ヴァレンティヌスより愛をこめて

キリスト教徒の司祭が一人、捕まったと聞いた。
アステリアが彼に会いに行こうと思い、都長官である自分の父の管轄にある牢に向かったのは、彼女が暇だったからだ。彼女にとって、牢に入った囚人たちを冷やかしに行くことなど、ただの楽しみのうちでしかなかった。彼女には、普通の少女が享受できる楽しみなどまずないのだから。
歩きなれた階段を降りる。この階段ばかりは杖をつかなくても我が物顔で降りて行ける。どこで火がともっているかまで肌から伝わる熱さで分かるから、火傷をする心配もない。
自分に挨拶する牢番に件の祭司の所に連れて行けと命令する。年老いた声の牢番は二つ返事でそれを了承し、彼女の手を引いて奥深い牢獄に向かった。
「誰だ?」
彼女が立ち止った時、初めて聞く声が聞こえてきた。

「アステリアよ。あなたを預かった都長官の娘」
「それはそれは」
祭司の声は思ったよりも若かった。年寄りだと思っていた分、アステリアは意外に思った。
「お名前は?」
「ヴァレンティヌス」
「そう。ヴァレンティヌス。あなた、あなたの神様を信じているくせに神様に助けてもらえなかったの?無様ね。しかも、そんな薄情な神様のために牢屋送りになるなんて」
アステリアは笑って、おそらく前に居るのであろう彼に問いかける。彼はその挑発には何ら反応しなかったが、代わりに言った。
「君は、盲目なのか?」
「ええ、生まれつき」
アステリアの方はよどみなくそう答える。
「いくらローマの神に祈っても治療しても治らなかったの。だからローマの神であれ外国の神であれ、神様なんて信じてないの。私それでとっても幸せよ。貴方達みたいな盲信に無駄に溺れることなく、目は見えなくても真実を見られるから」
彼はこの挑発も無視するか、それともそろそろ怒るかとアステリアには思えた。だが彼の声色は全く落ち着いたものだった。
「そうかい、なら私と君は気が合いそうだね、お嬢さん」
「なんですって?」
「いやなに、このヴァレンティヌスも、大した生臭坊主と言うことで名前が通ってたのさ。それがたたって逮捕されたようなもの」
「生臭坊主?」
アステリアは彼の軽い口調の前に噴出した。この牢に送られてくるキリスト教徒は皆、主なるキリストとやらへの信仰に一途で、その為に逮捕されたものなのに、この目の前の男は、そんな高尚なものではないという。
「面白いわね」彼女は笑って言った。

あの男は何の罪で捕まったのかと、後日アステリアは父に聞いた。
軍人皇帝クラウディウス・ゴティクスは兵士の結婚を禁じている。未練が残れば兵は憶病になるからだ。ところがあの男は、皇帝に内緒で秘密裏に兵士たちの結婚式を執り行っていたらしい。それもキリスト教徒だけではなく、ローマの神の信者であろうと。
それを聞いてアステリアはいよいよ面白くなった。今まで牢に捕まった彼らは彼らは純潔、独身こそが神の道であると語っていたものだ。彼の行動は、それと少々矛盾していると思えた。
そのことを彼に話すと、彼は笑って言った。
「ははは、だって私は、男女の間の愛と言うものがいかに素晴らしいか、たっぷり身に染みて知っているからね。私の仲間たちは確かに君が言うとおり純潔主義者だが、でも私は他人にもその愛の結合の素晴らしさを認めてあげたいと思うのさ」
「まあ……さぞ様々な愛を知っていらっしゃるのね」
以下にも遊び人と言った風に芝居のかかった口調で語るヴァレンティヌスの前で、アステリアはケラケラと笑った。
「その通り。結局、愛に勝るものなどない」
「あの死んでいった坊主たちに聞かせてあげたいわ。なんていけない聖職者様!でも、いいわね。そう言う偽善ぶっていない方、私嫌いじゃなくってよ」

それを機に、彼はアステリアのお気に入りになった。アステリアは毎日彼の牢に通っては、彼の話を聞いた。いつのまにか、宗教などにすがる愚か者を論破してやろうと言う当初の目的も薄れ、ただ彼と話すために牢に通うようになっていた。
彼もアステリアがいかにも宗教者がやりそうな、とイメージするように彼の信ずる神の話を語りなどしなかった。ただ、彼はこの世界を見たことのないアステリアがこの世界はどういうものなのか、と問いかける質問に、色も光も知らないアステリアにも分かるように慎重に言葉を選んで答え続けた。空、海、森、花、川、鳥、動物たち。そしてやはり、愛し合う男と女と言う存在。アステリアは自分は一生それを正確に理解などできないと知っていた。だがそれでも彼女は、自分の中にヴァレンティヌスが語り続ける物をイメージし続けた。この世は自分が勝手に思い描いていた以上に美しいのかもしれない。
そしてアステリアは、いつの間にか彼自身、盲目の自分に世界の美しさを教えてくれる目の前の男に惹かれる自分がそこに居るのも理解できた。きっと彼は色男に違いない。
いつか、愛を愛する彼は自分を口説いてくれるだろうか。自分と愛を育みたいと考えてくれるだろうか。彼女はそう思いをめぐらせた。

