あにといもうと

 おりたちてうつつなき身の牡丹見ぬそぞろや夜を蝶のねにこし――与謝野晶子『みだれ髪』

 九歳で妹ができた。おかっぱの市松人形のような一つ年下の女の子だ。知らない子ではなかった。たまにうちに泊まっていた。昼間はにこにこしていたのに夜は泣く。布団を頭からかぶっていても声が聴こえた。
 しゃくりあげるような、聞いているだけで息苦しくなるような嗚咽だった。
 ただしは布団から這い出て母親に知らせにいった。真夜中に起こされた母親は眉をしかめながらもほうっておきはしなかった。
 幸恵ゆきえちゃん。
 めったに聞かない猫なで声で名を呼んで、いっしょに寝ましょうねと囁いて布団に潜りこんだ。しばらくすると幸恵は泣きやんだ。糺は甘ったるい母親の声をしゃぶるように思い返しながら眼をとじた。闇に溶けるようにすぐ眠れた。
 ところが、うちの子とやらになってからは、母親は幸恵を泣かせるままにした。いや、おにいちゃんなんだから面倒をみてあげなさいと糺を叱るのだ。
 いっしょの布団に潜りこんで抱き締めてやるのは気が引けた。
 幸恵は色白で、黒目の大きい潤んだ瞳とぷっくりと赤い唇をしていた。泣いて鼻を垂らしていても細い八の字眉のせいで可愛げがあった。 
 おにいちゃん。
 かぼそい声で、いっしょに寝てもいいと聞かれると頑なに首を横にふった。こども特有の高い体温に甘酸っぱい汗のにおいが混じり、持ち重りのする髪が汗で湿っている。女の肉の滴りのように香るものが擦り寄ってくる。泣いている幸恵を見ていると、おなかのずっとしたのほうがもぞもぞとした。それが何か、夢使いになる糺は知っていた。
 養蚕の技術を教え、手伝いながら夜伽をし、この花綵(はなづな)列島を渡り歩いた夢使いにまとわりつく性のにおいに糺は疎くなかった。もちろん師匠に教わりもした。
 それでも、ときどき自分の手にすべりこんでくる華奢で小さな湿った手まで振り払わなかった。いつも決まって親のいない場所で行われることにも気づいていた。
 糺は中学生になると名主の家に生まれた師匠の屋敷に入り浸り、ほとんどそこで暮らすようになった。年老いた師匠の独り住まいは広々として気楽だった。小学生のころから仲のいい、一つ年上の月成晃一つきなりこういちの家にはよく遊びにいった。晃一も師匠の話しを聞きたくてやってきた。大河ドラマを師匠の家のビデオで繰り返し見て、原作や雑誌はもちろん研究書を読んだりもした。師匠の習う仕舞を真似たり茶を点てたりもした。
 糺の着るものは学生服以外ほとんどが師匠のおさがりになった。御蚕様おかいこさまを神獣とする夢使いなら当然だ。呉服業がまだ元気だった昭和のことだ。どれもこれも贅沢な品だった。
 師匠は糺が高校三年生になるころには幾らか呆け始めた。御屋敷から寄越された手伝いのひとが糺の食事まで用意してくれた。行儀作法はひととおり身についたが、夢使いのわざは中途になった。御大尽だったので香音かねと呼ばれる夢をあがなうよりも相談や口利きをくし、地元の歴史を紡ぐ語り部とおもわれていた。被差別民として扱われることもある夢使いとしては幸福な姿でもあった。
 そのころになると着流しで家に帰ると母親に客が来たような顔をされた。父親は仕事や接待でいつもいなかった。たまたま顔を合わせると気まずい想いをした。
 糺は高校に通うのが馬鹿らしくなっていた。なによりもネクタイを締めるのが煩わしい。しかし、両親だけでなく師匠も進学しろと命じた。同じ夢使いの大叔父も祖父も同様だ。晃一も、自分が学校にいなくてもちゃんと通えと背を叩いた。糺は晃一の言うことにだけは逆らわなかった。みな学歴が身を救うと信じていた。たしかに養蚕教師をするには役立った。だが、夢使いの仕事には邪魔だった。
 糺は熊本大学に進んだ。盆も正月も実家には帰らなかった。
 だから、幸恵が月成晃一といつ恋仲になったのかわからない。結婚式をあげると連絡があって初めて知った。
 式の前夜のことだ。
「わたしが家を出たらお父さんとお母さんのこと心配じゃないの?」
 幸恵はピンク色のパジャマ姿でまっすぐに糺を見た。髪にはパーマをあてたのだろう、テレビでよく見る歌手のようにふんわりとカールしてあった。家は新しく建て替えられていた。和室は二階の客間しかなく、糺はそこに布団を敷いた。幸恵はいきなり入ってきて、布団の横に座りこんだ。
「家は近所だし重い持病があるわけじゃないし、なにも心配ないさ」
「今はそうよ。でもおにいちゃん電話一本寄越さないで何をしてるのかもわからないじゃない」
「名刺を渡したとおり製糸工場にいるよ」
「広報なんて、何してるの?」
「工場見学の案内をしたり小学校に蚕の話しをしにいったり、他には総務部の手伝いとかもある」
 ふ~ん、と幸恵が糺の顔をのぞきこむ。
「おにいちゃんがちいさな子とちゃんと話せるなんて意外」
 馬鹿にするな、という言葉は出てこなかった。邪険にしたおぼえはあった。いじめたり無視したりはしていない。ただ、近寄られたくなくて避けてきた。師匠の家に遊びに来た幸恵を暗くなる前に帰れと追い返したことはある。ほんとうに心配なら一緒に家に連れて帰るべきだった。
