塩のうみ

塩のうみ 著 PAULA0125
 イスラエル王国には、二つのうみがある。
 一つはガリラヤ湖。イスラエル国の北、ガリラヤ地方にある小さな湖である。しかしこの「小さな」とは、あくまでももう一つの比較した場合の大きさであって、それは地元の人々にとって立派な「うみ」であった。彼らは伝承により、エジプトとイスラエル王国を分かつ巨大な海「紅海」を知っていたが、本当にどこまでも続く海を知っているのは貿易商くらいなもので、一般の学のない者達にとって、「うみ」は、もっぱら湖であった。
 もう一つは死海。その名の通り、魚の棲まない死の湖だ。ガリラヤ湖からは勿論、イスラエル中の川が流れ込んでいるのに、決して溢れることはなく、魚が流れてくることもない。人を呑みこむガリラヤ湖と違い、死海は人が沈むことを拒む。ここから獲れるのは、塩くらいなものだ。
 ガリラヤ湖は大きな湖であったので、イスラエル王国の魚市場の大半を占める。多くの漁村がありながら、少し山間に入ると忽ち産業が無く、自給自足だけで精一杯の、乏しい地方―――それが、ガリラヤ地方である。幸いなことに、その少年は漁村ベツサイダの網元の跡取りとして生まれた為、比較的裕福な生活を送っていた。この度、弟が生まれたというので、母方の従兄と、その母が祝いにやってくることになっていた。

