手の届かないところ

「海にしますか、山にしますかって。それくらいこっちの人間にとって、海って身近なのね」
 黒くなったテレビをシンがぼんやり見つめていると、ふいと左手から声がした。視線を向ければ、マグカップを二つ手にしたリンが台所から顔を出す。先日買ったばかりの青い大きなカップだ。
 彼が頭を振って眠気を追い払えば、近づいてきた彼女は斜め前に腰を下ろした。そして座卓の上にマグカップを乗せる。ふわりと立ち上る珈琲の香りが鼻腔をくすぐった。
「……海?」
「さっきテレビで特集してたでしょ? この夏はどちらに行きますかって」
 苦笑と共に差し出された珈琲を、遠慮なく彼はいただくことにした。ぼんやりしていたのをどうやら見抜かれていたらしい。昨日は夜遅くに話し合いがあったので寝不足だ。
「ああ、さっきの番組」
「そう。私たちにとって海って入っちゃいけない場所じゃない? だから変な気分」
 自分の分のカップを手にした彼女は、笑いながらそっと唇を寄せた。彼は瞳をすがめる。
 彼女のこんな何気ない横顔を見ていられるのも、平穏を取り戻したからだ。先日までの騒動を思い出し、彼は小さく息を吐いた。当たり前のように続くと思っていた日常が失われつつあるのには気づいていた。それでもこのところの戦闘は、想像の範疇を遙かに超えている。
「まあ、そうだな」
 様々な言葉を飲み込み、彼は頷いた。
 彼ら神技隊は、違法者を取り締まるためにこの無世界に来た。見知らぬ土地で、見知らぬ文化に接しながらの生活は疲れるが、刺激的でもあった。一人ではないから楽しむ余裕もあった。しかしこのところ彼らに課されているのは単純に違法者を探し出すことではない。どうやらとんでもない事件に巻き込まれているらしいというのが掴めてきたところだ。
 この生活も、一時のものだ。いつまでも続くわけではない。
 目を逸らしていたことを眼前に突きつけられたようで、彼もあれこれ考えることが増えた。狭いアパートに文句を言いながらたわいない言葉を交わす日々は、いつか終わる。
「面白いわよね。でもその一方で、深海は手の届かない場所なんだって。宇宙と同じなんだって。そこは変わらないのねー」
 再びマグカップを座卓に置いて、彼女はしみじみと首を縦に振る。彼も相槌を打った。彼らが生まれ育った神魔世界では、海への立ち入りは禁じられている。空間の歪みがあるからだ。その側に元々あったという大きな町は、大昔に歪みに飲み込まれて消えていた。以来、海に足を踏み入れることはできなくなっている。
 確かにそこにあるのに、手が出せない。決して踏み込めない場所。海はその象徴だ。
「ね、シン。聞いてる? そんなに眠い?」
「眠いけど聞いてる聞いてる」
 彼はやおらマグカップを手に取った。今までこうしたやりとりを何度繰り返したことだろう。日中は他の仲間たちが仕事に行っているため、二人で部屋にいることが多い。違法者の気配を探ったり、実際に調査に出向いたり、買い出しに行く以外は大抵はここにいる。
 だがこんなに近いのに、彼女の気持ちはわからない。どう思われているのかもわからない。聞く勇気もなかった。
 踏み込むのは不得意だ。このぬるま湯のような居心地の良さが壊れることの方が恐ろしくて、いつだって肝心な言葉を飲み込んでしまう。昔からの癖だった。
「眠いなら寝たら? 最近寝不足なんでしょう?」
 彼女の温かい気遣いに、彼は曖昧に頷いた。当たり前のように心配してくれて、ごく当然のように側にいてくれて、屈託のない笑顔を向けてくれる。こんなにありがたいことはないのに、それでも物足りないと心が訴えている。
 終わりがあることを、今の彼は知っている。だがかつては違った。幼馴染みたちとくだらない喧嘩を続ける関係がずっと続くと思っていた。家族はずっと側にいてくれるものだと思い込んでいた。何の保証もないのに、その時が永遠のように錯覚していた。
 そんなもの、あっと言う間に消えてしまうのに。――信じ切っていた自分は子どもだったのだろう。
「ねえシン」
 ぼんやり考え込んでいると、不安げに彼女の手が伸びてきた。白くて細い指先を、彼は思わずあいている方の手で捕まえる。
「……大丈夫?」
 咄嗟の行動に自分でも驚いていると、彼女は怪訝そうに首を傾げた。嫌がられないことを喜ぶべきかどうか、判断しかねた。彼女はいつもこうだ。
「何かあった?」
 怖々と尋ねてくるのは『気』が感じ取れないからだろう。騒動が続いたあたりから、彼らは居場所が気取られないようにと気を隠している。
 誰もが持っている『気』というものには、感情まで伝えてしまう、便利ながらも厄介な性質があった。彼らのように気を読む力のある『技使い』は、どうしたって気に頼りたくなる。そこから相手の気持ちを推し量ろうとする。それで全てが読み取れるわけではないのに。
「いや」
 彼は再び頭を振った。それでも手を離しがたかった。
 こんなに側にいて、こうして触れることもできるのに、遠い。まるで硝子の向こう側を見ているかのようだ。
「何でもない」
「……シンって時々考え込みすぎて何か諦めるわよね」
 と、彼女は深々とため息を吐いた。力の抜けた手の中から、するりと細い指が引き抜かれる。
