人魚姫

 午前零時。恵美は家に入るや否や、ベッドに体を投げ出した。
「つっかれたあ……」
 放られたバッグは、床に広がる物たちの海に沈んだ。ベッドの上以外、足の踏み場もない部屋の惨状を恵美は横目で見やる。
「いい加減、片づけなきゃな……」
 そのままごろりと寝転がって、天井を眺めた。今日は、同僚の尻拭いをする羽目になってしまった。その同僚とは、最近結婚したばかりの元恋人である。おかげで仕事を終えたのが、日付を越える少し前。こんな時間に家に帰りつく結果となった。
「……風呂、入るか」
 できることならこのまま寝てしまいたかったが、明日も通常出勤だ。疲れをとらないまま朝を迎えることは避けたかった。
 恵美はよいせ、と起き上がり、風呂の蛇口を捻った。お湯が勢いよく流れ出す。そういえば。恵美はふと思い立って、洗面台の下の戸棚を開けた。ティッシュや試供品がなだれてくる中を、ごそごそと探る。
「あった!」
 恵美が手にしているのは、ピンポン玉サイズの青い球体。ギフトショップに並んでいるような入浴剤だが、よく見ると小さな人魚が入っている。元恋人からの、唯一のプレゼントだった。付き合うきっかけになった思い出の品であった。が、今となってはもう関係ない。
「どうせなら捨てるより、使った方がいいもんね」
 恵美はそれを、ぽちゃん、と浴槽に投げ入れた。

 ピー、ピー、という高い音で恵美は急いで起き上がる。つい、うとうとしていたようだ。
 恵美は風呂場に足を踏み入れた。もうもうとした湯気で、視界が悪い。お湯を止めて、引き返す。はずだった。
「え、誰よあんた」
 開いた扉から、湯気が少しずつ出ていく。浴槽の中に、一人の少女の姿があった。ただの少女ではない。その子の後ろに、尾びれが、見えた。
「ちょうどよい。そこの下僕、もっと広い浴場はないのか? ここはちと狭いぞ」
 うろたえる恵美に構わず、縁に頬づえをついた少女が要求する。かわいらしい声に似合わない古風なしゃべり方が特徴的だった。これは夢だ、と思った恵美は頬をつねる。痛い。目の前の光景は、どうやら現実のようだ。未だ、呆然としている恵美に少女はたたみかける。
「そこの、聞いておるのか?」
 恵美は、はっと我に返った。そして、風呂場から出ると、扉をピシャリと閉めた。
「何だこれ……」
 扉に寄りかかり、恵美は頭を抱える。戸惑いが残る脳でも、原因はなんとなく分かった。あの、入浴剤だ。思えば、どこで買ったのかすら知らない。
 恵美が唸っていると、中からビタンッという魚の跳ねるような音がした。恵美は、扉を少し開けてそっと覗く。いらいらした少女が、尾びれを壁に叩きつけた音だった。
 どうやら、戸惑っているのは向こうも同じようだ。幻覚ならば、自分に都合のいいものしか見ないはず。正直、恵美はこれが現実か幻かなんてどうでもよかった。ひとまず風呂に入って疲れをとりたい。それを理由にして、とりあえず少女がいることを受け入れることにした。
「あの……私も入って構わないでしょうか?」
「おお、戻ってきたか。この非常事態じゃ。下僕も入ってよいぞ」
 少女の言い方が癇に障ったが、、ここは合わせておく。またうるさくされると困るからだ。恵美は裸になって、シャワーからお湯を出す。その行動のひとつひとつに、少女の目がついて回る。顔を洗い終えたところで、恵美は耐え切れなくなって顔をあげた。
「ちょっと……」
「ここは、見慣れぬ物ばかりで飽きぬなあ」
 恵美は思わず言葉を止める。少女の表情が、あまりにも純粋だったからだ。まるで初めて外に出た赤子のように、好奇心に満ち溢れていた。少女と恵美の目が合う。途端に、少女の唇が弧を描いた。その笑みにはもう、赤子の面影はない。
「どうした。早く続けんか」
(黙っていれば年相応でかわいいのに)
 そう思いながら、恵美は体を洗い始めた。
 少女は、いわゆる「人魚」であった。その証拠に、足があるべき場所には尾びれがついている。水面から飛び出してピョコピョコ動くそれを、恵美は眺めていた。
「人魚を見るのは初めてか? 人間よ」
「はあ」
 その視線に気づいた少女が、振り向く。珍しいからというよりは、常に動いているからつい目が追ってしまうのだ。恵美の反応が薄いとみて、少女がわざとらしく咳ばらいをした。
「あーごほん。どうやらちと眠りすぎたようじゃ。わらわの知る人間の住まいとは、随分違っておる」
「そうですか」
 恵美は、少女に興味がないわけではなかった。ただ、あまりの心地よさで一気に眠気が押し寄せてきたのだ。今は意識を保てているが、そろそろ限界だった。
「こら、寝るでない! わらわの話を聞け、下僕!」
 少女に揺さぶられながら、恵美は薄れゆく意識の中で思った。
(私はいつからこの子の下僕になったんだろう……)