「若様、若様! いずこにおいでか、若様ーっ!」
 家の召使い達が村中を回って大声を上げる。というのも、もうすぐ客人が来る頃合いだというのに、今年八つになる跡継ぎ息子が、遊びに行ったまま帰って来ていないのだ。今日は無かったが、明日は漁がある。彼は漁を嫌がるような跡継ぎでは無いので心配はいらないが、それにしたって客人を嗣子が無視するというのは非常識だ。跡継ぎを示す指輪や、紫の上等な上着、新しい靴、そんな何もかもを今日のために揃えたというのに、当の本人がいなくては、それらは全く、利用価値の無い服飾品になってしまう。
「おい、若さまよ、おめえんとこの召使いだろ、あの叫び声。かわいそうに、ありゃ見つかんなかったら主人に鞭打たれるぞ。」
 茂みの中から、ひょこん、と、頭が飛び出す。頭は隣の茂みに向かって話しかけた。すると隣の茂みから、ひょこん、と、また頭が飛び出す。両方ともまだ十に届くか届かないかの、子供だ。
「別に構うもんか。あの服、ちっさくてちっさくて息苦しいし、靴は革がまだ硬い。指輪は鬱陶しいし、良いことなんて一つもない。でも客人はちゃんと持て成すよ、恨んじゃいないからね。」
「っていうか、会ったことあるのか? あんまり金持ちじゃないんだろ。」
「でも親父は大工だからな。村の中ではそれなりに信用されてんじゃねえの。知らねえけど。」
 興味ないし、と、少年は言って、自生している無花果の樹に上り、一等熟れた無花果をもぎ取った。俺にも、と、手を差し出され、ひょい、と、爪先で無花果の枝を揺らす。ぼとん、と、一つ、下へ落ちた。
「おい、崩れたぞ。」
「食えりゃ一緒だろ。」
「横着すんなよ、食べ物は大事にしねえとって、お前の親父様が仰ってるだろ。」
「そりゃ、俺が苦労して獲った魚を焦したりする奴にゃ、俺が網元になったら二度と魚食わせたりしねえよ。でもこの無花果は野生だろ。誰の苦労もかかってねえ。強いて言うなら落としたのはお前が上手く受け取れなかったからだ。こののろま。」
「ちぇっ、俺はお前みたいにヨノナカをひょいひょい渡ってくこた出来ねえのさ。まあいいや、食っちまおう。………甘いな。」
 こっちも美味そうだな、と、少年は太い枝を伝って、もう一つ無花果を頬張る。
「それはそうと、お前そろそろ許嫁と顔合わせするんじゃないか? どう、可愛い?」
「あー、それなあ。この間会ったよ、その母親に。あと二十年も経ったら、そこの家の末娘がオレの結婚愛でだってさ。」
「長いよなあ。俺なんて後二十五年は先なのに、もう決まってら。ついでに俺の娘の嫁ぎ先までもう決まってら。その前に決めた親どもが死にそうだっつのにな。」
「へえへえ、地主様の跡取りサマだけだよ、そんなに嫁さんに困らねえの。」
「僻むなよ、ほれ、もう一個落とすぞ。」
 ちょん、と、爪先で実を蹴ると、またぽとりと実が落ちた。今度は上手く受け取れたらしく、下から美味い美味いと満足そうな声が聞こえる。
「親父も気が早いもんだぜ。弟が生まれたばかりだってのに、その翌日にはもう、嫁の親を探してきてよ。三年経ってからでも遅くはないと思うんだぜ。三歳なるまでが長いんだからな。」
「そういえば、オレが生まれる前に姉ちゃんがいて、その子は二歳と十ヶ月で死んだって言ってたな。」
「だろ? どうせ傷つくのは母さんなのにな。」
「しょうがねえな、強い子産めなかった母さんの所為だからな。だからオレが神から与えられた時は、そりゃ喜んだってサ。」
「そりゃ、どこでも長男さえ居れば、どんな子が生まれたって構わねえよ。」
 少年は長男であるので、その重責を苦々しく思い浮かべた。今あることも含め、未来に起こりうる柵を想像し、気が重くなる。
「子供のうちだけだ、反発出来るの。十二になってエルサレムに参拝するようになったら、もう大人だ。あと俺、四年しかねえや。」
「オレあと二年だ。やだなあ。」
「ほんとだよ。でも俺が十二になるころって言ったら、親父はもう五十過ぎだ。いつくたばっても大丈夫なように、俺がしっかりしないとな。」
「おいおい、それオレが聞いたことにするなよ。」
「わかってるよ。そら、もう一個落とすぞ。」
「オレはもういいや。」
「なんだ。じゃあ俺が貰うよ。」
 落とすのなら脚を伸ばせばいいが、手でもぐとなると、もう少し詰める必要がある。しっかり枝に巻き付いて、大きな無花果に手を伸ばす。熟れた無花果は、始めに食べたものよりもずっと柔らかかった。
 よし、とれ―――。
「おおおおおおおおおおお!」
「うわああああ!」
 無花果を手にした瞬間、枝が大きく軋み、少年の尻の所からぼきりと折れた。村の有力者の嫡子に大けがを負わせたとなったら、自分たち一家がどうなるか、そう瞬時に計算した少年の友人は、咄嗟に逃げ出してしまった。
「おい、おい! 俺ァ大丈夫だよ! そんなことより下ろしてくれー!」
 折れたものの、その枝は地面には落ちなかった。皮一枚で繋がっている。少年は頭を下にして、動けないまま、ぷらんぷらんと風に揺れる枝に乗って縮こまっている。
「おぉーい! 誰かー! 助けてくれよーう!」
 先ほどまで自分を捜し回っていた筈の村の召使い達は、誰一人気付く様子は無かった。どころか、もう声が聞こえない。恐らく村の反対側へ行ってしまったのだろう。自分の鼻先は、地面から丁度自分二人分の高さのところで揺れている。ガリラヤ湖から吹く風が、木々の隙間を縫って枝を揺らす。どんなに強がったって、八歳は所詮子供だ。どれほど周囲に「大人」を求められていても、漁で仲間が溺死する場面に居合わせていても、水が着物に染み込むような恐怖には耐えられない。友人がいなくなったことを良いことに、少年はぽろぽろと涙を流し、鼻先からぽたぽたと地面に垂らした。
「誰かぁ、誰かいないのぉ、誰かぁ………。」
 みしっと音がし、ひゅっと息を呑む。その次の瞬間、風が一陣吹いてきて、皮を絶ってしまった。悲鳴を飲み込み、小さく身体を丸め、地面に怯える。
 落ちた先は暖かく、柔らかく、がっしりとしていた。
「?」
「よかった、間に合ったね。怪我は無い? 怖かっただろう。」
 従兄だった。少し息が荒い。自分が落ちそうなのを見て、走ってきてくれたのだろう。
「…ふぇ、ふえぇぇぇ、うわあああああああん!」
「よしよし、よく我慢したね、一緒に家に帰ろう、おじさんも心配しているよ。」
「ごめ、なさ…っ、ごめんなざい…っ! ふええ、ええん、うええええん。」
「大丈夫大丈夫。痛いところない?」
「ないぃ…。ぐずっ。」
 顔を上げたところで、自分が大事に持っていた無花果がぐちゃぐちゃに潰れているのに気付いた。従兄の服にも、着いてしまっている。自分と違い、従兄の家は裕福ではない。お祝いに行くというのに、その着物は少年の普段着よりも見窄らしかった。どうしよう、と、小さくなってまた涙を浮かべると、従兄は瞼に口付けて、にっこり笑った。
「しょっぱいお顔だ。無花果がより甘く感じる。」
「ぐすっ。」
「明日は漁に行くんだろう? その姿を見ようと思ってね、ぼくも軽い服装で着たんだ。だからほら、帰るよ。」
「…うん、帰る。にいちゃんとおばさんと一緒に帰るぅぅぅ…。」
 また泣き出した少年の頭を撫でて、従兄は胸に抱いたまま、後から追いついてきた自分の母親と共に歩き出した。
 家に着くと、心配されたが怒られはしなかった。どうやら従兄が取りなしてくれたらしい。少年はほっとして、食事の後、もう寝るという時に、従兄を呼びに行き、屋上へ連れて行った。
 常日頃、少年の家族はこの屋上で神に感謝の祈りを捧げ、時に嘆願する。そんな場所からは、網元の家らしく、ガリラヤ湖が一望出来るのだ。今宵は満月で、空気も澄み、砂もあまり飛んでいない。星が上にも下にもあり、下の空には光の弾けるのが時々見える。あの湖が豊かな証拠だ。
「にいちゃん、俺が十二歳になったら、ここのお魚は全部、俺のものになるんだ。そうしたら、一番ににいちゃんに食べさせてあげるね。」
「そうかい? でもお前は、きっともっと大きな海に行って、もっと大きな獲物を獲るようになると思うよ。」
「港っていうんでしょ。外国と商売するのに使うところ。あんなところ怖くてやだい。」
「ううん、もっとずっとずっと広い海だよ。そこで、お前は、沢山獲るんだよ。」
「そんなにいっぱい何を獲るの?」
「そうだなあ…。お前が大人になって、又ぼくの所に来た時、教えてあげるよ。」

 ―――お前は、死悪の界しおのうみに出て、人間をとる漁師となる、その運命をね。


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サークル名:いくそす。(URL
執筆者名:PAULA0125

一言アピール
空前絶後のォォォォォ! スタイリッシュ罰当たりサークルゥ!
全世界六十億信徒の聖典である聖書に、ホモをぶち込みましたァァ!!
そう、我こそはァァァァ!!! 「いくそす。」!!! 「いくそす。」って覚えて下さァァァァい!!!
イエェェェイィ!!!!

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