さかなは鯨の夢をみていた

 外つ国の文化を急速に取り込んだ維新の時代を過ぎ、夜は明るくなった。洋風建築の建物は増え、街灯に橙の光が点る。その間を縫うように、人々は歩いてゆく。洋服と着物が混ざり合い、夜が鮮やかに彩られる。異国の空気をも纏った都市の風景が広がっていた。
 太陽が空を巡っている間は、日陰が恋しくなるものの、夜となれば話は変わる。涼やかな風が入り込み、ひたひたと身体を夜に浸していると、気がつけば四肢が冷たくなっている。季節の変わり目ですから、と軍服に身を包んだ青年が手にしていた肩掛けを羽織るように広げてみせた。隣に佇んでいた袴姿の少女は背を向け、その優しさを享受する。
「ありがとうございます」
 包まれるように胸元に肩掛けを掻き寄せた少女が、そっと彼の手を引き寄せる。
「冷たくなってしまわれます」
 日に焼けることを知らないような白い手が、彼の手を包み込んでいた。その手の方こそひんやりとした冷たさを纏っていることを彼は知っている。そしてそのことこそが、彼にとっては嬉しく思えるのだった。
「何を探しているのですか」
 遠く夜空を眺めている少女に尋ねる。後ろからその姿を見つめていると、少女が消えてしまいそうな錯覚に襲われる。不安が浮かんでは弾けて消えていくのを隠すように微笑む。
 白く輝くくじらを、と少女は口にする。薄く紅をひいた小さな唇から、少女はそう言葉を紡いだ。
「女学校の友人が、黄金きんのさかなを見たと言うのです。笑われますか?」
 ふいに、少女の瞳がまっすぐに彼を射貫いた。黒い瞳が、昼に光を溜め込んだその瞳が、力強く輝いていた。
 少女から着物に炊き染められた香が漂ってくる。水の香りのようだ、と彼はおもった。海の底から、立ち上ってくるように静かに漂ってくる。
「笑うことなんて、しませんよ」
 海の底を漂っていた彼の思考が浮かび上がってくる。気がついた時には、言葉が口から転がり出ていた。よかった、とやわらかく口角を上げた少女に、しかしと彼は続けた。
「今宵はもう、貴女をお送りしなければ私が怒られてしまいます」
 小脇に抱えていた軍帽を被り直したその陰から困ったように眉尻を下げるその様子に、少女はこらえきれずに小さな笑い声を漏らした。そして、はいと力強く頷き差し出された腕を取る。
 ふたりは石畳で舗装された道を、ゆっくりとした足取りで歩んでいく。ぽつりぽつりと灯る街灯に時折照らされながら、喧噪に包まれていった。触れあう手のぬくもりだけが、呼吸をしている。
「黄金のさかなの噂は、知っています」
 包んでいた静けさを破るように、彼がぽつりと告げる。小さな穴に言葉が吸い込まれていくように、しんと響いた。
「しかし、白いくじらの話は初めてです」
 その言葉に少女は照れたように微かに髪の間から覗く耳の先を赤らめる。そして、はにかみながら秘密ですよ、と囁いた。なかなか自分のことを語らない少女が、ひとつずつ自身のことを話すたびに、彼は柔く綻ぶ花びらを一枚ずつ捲っているような心地になる。そのたびに、怖れと歓びが綯い交ぜになった感情に襲われた。
「祖母が小さいころに教えてくれたのです。空を飛ぶ白いくじらの話。祖母もまた、小さい頃に教えてもらったのだと聞きました。ずっと昔、白いくじらを空が空を泳いでいくのを見たと、言うのです」
 いつか、わたくしも見てみたいとおもっています、と少女は空を見上げる。そして、なにかを諦めるようにそっと目を閉じた。少女の中で、様々な想いが巡ってゆく。
「お願いが、あります」
 少女は、彼の腕を引くように足を止めた。それは、もうすでに少女の暮らす屋敷の近く。人通りの少ない通りにさしかかったところだった。その辺りは、少女と同じように階級は高くないものの華族を名乗るような屋敷が立ち並ぶ一角。
 固い表情を浮かべた少女は、政略結婚の相手である彼を見つめる。少女はその一言を告げるべきか悩み、漸く告げる決心がついたのだった。少女にはすでに時間がなかった。
「どうしましたか」
 その勢いに押されそうになりながら、彼は穏やかな口調で応える。そして、少女の作り出す暫しの沈黙の中で、心地良く沈んでいた。
「海へ、ゆきたいのです」
 彼の袖を掴み、縋りつくように告げた少女の手をやさしく外し、その手を包み直す。顔にかかる解れた一筋の髪をそっと耳にかけ直した。やわらかい頬に、軽く指が触れる。彼の体温が少女に移る。
 いつでも、と温度の籠もった言葉が彼の口から零れる。僅かに腰をかがめ、視線の位置を合わせた彼が続けた。
「一緒に参りましょう。お供いたします」
 明日にでも、と付け加えれば、少女は嬉しそうに頬を薄紅色に染める。
「お約束です」
 ひとつ、深く頷いた少女はどこか寂しそうな色を浮かべながら、それでも安心したように微笑んでいた。
 夜の底から、水の匂いが漂っていた。

