機械眼

 箱舟とは経典の逸話に因んだ呼称だが、実際は地球中に築かれた広大な地下居住地を指した。箱舟には陽光も、天井のない空間もなかった。果てしなく壁と岩盤と剥き出しの土と階段の続く、出口のない迷路だった。人類は総体的に弱視化が進み、閉塞感から自殺者が後を絶たなかった。特に健視者の自殺率が高かった。全盲ならそもそも世界を見ずに済んだからだ。
 全盲のレムは電算局を解雇された。全盲者の雇用問題は深刻だった。勿論レムも手を打っていた。ボルノイ区のマーケットに存在する機械眼の闇ルートに宝石商を介して接触を測っていたが、資金源を失ったレムは光を得る術も失った。妻で健視者のマリは臨月で働けなかった。二日ほど息の詰まる時間が続いた後、レムはマリに水資源管理局に行くと告げた。マリが息を呑む音がした。

 機械眼にも、正規品と模造品がある。機械眼は水資源管理局の管轄で、闇ルートに出回るのは模造品だった。粗悪な模造機械眼は簡素な遺伝子工学で培養され、移植者の視力しか戻さない。人類の喫緊の課題は水資源の確保であり、管理局は機械眼の移植者を常に公募していた。機械眼の本来の用途は、人間を生きた水源発掘センサーに変えることだった。移植された機械眼は神経回路を被験者の脳へと伸ばし、接触を試みる。被験者と完全に同期した場合、機械眼はその並外れた機能を被験者に与えた。それは即ち、焦土化した地表への放逐、半ば約束された死出の旅を意味していた。
 管理局に出頭したレムは、機械眼が眼球の形状をした神経組織ではなく、ただの点眼であると知って驚いた。一日二回の点眼の服用、半月の経過観察の後、同期の有無が判明するのだそうだ。

 半月後、マリの畏れが現実となった。管理局からの電話で、マリはレムの同期を知らされた。三ヶ月観察が続くと局員が告げた。マリは無人の公団住宅で時折思い出したように泣いてレムを待つうちに、出産してしまった。正常な視力を宿した瞳を持つ、父親似の男の子だった。病棟のレムからは、カイと名付けて欲しいと連絡があった。レムの帰宅の日、マリは家の電気を全て消して回った。機械眼は光に過敏だと局員から聞いていたからだ。局員に付き添われて帰宅したレムを見て、マリは思わず口を手で覆った。両目を包帯で覆われたレムが、移植に失敗したと思ったからだ。局員がマリに言った。
「ご心配いりません。移植は成功しました」
 局員が家を辞すと、レムは言った。
「マリ、それを消してくれ」
 マリはペンライトを手にしていた。マリがペンライトを消すと、洞穴じみた家は完全な暗闇に包まれた。マリには傍のレムの姿すら見えなくなった。包帯を外す布擦れの音がすると、闇に二つの青白い燐光が浮かんだ。それはレムの二対の、機械眼の放つ光だった。
「あなた、眼が…」
 呻いたマリに、レムが囁いた。
「見える。君も、カイも」
 機械の瞳から青い燐光の滲む涙がふた筋、レムの頬を伝うのをマリは見た。
「…綺麗だ。本当に、なんて綺麗なんだ」
 暗闇の中で随喜の青い涙を流す、機械の眼をした男!マリの頭を占めたのは、これはもう私の知る夫ではないという思いだった。
「その眼で、どう地上の水を探すの?」
 一つの寝室に親子で寝た最後の夜、マリは尋ねた。レムは簡潔に答えた。
「もう今の地上には、水はないんだよ」
 レムによると、解放された機械眼は、時空の断面を移植者に目視させる。瞳孔から吸収された光が、機械眼の解放を移植者に促すのだ。箱舟の中で発展した脳科学は、人間の記憶を辿る能力に着目した。シナプスの過剰連鎖を促すと、人間は過去の断面を知覚することを臨床試験から証明した。地球を円周上に走るレールガンから粒子を超高速度で飛ばすと、時空の一点に孔を穿つ技術は既に確立されていた。かつて海があった地表の正しい座標軸にレールガンを飛ばせば、粒子が時空を貫通し、過去の膨大な海水が現在の同座標に雪崩れ込む演算が完成していた。問題は、地表の正確な座標軸の測定だった。マリは畏れを抱きながらレムに尋ねた。
「あなたには、今の私はどう見えるの?」
「今の、ありのままの君が。ここでは眼を解放したくない」
 翌朝、レムは普通の出勤のように家を出たが、突如レムが二度と戻って来ないことを察したマリの心が、石のように冷えていった。