 心境を的確に言い当てられ、彼の鼓動は跳ねた。そう、いつも彼は最後には諦める。あれこれ考えるのを止め、時に身を任せることにしてしまう。そして後悔する。
「思考の海に溺れちゃわないでよ?」
 首をすくめた彼女は、ついで悪戯っぽく笑った。ふわふわとした黒い髪が揺れる様を、彼はなんとはなしに見つめる。
 ずっと側にいて欲しいと口にしたら、彼女は何と答えるだろう。時折そんなことを夢想する。寂しがる人を決して一人にしない彼女なら、あっさり受け入れてくれるだろうか。しかしそれは、本当に彼の望むものなのか?
「溺れかけたら、リンが救ってくれるのか?」
 好奇心からそんな問いを投げかけてみた。音の乏しい部屋の中に、いっそう濃い静寂が満ちていくのを感じる。しまったと思うが、一度口にした言葉は取り返しがつかない。
 彼女はぱちりと音がしそうな瞬きをした。その黒い瞳が真っ直ぐに彼を捉える。
「助けて欲しいなら助けるけど?」
 返ってきたのは気安い答えだ。彼女らしい清涼さと割り切り具合の滲む、優しくも残酷な答え。
「助けて欲しくないなら助けないってか?」
「沈みたがってる人を引き上げようとしても無理よ。私、そこまでの力はないわ」
 彼女は頬杖をついた。言葉遊びのようでいて何か深いものを感じさせる、いつもの彼女だ。
「海の底が見てみたいならどこまででも沈めばいいと思うけど、何の用意もなく潜れば死ぬのよね」
 ぽつりと、彼女は独りごちるように言った。ぎくりとさせる、穏やかで静謐な声だった。こんな時、気を隠していなかったらとつい思ってしまう。気で全てがわかるわけではないのにより所としてしまう、技使いの悪い傾向だ。
「そう考えると怖いわよね。でも、表面をたゆたうくらいなら面白いと思わない?」
 すると彼女は相好を崩した。何か企んでいる時のどこか満足した、自信をのぞかせる笑みだった。
「ね、だから行ってみない? 海」
 その唇がゆっくりと言葉を紡ぎ出す。それはつまり、現実での話か。シンは首を捻った。
「皆でか?」
「一応声は掛けるけど、皆は無理でしょ。ローラインは乗ってきそうだけど、サツバとか絶対友達の家に遊びに行っちゃう」
「まあ、そうだな」
 少しだけ期待した自分に嫌気が差した。今さら何を考えているのか。彼女は誰かを仲間はずれにするのは嫌いだ。断られるのが前提だとしても、必ず誘いはする。
 こんなに近くにいるのに気持ちは常に一方通行だ。伝えていないのだから仕方がないが、それでも時折寂しくなるのは避けられなかった。
 彼女にとって、自分という存在は何なのだろう。同じ神技隊の仲間というくくりだけでは、もう彼は満足できない。それは一時の関係を指し示す、仮初めのものだ。
「でもせっかくだから皆で行きたいわよね」
「……まあな」
「だから準備しましょ。サツバでも行きたくなるような情報を握るの」
 話しながら彼女は胸を張った。今度は彼が瞬きをする番だった。
「つまり?」
「先に二人で下調べしましょってこと。明日にでも」
「……気が早いな」
 彼は思わず苦笑した。気を隠していてよかったと、心底安堵した。こんな些細なことでも、喜びの感情を隠すのは難しい。気には滲み出てしまう。それではさすがに彼女も気がついてしまうだろう。いや、本当は気づいてもらった方がよいのかもしれないが。
「精神回復にもなるし。ほら、人がいっぱいいるなら違法者もいるかもしれないし」
「言い訳だな」
「口実ならいくらでも用意できるわよ? 備えと勇気があればどこにだって行けるわ。無世界で海に行ける機会だって、いつまであるかわからないんだもの。私は後悔したくないの」
 彼女の力強い宣言が、彼の胸につきりと刺さった。彼が尻込みしている間に、彼女はどんどん前へと進む。そうしていつか彼を置いてけぼりにするのだろう。
「禁じられてなんていないんだし、誰に罰せられることもないわ。ここは無世界だもの」
 ふわりと笑った彼女の手が、また伸びてきた。その細い指先が今度は彼の肩をつつく。突然のことに内心で動じていると、彼女はくすりと笑い声を漏らした。
「皆で行くのも楽しいけど、一度は静かに海を見てみたいの。だから付き合ってくれない?」
 欲張りな彼女の堂々とした誘惑に、彼はつい眉尻を下げた。時々、彼女は全てをわかっているのではないかと勘ぐってしまう。いや、どこかで何かには気づいているのかもしれない。だが彼自身にも不確かなこの感情に潜ってくるつもりはないのだろう。――共に溺れる気はないのだ。
「もちろん」
 首肯した彼は、マグカップへと唇を寄せた。わずかな苦みで口の中を潤せば、胸の内からじわりと温かさが広がった。


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サークル名:藍色のモノローグ(URL
執筆者名:藍間真珠

一言アピール
普段は異世界を舞台としたファンタジー長編、ライトSFを主に書いています。謎と陰謀、異能力アクション、愛憎、両片思い、すれ違いが中心です。今回は長編「white minds」の二人をメインとした距離感の話にしました。楽しんでいただけると嬉しいです。

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