海の思い出

 海は嫌いだ。
 子犬の頃は、真夏のもくもくした雲の下、ホースの水をかけてもらうのが好きだった。小さなビニールプールは独特のにおいで、ためられた水は表面がきらきらと光っていた。
 海は嫌いだ。由良が小学生の頃、梓を連れて出かけたことがある。市内を流れる大きな川。平凡な盆地の小さな小川しか見たことがなかった梓は、興奮して何度も吠えた。由良がどうしてあんなところに出かけたのかは、子犬の梓には分からない。
「あのね、梓。家出しよっか」
 しょげた様子で、由良はランドセルを母屋の玄関に放り投げて言ったのだ。

 そして、梓は海の近くの大きな川に興奮して土手を駆け下り、転んだ。淀んだ水の流れは、あっという間に子犬を飲み込み、
「梓ー!」
 飼い主の叫びから遠くへと子犬を連れ去った。
 ゆらゆら、ふわふわとした水の揺らぎは、ビニールプールの比ではなかった。

 梓はその日、海を見た。
 広々とした海水の、イワシの群れみたいな光り方。
 行き交う小舟。
「なんだあ、こんなとこに子犬が落ちてるぞ」
 小舟の漁師らが、慌てて梓に手をのべる。梓は必死で前足と後ろ足でもがく。
 潮に流され、梓は見る間に小舟から遠ざかった。
 しまった、反射的に逃げてしまったが、どう考えても一度捕まった方が良かった。陸に自力では帰れそうにない。
「梓あ!」
 海辺で由良が叫んでいる。
 帰らなくては。
 小さな四肢では波を漕げない。
 力がほしい。強くなりたい。
 梓は全力で踏ん張った。
 ふと足が軽くなり、何か素晴らしい力が芽生えたのかと思ったが、足の下に何かが引っかかっているらしい。
 見やると、目が合った。
 目?
 真っ黒い目が、こちらを見ている。
 梓の足元に、黒々と大きな亀がいた。
 亀が水面に上がってきて、甲羅に梓を引っ掛けているのだ。
 きゃうん、と情けなく子犬は鳴いた。初めて見た大きな亀は、陸上の肉食動物みたいに、口を開けて笑っていたのだ。
 こわくても、鳴いても、周り中が海なのでどこへも行けない。
 慌てる梓の思いをよそに、亀は悠然と海を泳ぐ。
 波の上から見る海。夕暮れの近づく、橙色に染まりつつある水面。遠くに海藻たちが見える。梓の狂騒を笑うように、小魚たちが水面を跳ねる。プランクトンがぷちぷちと子犬の毛皮の上で踊る。
 梓は、気づいたときには漁師に捕まっていた。
「珍しいのう」
「亀が拾ってきたような」
「板切れの見間違いか?」
 などと漁師たちは騒いだが、怯えた子犬に噛まれそうになって、急いで子犬をタオルでくるみ、温めてくれた。

 由良は海辺で泣いていた。漁師に、気をつけろよと怒られて泣き、梓を抱きしめてまた泣いた。
「ごめんね、梓」
 梓は、その言葉は好きじゃない。
 それなりに不思議な冒険をしたのだ、面白かった。思うように動けなくて海は嫌いだが。
 だから、うまく言葉にならないぶん、思い切り元気に吠えて、由良の顔をなめてやる。
 涙とへんな味がした。

 子犬の頃の、ちょっとした思い出。


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サークル名:hs*創作おうこく。(URL
執筆者名:せらひかり

一言アピール
すこし不思議。ホラー小説「トラッシュ 箱の中」に出てくる犬(仮)の思い出話です。

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