 やがて僕はいつの間にか家の前にいた。きょとんとしているうちに母が玄関から飛び出てきて僕を抱きしめた。温かさに押し潰されそうだった。僕がお昼過ぎから行方不明と見做されていたと知ったのは翌日のことだった。
 その日以来僕はたびたび神社に赴いた。行けばいつでも着物のあの子が微笑みながら出迎えてくれた。
 神社へ行くときもそうだったが、僕はいつでも一人で過ごしていた。生まれ育ったコンクリートづくりの都会から突然の引っ越しを余儀なくされた僕に、野山を駆け巡って育った屈強な同級生たちは肩を組んで堅牢な壁を作っていた。僕は壁を登れなかったし壁の一員にもなれずにいた。
 一人でいることの寂しさは、神社にいるあの子と会うことでうまく紛れてくれた。あの子もいつでも一人でいた。着物を着ている人は、少なくとも同級生には皆無で、町全土を一日歩き回ってようやく数名見かけるくらいであり、その誰もがあの子よりも遙かに年上のご老人だった。
 僕は彼女の服装について何も言わないように努めた。通い詰めているうちに、着物は綺麗だとも思えるようになった。
 ずっと昔の日本では着物姿の人ばかりだった、と小学校の高学年の歴史の授業で学んだ。先の大戦の終わった頃から生活スタイルがめまぐるしく変わり、和服は駆逐されていったという。洋服が着られるようになり、洋食が出回り、砂利道ばかりの農道にいくつも脚が建てられて高速道路の架橋が築かれ、新進気鋭の飛行機に乗って人間が海外へ赴くようになった。どうして戦争なんてしたの、と誰かが訊くと、歴史の先生は「知らん」とその子を小突いた。教室中が控えめに笑った。質問への答えはそれで終いだった。
 つまりあの子は僕よりずっと昔の人なのだろう。
 僕がそう確信するようになったのは、実は案外早い時期だ。
 僕の裾を握っているとき、あの子の手が薄らぐときがあった。裾に掛かっていた力がふっと抜けるのだ。実際に目で見て確認もした。極めつけに、何度も消えたり現れたりを繰り返しているうちに、とうとう彼女の足首が見えなくなった。歩けるはずのない脚でよたよたと近づいてくる彼女は、日増しに大きくなる僕と比べると一向に変化しなかった。彼女はいつまでも小さな子どものまま、朧気な微笑みを浮かべて僕を見上げてくれていた。
 怖くはなかった。相変わらず馴染めない同級生と比べたらあの子はずっと接しやすかった。僕が傍にいても避けなかったのだ。
 話はせず、身振り手振りで交流して微笑みあって、夕暮れを向かえる。楽しかったし、満足していた。それ以上何かを求めるのは嫌だった。求めたら彼女はすぐに失せてしまう気がした。
 やがて僕は小学校から中学校に上がり、市外の私立の高校に進学した。ほどほどの成績を修め、同級生にもようやく恵まれた。遊んだり話したりできる人間の相手ができた。男子ともたくさん、女子とも多少話した。特別お近づきになりたいと思える子もできた。こっそり近づいたら、そっと遠ざけられた。その傷心を面白がりながら慰めてくれる友人もできた。楽しかった。輝いていた。思い返すと眩しすぎて胸が疼く。それくらい愛おしい日々を送った。神社であの子と会っていた日々は次第に忘れ去られていった。
 その日家を飛び出した理由は良く覚えている。大学受験を間近に控えた僕の勉強部屋の前で父と母が口論を交わし始めたのだ。父のネクタイが解け、ワイシャツが皺だらけになり、母のハンカチが自らの歯でずたずたに切り裂かれた。反りが合わないとか何だとかいう騒ぎ声が僕の耳に攻め入り思考回路をめちゃくちゃにした。うるせえてめえら静かにしやがれと怒鳴ったら二人分の怒鳴り声が返ってきた。父と母は茹で蛸のように赤くなっていて、この蛸たちの子である自分が不意に悲しくなって、飛ぶように駆けて外に出た。父と母は「こら」と叫んだが追いかけては来なかった。
 雲のない乾いた冬の空の下で僕は走りながら泣いていた。風邪でも引いたら試験に落ちる。不安が一瞬過ぎったが、首を振って掻き消した。涙目で歩く道に既視感を覚え、足の向かうままにとぼとぼと進んだ。
 小さな坂を越えた先に、住宅に挟まれる形で数十段の階段があった。上れば朱色の鳥居が待っていて、そのすぐ下にあの子がいた。昔と変わらない子どもの姿で、だけど随分と薄らいで、棚引く煙のように頼りない影になっていた。
 あの子と目が合い、高校生活の思い出と反対に遠ざかっていた昔の記憶が濁流となって蘇ってきた。
「ごめん」
 咄嗟の謝罪をあの子は笑って受け流し僕の洋服の裾を握った。裾は動かなかった。あの子の透明な指先は僕の身体をすり抜けていた。