 ぱたぱたと、袴の裾が海風に煽られる。下ろした髪もまた、風に連れて行かれそうになるのを必死で抑えていた。深く息を吸い込めば身体中に磯の匂いが充ちてゆく。それは、少女をひどく懐かしいような心地にさせた。
 波打ち際を歩けば、僅かに高い波に足を取られそうになり、少女はゆっくりと歩を進める。その後ろを、軍服姿の彼が追いかけていた。
海に連れてゆきます、と約束をしてから数日の後、彼は本当に少女のことを海へと連れ出してくれたのだった。
 海軍に務める彼が、少女に見せてみたいのだと懇願し、その言葉に少女の両親も渋々頷いた。
「風が、とても強いのですね」
 波の音に負けてしまいそうで、少女は声を張り上げる。
「あまり、海の方に行っては危ないですから」
 そっと手を引かれ、濡れていない浜の方へと少女を誘導する。どこまでも青い空が広がっていた。少女の額に僅かに汗が浮かんでいる。
浜に手巾を敷くと、その上に座るように促す。少女は誘われるままにその上に腰を下ろした。
 ただ、ふたり並んで腰を下ろす。あたたかい日差しに抱きしめられ、少女の睫がふるりと震えた。そして、ゆっくりと瞼が閉じようとしていた。とろとろとした微睡みの中に、少女は落ちていこうとしていた。繭の中で身体が溶けてゆく感覚はこんな感じだろうか、と少女はぼんやりとおもう。少女から吐きだされた繭に包まれ、どろどろに溶けた身体はまた、成長するために再び形作られる。少女は繭の中ではなく、海の中で溶けていく。再び形作られる時、すでに少女の形はしていない。少女は海を自由に泳ぐ、さかなへと変わる。

 ふいに震動を感じ、少女は目を覚ました。微睡みから浮上した少女は、彼の腕に頭を預けていたことに気がついた。そして、震えたのが彼であることも理解する。
「どうされたのです?」
 ぼんやりと舌足らずな声で告げる少女に、彼は目を見張り空を指さした。どこまでも青い空を、白鯨が優雅に泳いでいた。
「白い、くじら」
 少女がふわりと立ち上がり、手を伸ばす。その手は鯨には届かない。それでも、触れることのできない指で、ゆっくりとその輪郭をなぞっていた。やわらかい曲線を、嬉しそうに微笑みながら。
 ふいに、少女は振り返る。黒い髪と着物を翻し。
「わたくし、みなさまを愛しておりました。しかし、帰らなければならないのです」
 わたくしたちの海に。
 高い音が、空に響き渡る。少女と彼が鯨を見上げる。鯨のうたが次第に低くなっていくのを、彼は聞いていた。視線を海へと戻すと、少女の姿はすでに消えていた。溶けてしまったように、どこにも居ない。飛び上がるように立ち上がり、慌てて海へと入っていく。足下が濡れるのも気にならなかった。
 少女の名を呼ぶ。もう、返る声はなかった。親の決めた政略結婚だったとしても、彼は少女のことを大切にしようとおもっていた。隣に居るのは彼女だと信じていた。
 視線を落とした先の水面に薄紅色の鱗が、波に弄ばれるように漂っていた。その鱗を拾い上げる。
「ありがとう」
 耳元で囁かれような気がして、振り返る。少女の姿はどこにもない。あの、空を優雅に泳いでいた鯨の姿も消えていた。
 ただ、晴れ渡るどこまでも青い空の下に、彼だけがひとり佇んでいた。

 ひとりの青年が、海辺をゆっくりと歩いていた。項にかいた汗を拭うことなく、海の方を眺めながらぼんやりと歩を進めている。不意に視界が陰となり、青年は驚いて頭上を見上げる。すぐ頭の上を、白いくじらが泳いでいた。
「また、会ったな」
 小さく、自嘲めいた口調で呟き、青年は掌のものを見下ろす。その中には、薄紅色の鱗が枯れない花びらのように鮮やかに乗っていた。
「私も、貴女を愛していましたよ」
 吹いてきた風に、その花弁を託し、海へと送りだす。海の泡のように消えてしまった人魚姫との、小さな別離。
 さようなら、と告げる声に、お元気で、と少女の声がしたような気がした。
 別離の言葉は、深い海の底へと沈んでゆく。


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サークル名:四季彩堂(URL
執筆者名:たまきこう

一言アピール
四季彩堂は、とある図書室の一番奥にある少女たちの忘れものを取り扱っています。本の忘れ物は主に洋風/現代風/和風ファンタジー中心です。片隅に刀剣乱舞の二次創作が積み上げられていることがあります。

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