夜の海

 夜が水嵩を増していく。足先をちゃぷちゃぷと舐めていた汀は、やがてくるぶしを包み込んで、ゆるゆると甲を撫でた。わたしは恐怖を覚えて逃げようとしたけれど、夜は足首を鎖す枷のようにわたしの足を絡め取り、掬った。夜は深度を増していく。わたしが焦って藻掻くたび、夜は音を立てて楽し気げに笑った。
 周囲はいつのまにか、一面の夜だった。ほの寒い夜の気配はもう、わたしの震える膝小僧と戯れている。夜の表面は黒々として、光もないのにぬらぬらと光って見えた。眺めているうちに、夜は鏡に変化する。蒼褪めたわたしの顔が夜にうつりこんだ。夜は水面をゆうらと揺らしてくすくす笑いながら、そこにうつしたわたしの顔を弄んだ。弄ばれたわたしの顔は輪郭を得られず、醜く歪んでアメーバのように伸び縮みを繰り返している。わたしは、わたしの顔を思い出せないでいる。
 わたしは、わたしがなにになりたいのかを考えた。鏡にうつるアメーバが、わたしの心をうつして姿を変えていく。友達のなかで一番かわいいあの子。もしくは、誰とでも仲の良いあの子。あるいは、ピアノの上手なあの子。もしくは、あるいは……。誰かになることができたなら、わたしはきっと窮屈な殻を脱いで自由になれる、そんな予感がした。夜の表面で、わたしの憧れが星の群れになってきらきらと輝いた。うっとりするようなその光景に惹き寄せられて、わたしは指先で夜に触れた。途端に、触れた先から波紋が二重、三重と広がって、群れ集う星たちはちりぢりに逃げていってしまった。そしてわたしは、夜ではないなにかに触れる。それはふんわりと柔らかくて、弾力があって押せば押し返してくるような感触だった。表面はさらりとしているのに、どこか水を含んでいるように指先に吸い付く。そして触れているうちに、指先がじんわりとかすかな熱を帯びてきた。わたしは夜の向こうの、わたしの顔に触れていた。夜はいつのまにか遊ぶのをやめて、果てしなく続く一枚の透明な硝子になっていた。張り詰めた夜は、けれど触れれば難なくすり抜けてしまう。そこに存在するようでしていないのか、そこに境目などはじめからないのか。
 夜を透かして見つけたわたしは、瞼を閉じて、口元をゆるめて眠っていた。それは夜のなかで、身動きひとつなく、気泡を浮かべることもなく昏々と眠り続けている。穏やかとたとえるには、それはあまりに過ぎた静寂で、眠るわたしはまるでただの抜け殻のようにも見えた。けれど、わたしは知っている。閉ざした瞼の向こうの眼球は絶え間なく動いて、さまざまな夢をわたしに見せている。正常な意識下から放逐されたわたしの思考は、理想という夢を追ってどこまでも飛んでいこうとする。殻を脱いで、翅を広げて、なりたいものに変化する夢を見る。けれど、夢というのは結局のところ狭い檻でしかない。果てしなく飛ぼうと思っても、いまだ脆弱な翅で飛べる世界など限られている。無意識下に見る夢は、わたしの知らないものを見せてはくれない。そうして夢のなかに突然立ちはだかる現実の壁に、わたしの翅はひどく傷めつけられて、そしてまた夜の深みへと落ちていく。
 夜はまたゆらゆらと揺れて、そのたびにかすかな笑声を上げながらわたしの腰に巻きついていた。恐怖はもう麻痺してしまって、けだるい諦念だけが残滓のように残っている。わたしは、手の腹で夜を撫でた。夜の表面はじんわりと冷たいけれど、そのなかにも人肌のようなぬくもりがかすかにあるようだった。そのぬくもりに縋るように、わたしは夜に手を浸す。夜はゆるい速度で、わたしから体温を奪っていった。頭上を見上げると、いつのまにかそこに青白い月がぽっかりと穴を空けていた。その光を遮るものはなにもなく、その光が照らし出すべきものもなにもなかった。