「お前、最近あのキリスト教の祭司殿のもとに行っているのかね?」とアステリアの父がある日そう問いかけてきた。彼女が言い淀んでいると、父のため息が聞こえ、「いや、説教するわけじゃない。ただ……」と言いにくそうに言った。
「お前が彼を気に入っているのなら不憫だと……皇帝陛下が彼の処刑の日程を決めたんだよ。ルペルカリア祭りの日さ。彼の罪を考えれば、結婚の女神の日に死ぬのが似合いだろうとね」

それを聞いて、アステリアは悲しみに沈んだ。彼は罪人だ。処刑されるのは当たり前だ。それでも彼女は悲しかった。悲しみから、その心を癒してほしいと、彼女の脚は牢に向かっていた。

彼女はヴァレンティヌスにそのことを言えなかった。彼女が黙っていると、その日はヴァレンティヌスの方から話しかけてくれた。
「お嬢さん。世界は美しいと思うかい?」
「……ええ」
「君は私や、他の人を通じてしか世界を知らないのに、なぜそう思えるのかね」
そう聞いて彼女は言葉に詰まった。ヴァレンティヌスは初めて、彼女に問答じみたことを聞いてきた。
「だって……」彼女は恐る恐る言う。
「信じているから……」
くすりと小さくヴァレンティヌスが笑うのが聞こえた。「それで十分だよ」彼は言う。
その時だ。
「アステリア……!なんだ、お前も来ていたのか」
父親の声が聞こえた。「おや、都官長どの」とヴァレンティヌスが父の方に注意を向けたのがわかった。
「祭司殿。貴方の処刑が決まった。ルペルカリア祭りの日だ」
彼はアステリアが言えなかったことを短く告げる。「悔いはないとも」とヴァレンティヌスの声。だが父は、それに満足していないようだった。どこか、ためらいがあるような。
「ヴァレンティヌス殿……貴方に悔いがなくとも、私にはある。貴方が、私にここで何度も語った教えは、本当なのか?キリストがこの世の光など、私にはどうも眉唾物だ」
「眉唾物なら笑い飛ばしていれば済む話だろう」ヴァレンティヌスが父の震える声、必死に勇気を出そうとしているような声を包み込むように優しく言う。
父もここに来ていたのか、何回も。アステリアはそれに面食らう。父は絞り出すように言った。
「違う!私は、私は、信じたいのだ。……私は愚かなのだ。何も見なくては、何も信じられない……」
その時だった。アステリアには、顔すら知らないヴァレンティヌスが笑ったと、何故だかはっきりわかった。
「いいとも。ならば信じるがいい。この世の光をくれてやる。光を持たない、貴方の娘に」
アステリアが自分の名前に反応したのと同時に、そっと誰かの手が自分の顔に触れるのがわかった。その場所に目があるのだと彼女は知っていた。その手が、格子越しに伸ばされたヴァレンティヌスの手だということも。
「大丈夫だ」彼は言った。「この世界、神が作ったものの美しさを信じているなら、もう資格は十分にあるとも」
彼がそう言うと、彼女の目は、途方もない温かさに包まれた。そして、彼がそっと手を離した途端、アステリアの目は、いつもの暗闇ではない物を映していた。
ごつごつした壁、それに張り付く苔、自分の隣にたたずむ、色とりどりの衣装を着た男……。
「……お父様?」
アステリアはその彼の目をしっかり見つめてそう言った。目の前の男は目を瞬かせて「……見えるのかい?」と言った。
「お父様なのね……」
「アステリア!」
父は彼女を抱擁した。そして、泣きながら「祭司殿……祭司殿!」と叫んだ。感謝の言葉すら、見つからないと言った風に。
「良かったな、都長官殿」
その言葉が聞こえた方向に、アステリアは嬉々として眼をやった。彼はどんな顔つきをしているのだろうと期待に胸を膨らませながら。

彼女は、驚いた。
そこに居たのは、非常に清廉な目つきをした男だった。
今しがた目が見えるようになった自分でも、わかる。この男が、生臭坊主などであるものか。
「どうだい、私も色男だろう、お嬢さん?」と相変わらずふざけて問いかける彼の眼は自分など映していない、この世のどんな女も映していないことが、彼女にははっきりわかった。その視線はただ、神に、キリストに注がれているだけなのだ。

彼はなぜあんな嘘をついたのだろう。なぜ名誉を汚してまで色を愛した振りをしたのだろう。
その答えは簡単だった。彼がもし彼のままで話をしていたのなら、自分は彼の話を聞きなどしなかったからだ。自分がこの世の美しさ、神の業の偉大さを信じることなどなかったからだ。

ルペルカリア祭りの日、彼は死んだ。その日父は、ヴァレンティヌスがアステリアに書いたという手紙を彼女に渡した。
「貴女のヴァレンティヌスより愛をこめて」と書かれたその手紙を見て、彼女は本当に見くびられたものだと思った。
「嘘つき」
彼女はそう吐きだした。

その日の夜、彼女と父はこっそりと、キリスト教徒がいると噂の地下墓所に向かった。


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サークル名:クリスマス市のグリューワイン(URL
執筆者名:檜

一言アピール
聖書やキリスト教聖人伝などを題材にした創作小説を取り扱っております。今回は、バレンタインデーの元ネタであるローマ帝国時代の聖人ヴァレンティヌスが盲目の少女を救い、死にぎわに彼女に手紙を送ったという逸話を題材にしました。

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