炉心遊海

 僕の知る限り、椎名は活発な女の子であった。
 海辺に佇むサナトリウムに向かいながら、昔の事を思い返す。
 この星見海岸では近くに存在する高校の伝統的なイベントとして、光流しという行事が行われる。高校最後の夏休み前に、将来の夢や願い事、手紙などを書いて空き瓶に詰め、星見海岸から海へと流す。いわゆるメッセージボトルというやつだ。
 ボトルには高校の住所が書かれた防水性のラベルが貼られているので、運が良ければ誰かから返事やボトル自体が戻ってくる事がある。
 そうして奇跡的に巡り合ったボトルに書かれている願い事は、高確率で叶うとされていた。両想いになれるだとか、志望の大学に進学できるだとか、はたまた夢物語のような事も叶うという噂があった。
 椎名は十歳の夏、この星見海岸に訪れた。その日はとても晴れた日で、波の流れも比較的穏やかであった。それでも、入り江で遊んでいた椎名は海に落ち、流され、大規模な捜索も虚しく溺死として処理される事になる。と、あの日までは誰もが思っていただろう。
 葬儀も執り行われ、椎名の両親も、僕も、学校も平穏な日常に帰していく。その二年後、星見海岸から遠く離れた海で、椎名が仰向けで漂っているのが発見された保護した漁師は息を呑んだそうだ。当たり前である。二年前に亡くなったとされる少女が生きていたのだから。
 それに加えて、
 椎名を守るように一匹の鯨が寄り添っていたのだから。
 保護された椎名は連日、両親との再会もほどほどにあらゆるメディアに露出した。神の子。奇跡の少女。海の加護を受けた人間。椎名の姿を見ない日はなかった。家に帰る事も叶わず、椎名は国内の医療チームによって検査の日々が続く事になった。
 同時に、椎名を保護していたとされる鯨も注目を浴びる。
 本当に二年もの間、鯨は椎名を守っていたのかは定かでない。むしろ誰もがそんなものは夢物語だと一笑するだろう。椎名が何らかの要因で生き延びて、発見された日に偶然、側に寄り添っていただけ。そう考える方が賢明で現実的だ。
 しかし、誰もがその夢物語を無視できない出来事が続く。
 鯨の泳いだ付近では海の質が良くなり、朽ちかけていた珊瑚礁も回復もした。観察されている事に気付いたのか、更には難破した船を発見したり、漂流した人の捜索もしていた。極め付きは地震の予知だ。鯨が一際大きく鳴くと、その数分後、必ずどこかで地震が起きる。
 海洋学者達が鯨の行動や鳴き声の周波数を解析して、地震の発生源を予測する事に成功した。人類は災害を一つ、捻じ伏せたのだ。
 鯨は神の使いと呼ばれ、国内外から崇められる。
 一定の海域を鯨は住処としている。そこを起点として回遊しては異変を見つける。その場所はCー7海域と呼ばれる比較的安定したスポットだ。その安定さえも鯨がもたらしたものかもしれない。
 椎名とCー7海域を掛けて、鯨はシイナと呼ばれる事になる。
 それから八年が経った高校生最後の夏。椎名はまだこのサナトリウムにいた。椎名にも神掛かった力が備わっていないか。椎名とシイナに何か関係性はないか。椎名にはもう自由などないのだ。
 サナトリウムに着き、流れ出た汗を拭う。
 固く閉ざされた木製のドアがギィ、と鈍い音を立てる。中に入ると夏場だというのに静かな冷気が体に纏わり付く。歩く度に床がキシキシと鳴った。木製の建物には似つかわない鉄製の扉が僕を拒む。
 数度、深呼吸をする。息を吸って、淀みを吐いて。ノックをした。
 しばらくの間があった後、小さく「どうぞ」と声がした。
 ゆっくりと扉を開く。埃が小さく舞って光に反射する。
 中を覗くとシイナが体を起こしてベッドで休んでいた。枕元には文庫本が置かれており、数日前に来た時よりページが全然進んでいないのが気になった。ここでは他にロクな娯楽なんてないだろう。
「やぁ。いつも悪いね」
「今日は小川洋子の本を数冊持ってきたよ」
 椎名が椅子に座るよう手だけで促す。夏場だというのに窓は完全に締め切られていた。椎名いわく、海との感覚が鈍るから、だそうだ。
 行方不明から戻って来た椎名は口調や思考が大人びて、というより、生きる全てにおいて達観していた。僕の知っている幼く、それでいて明朗快活な椎名の面影はもうどこにもない。
 まるで昔の彼女は死んだように。別人になったように。
「君に伝えたい秘密があるの。とても面白い話よ」
「秘密?」
「私はね、海の景色が見えるのよ」
「そんなの」
 ここにいれば、僕にだって見える。秘密でもなんでもない。そのような僕の疑問を言外に受け取ってか、椎名が首を横に振って「あぁ、言葉足らずだったね」と口角だけを上げて微笑む。
「正確に言うと、海の中の景色を自由に見る事ができるの」
「海の中……」
「海で溺れた日、あれは夢でも見ているかのようだったわ。呼吸もできない。全身に力も入らない。海底に沈んでいく感覚だけを纏いながら水面の光をぼんやりと眺めていた。あぁ、私、死ぬんだ。って」
 あの夏の日、何があったのか本人の口から語られる。
「そこにシイナが現れた。遠退く意識の中、シイナが私に尋ねてきたの。『まだ生きていたいか?』って。私は『うん』と答えたわ。条件として、私の目とシイナの目を交換するように言われたの」
 思わず椎名の目を見つめる。今まで意識した事がなかったけれど、確かに椎名の目は人間のそれとは少し違う気がする。眼球は小さく常に下向きで、青白さが滲んでいるようにも見える。
「それから私はシイナの目を通して海の中を、シイナは私の目を通して地上の景色を覗いているの。なのにシイナは本ばかり読んでいるのよ。まぁ、サナトリウムの景色だけじゃつまらないのは解かるわ」
 にわかに飲み込む事のできない話ばかりだ。けれど、それを嘘だと否定する事もできなかった。実際、シイナの予知には神懸った力がある。溺死したとされる椎名が二年後に戻ってきたのも事実だ。奇跡にも近いそれは信じる信じないではなく、信じざるを得ないのだろう。
 視界を共にしたから椎名の人格が変わった。とでも言うのか。
「さて、ここからが本題だ。君にお願いしたい事がある」
「僕に?」
 こんな人智を超えた話に僕の介入できる余地はあるのか。
「海底プレートの境界に歪みが見つかった。それは海底探査機でも発見できない小さな歪みだけど、シイナは気付いたみたいだね」
 海底プレートの歪み。それはつまり、
「もうすぐ大きな地震が起きる、と」
「大きいとか小さいとかの話ではないよ。未曾有の震災レベルだ。首都は壊滅。あらゆる地域にも被害は及ぶだろう。逃げ道はない」
「その大地震は、……止める事ができるのか?」
「できるよ」
 私とシイナの命と引き替えに。と、僕を試すように微笑む。
「私は君が望む結果を叶えたいと考えている。未曾有の震災でこの国が瀕死に陥るか。私とシイナの命だけでこの国を救うのかを、ね」
 その問いに肯定も否定もできずに、ふと、窓際を見ると観覧車の絵が飾られていた。ちょうどここから見える観覧車と同じ構図だ。どうやらこの部屋から描かれたものらしい。僕に美術的側面の事は解らないけれど、それでもこの絵には惹かれる何かがあった。
「前に入院していた患者の忘れ物だろうね」
 額縁の下の方に汚れのようなものが見えた。目を近付けてみると表題が書かれているようだった。だいぶ昔の絵なのか、文字が掠れて読み取る事は叶わなかった。
「椎名が描いたのか?」
「まさか、私にそんな才能はないよ」
 無言が訪れる。地震を止めれば椎名は確実に死ぬ。けれど、震災が起きても椎名が死ぬとは限らないのだ。僕は椎名を救いたいのか。それとも椎名を見殺しにして、僕とこの国の安寧を手に入れるのか。
「意地の悪い質問だったね。君がどう答えようと、私は命と引き換えに震災を止めるわ。でも別に、使命とか正義感じゃないのよ。大地震が起きても止めても、私はどちらにせよ死ぬもの。それだけの話」
 それだけの話だ。本当に。それだけの。だから、
『私は君が望む結果を叶えたいと考えている』
 椎名の命か。確実な平穏か。臆病な心が揺れた。揺れる。
「僕は、」

