遙かなる道程

 1890年12月 冬晴れの倫敦
 青年は故郷を遠く離れ、異邦の地で葬儀に参列していた。
 ヴィクトリア女王を戴く印度いんど帝国に生まれた彼が、弁護士になる志を抱いて海を渡り、大英帝国の首都倫敦ろんどんにやってきたのは1888年の秋のこと。
 以来、勉学に励み、弁護士資格を得るのも間近である。
 しかし、問題がひとつあった。
 学費が底を尽きかけていたのだ。
 彼の家はバニヤという商人カーストに属していて、彼の父も土地の王や貴人の財務を扱う宰相を務めていたが、その父は早くに病没し、以来、一家は親戚を頼った暮らしをしている。
 足りない学費を穴埋めすべく、青年は堪能な羅典ラテン語と英語、そして法学の知識を生かして家庭教師の口を探し、首尾良く英国に拠点を置く墺太利おーすとりあ系商人の家庭に雇われたのだった。
 その商人の家には、商人とその妻、娘がひとりと、ふたりの息子、そして遠縁から預かっているという娘がいた。
 そして一昨日、商人の実の娘が亡くなったのだった。

 十六になったばかりの若い娘の死は、参列者の涙を誘った。
 青年の目から見てもその死は突然で、息子のための家庭教師として雇われた彼が娘と顔を合わせる機会はほとんどなかったが、遠目に垣間見ていた彼女は春の日差しのなか庭を駆け、菫や薔薇の花を喜び、遠縁の娘と仲睦まじく遊ぶ明るく元気な娘だった。
 遠縁の娘にとってもその死は堪えたようで、柩の前で青ざめるばかりであったが、墓所に向かう途中、とうとう倒れてしまった。
 召使いに支えられて屋敷に戻る、ぐったりとした遠縁の娘と、墓所へと赴く青年がすれ違う。
 ふらつく娘に「ミラルカさま、大丈夫でございますか?」と召使いが何度も呼びかけていた。
 喪のヴェール越し、遠縁の娘のくちもとに真珠のような糸切り歯が覗いている。
 歳の頃は二十歳を越えぬあたり。
 ところどころに混じる金髪が、豊かな巻き毛を飾る金細工のようにも見える濃い茶の髪が印象的な娘だった。

 ほどなく、愛娘を異邦の地で失った傷心の一家は故郷に戻ることとなり、青年は家庭教師の職を解雇された。

 1919年初春 曇天の港町
 印度の民族衣装クルターに身を包み、ターバンを巻いた壮年の男は、バウナガルの埠頭に佇んでいた。
 アーメダバードでアシュラムを営んでいる彼がバウナガルにやってきたのは日用品の買い付けのためで、早く交渉を済ませアーメダバードに帰らねばならなかったが、男は埠頭の光景から目が離せなかった。
 疲れ果てた帰還兵士たちの群れ。
 昨年の晩秋、ようやく終わった大戦に大英帝国兵士として戦場に赴き、除隊して故郷に戻ってきた兵士たちだった。
 腕を失った者。
 足を失った者。
 神経を病んだか身体が震え続けている者。
 帰郷を明るく喜ぶ兵士たちの姿はすくない。
 戦時には大英帝国の一員として、印度人も積極的に大戦に参加することを、男は同胞たちに訴えた。
 それが過ちだったとは思わなかったが、男がいま目の当たりにしている光景は、男の目指したものの、ひとつの結果ではあった。
 そして大戦に百万人の兵士と国を傾けるほどの物資を供給し、大英帝国の勝利に貢献した印度に対し、英国はローラット法の制定で報いてみせた。
 自治権の拡大、独立を訴える印度の人々に向け、言論の自由と民族運動の弾圧を目的として、逮捕状なしの拘禁と正規の裁判なしの投獄を行うことができる法律である。

 兵士たちをみつめる男の視界に、娘がひとり入ってきた。
 海を背に、埠頭を行き交う人々を眺めている。
 曇天だというのに青い日傘を差し、濃紺のドレスに身を包む娘の豊かな濃茶の髪には、金髪が混じっていた。
 待ち人がいるのか、所在なげに日傘をくるりと回す。
 ……私は、彼女を知っている。
 あり得なかった。
 彼の知っている娘の面影は、二十九年前のものだ。
 しかし男は我知らず、娘に駆け寄っていた。
「どうなさいまして?」
 慌てたように駆け寄ってきた男に、すこし独逸どいつ風の訛りのある英語で、娘が問うた。
 月光冴え渡る夜の色をした瞳が、絹のような白い肌に似合う美しい娘だった。
「いえ……じつは貴女によく似た方を存じておりまして」
 男はそこまで答えてから、はたと困ってしまった。
『二十九年前、英国に貴女のお母様がいらっしゃいませんでしたか?』
 こんなことを問うてどうなるのだろう?
 男はあの墺太利商人の家に身を寄せていた娘と、言葉を交わしたことすらないのだ。
「そういえば、昔、母が言っていたわ。英国に滞在していたとき、一生懸命、英国紳士の振りをしていた猿がいたって。どんなに姿を真似ても生まれは偽れないのに、ほんと、見苦しかったって」
 嘲るように娘は言い「気を悪くなさって?」と、意地悪く微笑んで小首を傾げる。
 男は静かに首を横に振った。
「気を悪くしたりはしません。真理を含まない言葉や思い込みは、いずれ真理によって覆されるのですから」
「真理?」
「ええ、『私は猿ではなく人間である』という真理です」
「そうね。いつだって最後に、偽りは真理の前にひれ伏すのよ」
 娘は微笑んで肯定した。
 寂しげではあったが、優しい微笑みだった。