「御給料いくらもらってるの、結婚とか考えてないの?」
「どうでもいいだろう、そんなこと」
 我ながら険のある声が出たと気づいたが幸恵はしつこかった。
「わたし明日結婚式なんだよ、どうでもよくないでしょう」
 そうだな、と糺はいったん引き取った。工場に来たお客だと思え。でなければ夢を買いたいという依頼人だ。
「給料は安いさ、東京と違うんだ。だけど住み込みで家賃はないし食費も安い。暮らすには困らない。けど、結婚となるとそうはいかないし、職場はおれより年上の主婦とアルバイトの学生さんばかりだ。ちょうどいい相手はいない」
 幸恵はじっと目を離さない。
「あとはなんだ、なにが気になる?」
「わたしが晃一さんと結婚するの悔しくないの」
 糺は幸恵を見なかった。
 客用布団のカバーの小花模様をぼんやりと目にうつし、それから形ばかりの床の間を見た。血のように紅い牡丹の花の掛軸がかかっている。色紙を挟んだだけの掛物だがあるだけましだ。畳や床の間がなくなれば着物の所作も失われていく。さっき幸恵は畳の縁を踏んだ。
「おにいちゃん」
 焦れたように呼ばれ、糺は掠れ声で短くわらった。
「お前、おれを兄だとおもったことなんか一度もないくせに」
 そうね、と幸恵はこたえた。
「ずっと、おにいちゃんが好きだったから」
「嘘をつけ」
 糺は容赦しなかった。
「お前が好きだったのはおれじゃなくてお前の父親だろう」
 ひと息に言い切ると幸恵はわらった。なんだ、知ってたの。そのままぺたりと畳のうえに横になった。
「ねえ」
 幸恵は心臓を下にした体勢で糺の膝に右手をおいた。古い藍染めの結城紬に白い花を投げおいたようだった。
「おにいちゃんてわたしのお父さんに似てるよね。着物が似合って、頼りがいがなくて、自分のことしか考えてなくて、でも変に優しいところがあって。おにいちゃん、けっこうモテてたの知ってる?」
 糺は無言で、だらしなく寝転がったままのいもうと、、、、を見た。
「ねえ、娘時代の最後の想い出にいっしょに寝てくれない?」
 糺はじぶんの膝のうえの白い手を見ながら口にした。
「晃一は優しくていい男だ。何もお前は心配しなくていい」
「おにいちゃん」
「あいつを、どうか幸せにしてやってくれ」
 自分の膝のうえにある手をつかんで、そっと丸め込んだ。幸恵はその手を引き抜いてからだを起こす。
「ひどいひと」
「ああ、そうだな」
「嫁入り前の妹に幸せになれとも何とも言ってくれないの?」
 糺は正座した幸恵に顔を向けた。
「お前を妹だとおもったことは一度もない。けれど、お前がいたおかげでおれは夢使いになれた。感謝している」
 幸恵の眼が大きくみひらかれた。
「……身勝手ね。おにいちゃんはいつもそう。逃げてばかりの大嘘つき」
「おれがどんな嘘をついた」
「わたしがいようがいまいがおにいちゃんは夢使いになったわよ」
「そうか」
「そうよ」
「ああ、そうだな……」
 幸恵がため息をついた。
 糺は彼女を見なかった。自分には出来ないことをする女を祝福してやりたいとはおもわなかった。けれど、お前のために結婚もしない、こどもも作らないと言ってやることもしなかった。
 この女がもっとずっと年をとって、孫が出来るくらいの年になって、ようやく思い知ればいい――兄にも恋人にもならない男の、ただひとりの「女」だとおもわれていたことを。
 幸恵はもう一度深く息を吐き、じぶんを見ようともしない男の横顔に目をやった。
「わたし、幸せになるから。絶対に、なるから……」
 糺はかすかに睫毛をふるわせて目をとじた。
 まぶたのうえをやわらかなものが掠め、おやすみなさいと声がした。あしおとに続いて襖がしまる。
 糺はゆっくりと目をあけた。
 牡丹のをじっと見る。豪奢な姿を裏切って、香りのない花だ。
 煙草を手に取るのをやめて電気を消して布団にもぐりこむ。夜闇はあたたかく、布団は清潔なひなたのにおいがする。
 隣りの部屋からはもう、泣き声は聴こえてこない。
 糺は夢も見ることのない深い眠りに落ちていった。

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花うさぎ


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サークル名:花うさぎ(URL
執筆者名:磯崎愛

一言アピール
花うさぎの棲み処は花づな列島です。「てきとう」、または「いい加減」という言葉のもっとも望ましいカタチを見つけて餌にしています。この世のことわりの内と外を跳ね回ります。優しく撫でると薫り高い花を咲かせることもあります――たぶん嘘です。
花うさぎは磯崎愛とうさうららのコラボ名です。どうぞよろしく☆

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