 忘れていたことがとても恥ずかしかった。とてもよく遊んでいた気がしたのに、どうして忘れていられたのか。彼女が普通の人間であればそんな不義理はしなかっただろう。靄のようなあの子の小さな背中を眺めながら、僕はひっきりなしに謝った。あの子は何度となく受流した。見ないうちに、腰を屈めないと目線が合わなくなっていた。
 社の縁側に彼女が座り、横を指した。促されたとおりに座ると町の光が見えた。それは町のほんの一角だ。遠くにビルが建っている。駅前に聳え立つそのビルは昔ながらの地主が死んでからものの三年で一気に建築された。おかげで駅前には人や店が集まり、賑わいが明け方頃まで続くようになっていた。
 何かを話そうと思ったが、うまくは思い浮かばなかった。僕が成長した分、あの子との隔絶も広まっていた。僕は散々悩んだ末に、自分の身の上話を始めた。
 小学校、中学校、高校と進学し、受験がもう差し迫っていること。そこで少し間を置いて、深く息を吐いた。
「大学に受かったらこの町を出て行くつもりなんだ。落ちたら予備校通いだけど、それでもいずれは出て行く」
 それはそのときの僕が抱いていた一大事で、せっかくだからあの子にもちゃんと伝えておきたかった。悲しげな顔を見るのは辛かったけれど、その顔の前で嘘を言うのはもっと辛い気がした。
「だから、もうこの神社に来るともしばらくない」
 ごめんね、とまた口をついて出てきた。
 伏し目になったあの子が目を閉じゆったりと頷いた。悲しそうな印象は未だに拭い去れなかったが他にどうにもしようがなかった。
 思案を巡らせていた僕の袖を、あの子の腕がすり抜けた。あの子はまだ僕を見ていた。
 向こう側から呼んでいる。一瞬そう思い、背筋が冷えた。でも怖さはすぐ沈んだ。あの子と一緒に遊んだ朧気な記憶が怖さを消し、哀れみへと変えた。
 僕が近寄ると、あの子の掌が僕の額に近づいた。腰をかがめる。掌が触れる。泥一つついていない掌の感触はほとんどない。
 やがて景色が浮かんだ。
 世界が朱色に染まって見える。夕暮れの空の下だ。雲は紫色で、東の空は暗くなり始めている。土を踏みかためてできた道が延々と前へ続いている。薄の原っぱが風に揺れて波紋のような影を広げ、どこまでも伸びていく。
 僕は橋を渡っていた。横には背の高い女の人が立っていた。青紫の着物に青い帯。髪の毛は髷だがあの子とは少し違う。肩のそばに赤とんぼが止まっていて、見つめているとその人が手で払ってしまった。細い唇がにいっと笑った。あの子の笑い方によく似ていた。
 そして景色が終わった。
 気がつけば、あの子はいなくなっていた。
 影も形も、なんらかの痕跡もない。髪の毛一本見当たらない。そもそも誰と会っていたのか、僕の記憶は曖昧だった。あの子である。でも、あの子が誰なのか、わからない。頭を抱えて悩んだが、努力は全く報われず、もう名前すら思い出せなくなっていた。
 あの景色は、あの子の生きていた時代の景色だったのだろう。
 僕の全く知らない時代。僕の親も、祖父母の代も多分知らない時代。この国が物に溢れていく代わりに、失っていったものたちの時代。
 あの子の暮した世界の景色を僕は全く知らなかった。
 決して知ることのないはずのそれをあの子は最後に僕に見せてくれたのだ。
 冬の風が鎮守の森から僕を襲う。神社は急によそよそしくなった。鳥居をくぐり抜けると、階段を駆け下りて町に戻った。振り向けば、神社が重く苦しそうにその場で鎮座をし続けていた。
「さよなら」
 それだけ伝えて道を歩いた。
 もう僕はあの子と会うことはないのだろう。きっとどんなに会いたいと思っても、彼女の姿はもう見えない。
 だからせめて景色だけは覚えておこう。あの子が最後の力を振り絞って僕に伝えてくれた、あの朱い景色の記憶をいつまでも胸に抱いて、なるべく長く生きよう。
 歩き出した僕の背の後ろで鎮守の森が厳かに揺れていた。
 昭和も終わる頃の話である。


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サークル名:鳴草庵(URL
執筆者名:雲鳴遊乃実

一言アピール
日常のちょっとした小話から、SF、ファンタジーまで手広く広げている個人サークルです。テキレボへの個人参加は初めてです。

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コメント

  1. 浮草堂美奈 より:

    成長するにつれて見えなくなってしまう存在の、魅力を感じました。

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