「『猿』だなんてごめんなさいね。私、羨ましいの。英国と印度は海を隔てているから。英国が力をなくせば、いずれ独立を望む遠国の支配は重荷になってくるわ。でも、男と女では『独立』なんて夢のまた夢」
 青い日傘をくるくると回しながら、娘は歳に似合わぬ諦観をまなざしに湛えて、海を見た。
「ご存じ? 新聞が書き立てるの。『女が思考を巡らせすぎると不妊になるという科学的結果が得られた』って。だから男の領分である外の仕事を辞めて、家庭に戻るべきだって。戦争中、足りない男手を補うためにあれだけ街に出て仕事をするように勧めておいてね」
「……お嬢さん。その記事は、真理ではない」
 家庭の仕事が頭を使わないわけはない。
 男の妻は文盲ではあったが、日々の家事に心を砕き、自分には思いもつかない叡智で収入の不安定な男の家庭をまとめ上げ、そして四人の子供を産み、育てあげた。
「私もそう思うわ。女王マリア・テレジア、マダム・キュリー、みんな男と同じように思考して、子供を産み育ててる。こんな馬鹿な話、いつかは真理の前に姿を消すのよ。でも似たような『科学的真実』や『経験に基づく事実』は次から次へと沸いて出てくるの。女だけじゃなくて有色人種のこともあれこれ言われてるわね。脳の容量がすくないことが『科学的に証明された』有色人種は、白人に支配されて初めて人間のまねごとができるんだって」
 娘は日傘を閉じた。
 おりからの強い海風に娘の髪が流れる。
「妄言が次から次へと生まれるなら、私は真理を探求し、それらを打ち消し続けよう。女性たちが自身を苛む蒙昧に対し、いにしえより続けてきた戦いに、私も別のかたちで身を投じよう。我々には英国とは違う文化があり、独自の歴史があり、英国人とおなじ人間であると訴え続けよう。銃で脅し棍棒で打ち据えて服従させる獣ではなく、同じテーブルについて話し合う相手なのだと」
 娘の夜の色をした瞳が男を見た。
 微かに微笑むくちびるから覗く、真珠のような糸切り歯。
「応援してるわ。私にはなにもできないし、私が心を添えたところで、なんの意味もないけれど」
「そんなことは……」
 ない、と言おうとした男に、娘は人差し指を自分のくちびるに当て、男の言葉を遮った。
「なぜなら私は偽りなの。真理の輝きのまえに消え去る運命なのよ」
 娘は閉じた日傘を広げ、くるりと回してみせた。

「ミラルカ! 探したのよ?」
 独逸人らしい金髪の娘が、青い日傘の娘に飛びついた。
「ごめんなさい、海を見ていたら、貴女を見失ってしまって」
「こんなところでひとりになったら、土人たちにどんな目に遭わされるか。汚らしいこの国ともようやく、さようならできるのよ。せいせいするわ」
 金髪の娘は吐き捨てるように言ってから、日傘の娘のそばに立っていた男に気づいたようだ。
「だれ?」
 胡乱な目でミラルカに訊ねる。
「貴女とはぐれてしまったことを相談していたの。どうしても貴女と合流できないようなら、乗る予定の船まで案内してくれるって仰ってくださってたの。親切なひとよ」
 すぐに金髪の娘の家族が追いついてきた。
 清潔ではあっても印度のクルターとターバンに身を包んだ男は怪しく見えるのだろう。
 日傘の娘を男から遠ざけようと、白人の使用人たちが身をもって壁を作る。
 ミラルカ、と呼ばれた日傘の娘が、さきほどの説明を娘の家族に繰り返すと、家長らしい男が使用人のひとりに金を渡した。
 使用人が家長から預かった金を渡そうとするのを、男は丁重に断って、その場を立ち去った。
『だって、私は偽りなの』
 娘の言葉の意味に思いを巡らせながら。
 『母親』と同じ名を持ち、似た面影を持つ娘の後ろ姿を脳裏に浮かべながら。

 1948年冬 祈りの道
 宿舎に集う会衆と挨拶を交わしながら、老いた男は夕べの祈りのための祭壇に向かっていた。
「死処に踏み込んでいるわよ、あなた」
 老人は、不意に、かつてバウナガルの港で会った娘の声を耳にした気がした。
 独逸訛りのある英語で語りかけられたその言葉。
 まわりを見渡しても、会衆のなかに娘の姿はない。
 聞き間違いだと思い、祈りの祭壇を見上げた視界の片隅に、豊かな濃茶の巻き毛が揺れる。
 その巻き毛には、幾筋かの金髪が混じっていた……
 老人は振り返らなかった。

 男は孫娘たちに支えられ、祈りの場に就いた。
 昨年、祖国は独立を果たした。
 しかし祖国の抱える問題はそれだけではない。
 宗教対立、厳しい身分制度による格差……解決すべきことはあまりにおおく、しかし、男は老いた我が身の限界を感じていた。
 老人は、ただ祈る。
 祈り続ける。
 真理を探し、虚妄を打ち消すために。
 その耳に、大志を抱いて英国に渡ったときに船で聴いた波音をよみがえらせながら。

 1948年1月30日の夕べ
 ニューデリーに三発の銃声が響き渡る。

 印度独立の父、偉大なる魂マハトマ・ガンディー暗殺の報が世界を駆け巡った。


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サークル名:バイロン本社(URL
執筆者名:宮田 秩早

一言アピール
異世界ファンタジー、ヨーロッパを舞台にした小説を発行しています。
すべて吸血鬼小説。
娘ミラルカはレ・ファニュの小説に登場するカーミラを想起させる人物として描いています。永遠の時間、誰かの庇護をうけながら存在する娘……
作中、差別用語が出てきますが、当時の歴史的背景に基づくものであることをご了承ください。

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