 見渡す限りの、粘土のような灰色の焦土、砂漠、瓦礫の山。それ以外に何もなかった。見る者を荒ませる点では、地表も箱舟もさして変わりがなかった。地表に生命は存在しなかった。砂と浸食。風が吹くと灰色の粉塵が視界を覆った。人間は全身を覆う不格好な白い防護服なしには、三分と地表にはいられなかった。二人の護衛とレムを乗せたローバーは虫のように地表を這い、一週間でローバーの酸素と食料が尽きるとまた箱舟に戻り、海を発見するまで探索は続く。レムが壊れれば捨てられ、代員が補充されるだけだった。
 クルーの目には灰色に染まった光景も、機械眼を解放したレムの眼には、灰色の世界に上塗りされた、かつてのその土地の光景が、蜃気楼のように並列して現れた。氷塊に覆われた白い世界、森林の無数の緑などが何重にも積み重ねられた世界は、人間の知覚域を遥かに凌駕していた。様々な光景が不定形に揺らぎ、蠢く、時空の断面図。時間とは細胞のように結合分裂を繰り返す、連続する有機体だった。機械眼の開放は十分が限度で、レムの機械眼は過負荷で青く充血した。護衛の一人が、土気色の顔をしたレムに尋ねた。
「探索の間、少しでも見たのか?海を?」
「見た。何度か」
 身を乗り出した護衛を、レムは制した。
「ただ、時空の層によって、ずっと海じゃない場所ばかりだ。それではレールガンが、違った過去を穿つ可能性がある」
「海は、一体どんなだ?どう見える?」
 意気込んで尋ねる護衛に、レムは被りを振るばかりだった。海は無数の時空の中に蜃気楼のように一瞬浮かび、消えただけだった。膨大な質量の水の塊。今の地表と同じ、決して人間の住めない世界。レムは垣間見た海を畏れ、次にあれを見たらもう戻れなくなるという、暗い予感に一人打ち震えた。

 八度目の探索。レムはローバーの中で、既に磯の塩辛い匂いを嗅いでいた。機械眼の逸脱した機能は、視覚以外の感覚にも影響を及ぼすほど強烈だった。そこはかつてエベリャフと呼ばれた地点から、北東二百キロの位置。レムたちは黄土色の断崖の突端に立っていた。眼下には灰色の地平線が果てしなく拡がり、粉塵が強風と共に逆巻いた。断崖を見下ろすレムの機械眼は、青く暗い光に沈んでいた。
「崖の下に降りたい」
 レムの要望に従って渡されたロープで、一行は崖の下の地表に降りた。足を地面に下ろすと乾いた粉塵が舞い上がり、陽光を浴びて煙のように宙を漂った。レムは護衛を置いて前へ進み、機械眼を徐々に解放していった。ある時空に機械眼がフォーカスされると、いきなりレムの視界に真っ暗な灰色の塊が飛び込んできた。まるで壁のように聳える灰色の塊に全身を包まれたレムは、宇宙服じみたマスクの中でくぐもった悲鳴を上げた。水のもたらす光の屈折でねじ曲がって揺れ動く視界の中、レムは機械眼を最大まで解放させた。機械眼が青い血を流した。無数の時空の層が折り重なったが、それらの全てが光も差さない灰色の海に覆われていた。レムは背後の護衛に叫んだ。
「ここだ!ここが海だ!」
「本当か?」
 護衛の一人が叫んだが、レムは全く聞いていなかった。レムの口から絶叫が迸った。レムに視界に拡がるのは、まるで濃縮された原子のスープだった。膨大な質量の灰色の塊は、まるで固体の原形質のようだった。舞い上がるプランクトンの吹雪の中、レムは救いを求めて背後の護衛たちを振り返った。銀色の腹をした魚影の群れが流星のように横殴りに視界を覆い、その向こうに彫像のように固まった、防護服姿の護衛たちが見えた。全解放された機械眼が周囲の海と同じように、時空に並列する護衛たちの過去の断面を、レムに向かって現出させた。護衛たちの数十年の歳月はほんの一瞬で圧縮され、それがレムの眼には不定形の細胞の塊じみて見えた。機械眼はさらに過去を遡った。高速度映像のように、何十世代分もの精子と卵子の結合が海中で反復され、護衛たちは血脈が遡る度に背骨が湾曲し、黒い体毛を生え、腕が直立しても地面に届くほど伸び、やがて四足歩行の猿へと変わり、さらに加速して過去を遡った。
 全ての生命の起源が、この海に住まう生命に行き着いた。四肢は鰓と鰭に変じ、銀色に滑る鱗が表皮を覆い、身体が流線型に変じてうねった。護衛たちの塑像じみた顔、かつての哺乳類の顔、黒い魚眼を蠢かせ、鼻を失った扁平な口から錐のように鋭い歯を出鱈目に突き出した醜い顔が並列する多面体の塊となり、銀色に輝く尾が灰色の海をのたくった。魚はレムの眼前でさらに退化し、膜のように伸縮する白い袋のような身体を備え、先端が赤みがかった繊毛に覆われた深海の生命体にまで達した時点で、レムの脳髄が損壊した。
 身を案じた護衛たちが肩を揺すると、レムの身体は朽木のように無抵抗に倒れ、粉塵が舞い上がった。


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サークル名:WORLD BEANS(URL
執筆者名:江川太洋

一言アピール
ホラー小説専門の合同誌サークルです。
基本的にはかなりガチな路線で、怖がらせる為には、心霊から人体損壊まで手段は選びません。
今作では海から真っ先に連想しそうな、溺死体の亡魂に引き摺り込まれる、といった紋切り型は避けたいと思いました。
海が万物の生命の源ならば、恐怖の源でもあるに違いありません。

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