「海ぃ?!」
 深夜であることを思い出して、あわてて口を抑える。なんとか風呂から上がった恵美は、休む間もなく少女の要求を聞かされた。
「そうじゃ。わらわは海に帰らねばならん。長い間国を留守にしてしまったからな」
「そうはいっても、ここから海までどんだけ距離があると思ってんの」
 恵美が住む街は、海がない。事を荒立てないようにと使っていた敬語も崩れるほど、遠かった。行くとなれば、半日は潰れてしまうだろう。
「まあ、百歩譲って行くとしましょう。だけど、その格好でどうやって外に出るつもり? 私、車は持ってないんですけど」
 恵美は冷めた湯に浸かっている少女をじっと見た。尾びれ付きでは、水からも出られそうにない。少女はふふん、と鼻を鳴らした。
「心配するでない。策はちゃんとある。下僕、塩水の用意じゃ」
「は?」
「この浴槽一杯分ぐらいでよかろう。さっさと動け」
 少女は簡単に言うが、むちゃくちゃな要求だった。しかし、恵美は指示に従わざるを得なかった。少女の声には、どこか逆らえないものがある。これが威厳というものかもしれない。
「これでいい?」
 恵美は段ボールを二箱、少女の前に積み上げてペットボトルを取り出す。その中身は、もれなく塩水だ。
「ふむ……量は申し分ない」
 少女は恵美に蓋を開けさせ、グビグビと飲み始めた。恵美はそれを呆然と見つめる。少女の勢いは止まらず、あっという間にすべてのペットボトルを空にした。
「これで準備は整った」
 口元を拭った少女は、満足げに笑んだ。一体、何をするつもりなんだろう。恵美が期待を込めた目で見守る中、少女は指をパチンッと鳴らす。すると、たちまち視界が白い光に包まれた。恵美は思わず目を瞑る。
「もう開けてよいぞ」
 少女の声で、恵美はそっと目を開けた。
「どうじゃ。久々にしてはなかなかよかろう?」
 そこには、一人の少女が浴槽の縁に座っていた。水色のワンピースの下には、二本の足が突き出ている。どこからどう見ても、人間だった。
「すごい。これなら行けるかも」
「よし、ではゆくぞ」
 恵美の言葉を了承と捉えたのか、少女は風呂場を出ていこうとした。恵美は少女の腕を掴んで止める。
「ちょっと待った! 今から行くつもりなの?」
「この姿は一日しかもたん。今日中につかねば間に合わぬ」
 焦りを見せる少女に、恵美はため息をついた。こうなったら、最後まで付き合うしかないようだ。
「……分かった。海に行こう。ただし、朝になってからね」

 海なんて、いつぶりだろう。大学時代の合宿以来かもしれない。恵美は潮風に吹かれながら、昔を思った。
 あれから事情を説明し、恵美が眠りについたのは明け方近くになってからだった。仮眠レベルの短い睡眠だったが、すっきりした気持ちで目が覚めた。少女を連れ、電車に揺られること約二時間。二人は、ようやく海にたどり着いたのだ。
「やっと、帰ってこれたのじゃな……」
 早朝だからか、浜辺には誰一人いない。穏やかな波が、引いては打ち寄せる。隣の少女は目を細め、海の青を見つめていた。しばらくして、少女が恵美を見上げる。
「人間よ。世話になったな。礼として、そちを世話係に引き立ててやろう」
「部下であることには変わりないんだね……」
 恵美は苦笑いを浮かべて呟いた。そして、海に向かって叫んだ。
「私! 森田恵美は! あんなやつのことを忘れて! 幸せに! なってやるんだから!!」
 恵美の声は、海の向こうに消えていった。恵美は、ふう、とひと息つくと目を丸くしている少女に言う。その表情は、憑き物が落ちたように晴れやかだった。
「気持ちは嬉しいけど、やめとく。私、まだまだこっちでやりたいことがあるから」
 会社には、風邪をひいたと連絡した。恵美が公休以外で休むのは、就職してから初めてだ。電話に出た主任には嘘だとすぐばれてしまった。だが、どうせなら有給使ってとことん休みなさい、なんてことを言われて、恵美はびっくりしてしまった。そんな優しい言葉を聞けるとは、思ってもいなかったのだ。心配されるほどひどい顔だったらしい。ふっきれたと、思いこんでいただけのようだ。
 恵美は、今までで最高の気分だった。やっと、忘れることができそうだ。少女はそんな恵美の顔を見て、ふっと口元を緩めた。
「そうか、ならば致し方あるまい。別れる前に一つ、受け取ってくれるかの」
 少女が、ポケットからを取り出したものを恵美の手のひらに置いた。平べったくて小さなそれはすべすべしていて、日の光を反射する水面のように青くきらめいていた。
「これは?」
「わらわの鱗じゃ。これも何かの縁。再びまみえる時まで、とっておけ」
 少女は、ではな、と言い残し、海の中に飛び込んだ。恵美が瞬く間もなく、その姿は波の向こうに消えてしまった。
「行っちゃった」
 あまりにもあっけない別れ。恵美はふふっと笑いをもらした。手に残された鱗を、おもむろに空にかざしてみる。恵美の瞳に、青く染まった太陽が映し出された。


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サークル名:ひょうたんから群青(URL
執筆者名:守宮泉

一言アピール
SF中心、守宮泉です。好きなものを好きなように書いています。特にジャンルにはこだわりがありません。

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