海は本当にあるのだろうか

 貴海は海を見たことがなかった。
 自分と連れ添えであるファレンが暮らす彼岸と此岸のあいだには、二つを隔てる大きな河がある。だが、それ以上に大きな水溜まりを目にした記憶はどこにもない。
 手の中に塩があるのだから海もあるのだろうが、どうしたらその場所にたどり着けるかも不明だ。
 ふとそんなことを思いつつ、貴海は自分の前にある二つ目のハムエッグに塩を振った。テーブルの上に戻さずに、向かいに座っているファレンへ手渡す。
 塩を手にしたファレンは一度だけ瓶を振るとテーブルの中心に戻した。
 二人きりの食事は静かだ。貴海とファレンは想い合っているためか、意外と会話を必要としない。無言のうちで事をすませてしまっている場合が多い。
 だから、その静寂の幕を上げさせたのは貴海の戸惑いだ。
「ファレン」
「ん? 今日の料理もおいしいぞ」
 満足だという笑顔にほだされかけるがそうではない。
「君は海を信じるか」
「話には聞いたことがあるくらいには」
「そうだな。俺の海があるという認識も」
 貴海は塩に手を伸ばす。振るたびに白い結晶は瓶の中で流動した。
「これと伝え聞いたことはあるくらいが、信じられる根拠だ」
 目に見える、目にしたことのない物とそれが人の英知の集合であることが、理由になっている。それは知っていることにはつながるのかもしれない。同時に、本物を知らない。
 自らの感覚や感性で存在を確かめていない。
「海は本当にあるのだろうか」
 おそらく貴海はその答えを一生、出せないだろう。
 無駄なことに考えを広げたな、と苦笑して話を終わらせようとした。浮かびかけた笑顔が消える。
 ファレンが、細い緑の瞳孔と金の瞳が、落ち着いて貴海を見据えていたためだ。
 サラダとスープとパンと一つ目のハムエッグを食べ終えて、フォークとナイフを白い皿に置いたまま、口を開かない。
 それだけなのに呑まれてしまう。
 ファレンは時折、人外じみた不思議をまとうが、今回も同じだ。貴海がごまかして終わらせようとしたいこと、本当はその反対を願っているのを分かって様子をうかがってくる。
 そうして。
「貴海」
 罅を入れてくる。
 願いを圧殺させてくれずに、水が流れ込む自然さで俺の空洞を満たして、そっと微かな想いをすくいあげ。
「いつか、海を見に行こう」
 力強く言ってくれる。
 貴海が言葉を紡げずに、手も動かせずにいると、ファレンは立ち上がった。視線だけ追いかけていると後ろからそっと腕を体に添わせてくる。
「おまえの名前に海があるのは、いつか見てもらいたいと願われたためじゃないのか」
「どうだろうな。君も知っているだろう、俺の父親の身勝手さは」
 それもあって自分たちは彼岸にいる。
 ファレンは此岸に渡ったら命を落とす羽目に遭うだろうし、俺も此岸に戻ったら二度と彼岸には戻れない。それらが自明のことだから、唯一、二人でいられる彼岸で暮らしている。
 仕方なくの妥協ではない。自分たちが選択したことだけれども。
 貴海はファレンの腕に自分の手の平を重ねた。いま触れているジャケットの硬さとその下にある体の柔らかさの違いを想像してしまう。
 ファレンに触れられて生きている温かさを持ってくれているのは何の存在に感謝すればいいのだろう。そう考えかけて、ファレンに感謝すべきだと思い直した。
「俺はたまに謎に思うよ。あの父親が、俺にだけ同じ字を使うことを許して海は入れるという制約までつけた。愛されているのか、望まれたのか、呪われたのか。いまだにわからない」
「俺は貴海の名前もすきだから。それだけで十分だけどなあ」
 ファレンがかぶさってくる。気高い花と澄んだ水の混ざり合った薫りが鼻をくすぐった。少しだけ触れる、女性特有の穏やかなふくらみにどぎまぎするほど初心な関係ではないが、笑ってしまう。
 ファレンはこうして俺のこわばりを解いてくれる。
「おかしなことを言ってすまなかった」
「安心しろ。おかしなことを言う余裕すらなくなったら、襲ってやる」
「それは困るな。耐えきれる自信がない」
 ファレンからの積極的なお願いを叶えないという選択肢は、おそらく俺の中には存在しえない。愛らしく勇敢に俺の胸にファレンが飛び込んできたのならば、この両手は細くたくましい体を抱きしめるためにしか、意味を持たなくなる。
 貴海が笑う。ファレンも笑った。
 二人だけの彼岸でささやかな笑声が鈴のように鳴って消えていく。
 朝の光に溶けていく。


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サークル名:狼と蝶(URL
執筆者名:成瀬 悠

一言アピール
自分憎悪系男性(貴海)×俺っ娘二十歳越え包容系女性(ファレン)が仲睦まじくしてる、だけの恋愛異世界ファンタジー短編集が新刊になるはずです。
既刊はこの二人も登場する『花園の墓守』、あとは何か。
地に足のつかない内容をつかみどころのない文体で書いています。

たかファレを認知してもらえたら幸いです。

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