月の姿はわたしからははっきり見える。けれど、月はわたしを見つけられない。月はここからもっとずっと遠いところにあるもので、月にとってわたしたちは夜空の星々と同じように無数にあって、意味のあるような、ないような、そんな存在にすぎない。そのなかの誰かを見つけて殊更になにかを思うことなどあるはずもなく、月は冷めた横顔で天上をゆっくりと渡っていく。「助けて」と叫んだところで声はきっと届かない。それにもう、わたしの声は錆びついてどこにも届くことなどないだろう。
 夜が胸を呑み、鎖骨へ近づくと、さすがに息が苦しくなってきた。足の感覚はもう消え失せてしまって、立っているのか、浮いて漂っているのかすら定かではない。寄せて返す夜の音が、「おいで、おいで」と耳に心地よい誘惑を奏でていた。夜がわたしの全身の皮膚から浸み込んでくる。鼻の奥のほうから夜の香りがして、わたしはまるで酔ったようにくらくらしていた。わたしの外側も内側も、もうそこには夜だけがある。わたしは夜を彷徨う藻屑になって、いつかは夜のなかに溶けてなくなるのだろう。そう思うと、胸が震えた。夜になる、それはなんて魅惑的な結末だろう。殻から羽化して翅を得ても、傷ついた果てにどこへも行けないのなら、羽化などしないほうがいい。個であることを捨て去って、普遍の存在のなかにこの身を溶かすほうが、遥かに満ち足りて幸せになれると、そう思えた。
 夜が水嵩を増していく。夜が首筋に優しく触れて、次には優しさと裏腹の力強さでわたしの首の根っこを圧しこんだ。苦しくて、ちかちかと光の粒が乱舞する視界にちらりと映ったのは、空から落ちたわたしの死骸が夜のなかにたゆたう姿。周辺には折れて千切れた薄い翅の残骸が散らばって、夜の深みへ沈んでいく。ひらひらと頼りない翅の一枚一枚が、鮮やかな玉虫色に見えたのは、目の錯覚かもしれない。それでも、わたしはその翅を無性に掴みたくなって、もうほとんど窒息しそうな肺に一度だけ大きく息を吸い込んだ。そして、「おいで、おいで」と耳元で呼ぶ夜の声に、ひとつ、大きく頷く。瞬間、夜の声は爆ぜて、高らかな哄笑に変わった。まるで人ごみのなかにいるようなざわざわという騒音が聴覚を支配する。かと思えば、次の一瞬には、今度はそれらすべての音が耳のなかから消え去っていた。んー、とうなるような低い一音だけが、壁一枚隔てたような不確かな音でかすかに響いている。静寂が包む夜の世界で、わたしは玉虫色の翅を追って、夜の色の深くなるほうを目指した。
 わたしは夜の海へ沈んでいく。より遠く、深い場所へと、身体は引っ張られるように降りていく。きっとこの夜の底は夜明けだろう。再び目を開くとき、わたしは渇いた砂浜に横たわって、また一日を始める。新しくもない、もうとっくに使い古された日常を身に纏って生きる。そして繰り返し夜が訪れるたび、わたしの胸深くにある海は満ち潮を迎えて、わたしは夜じゅう、過去を顧みて、心に立ったさざ波の一つひとつを内観しながら、最後には息苦しい夜に呑まれて、何度でも沈んでいくのだ。


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サークル名:さらてり(URL
執筆者名:とや

一言アピール
一年ぶりのテキレボ参加です!新刊は、地図に載らない架空の田舎町で、高校生とかおっさんとかがうだうだ悩む話を出せたらいいな…!普段は、異世界だったり和風だったり宝石だったり、いろんな成分を含みつつファンタジー要素の強い小説を書いています。

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