     ※            ※

 深海に沈んでいく鯨を今でも鮮明に覚えていた。
 小学校低学年の頃、僕と椎名は息を潜めながら、一匹の鯨が暗闇に沈んでいく様子をテレビで眺めていた。幼いながらにも命が閉じていく感覚が恐ろしくて、椎名と力強く手を握り合っていた。
 鯨は死んだ後も海の生態に大きな影響をもたらす。息絶えた鯨の死骸を中心に、鯨骨生物群集と呼ばれる特殊な生態系を生み出すのだ。氷に覆われた凍てつく海の中、鯨は小さな甲殻類に肉を啄ばまれ、軟体動物に組織を分解され、バクテリアが集まり硫化水素を生成する。その硫化物を目当てに別の生物が群がるのだ。そして、命が連鎖していく。絡まり、朽ちて、ボロボロになった鯨が未知の生物に見えた。
 椎名の葬儀のさなか、あの時の鯨がふと頭をよぎった。シイナもやがて、海の生態に大きな影響をもたらすのだろうか。神の使いと崇められた鯨。その消失はこの世界に、一体、何をもたらすのか。
 そして、椎名である。
 神の使いと共に発見され、神の使いと共に命を全うした。
 死因は不明だそうだ。ただ、静かに眠っているかのようだった。
 椎名こそが神であると、死んだ後もニュースや賞賛の声が世間を賑わせた。二年ほど経った今、その喧騒も海の底へと沈んでいく。
 あの夏の日が蘇る。
 僕は、
『僕は、……ごめん。今はまだ、選べない』
『一応、悩んではくれるのね』
 そう言って、椎名が屈託なく笑った。掛け値なしの、光であった。
 結局、椎名の話が全て正しかったのかは解からない。結果論として未曾有の震災は起きなかったのだ。海の中の景色が見えるなんて、誰にも証明できないのだ。全て、椎名の詭弁だったのかもしれない。
 二年間の記憶がない。世界中から奉り上げられる。そんな恐怖と不安の中で、唯一その全てを正当化できる人格を創り上げた。それが、別人のようになった椎名の正体だったとしたら。
 厳かに葬儀が執り行われ、僕はそのまま星見海岸へと足を向けた。
 深呼吸を繰り返し、メッセージボトルを海へ放つ。
 優しい放物線を描く。
 光。
 様々な色が乱反射を起こした。
 スローモーション。
 光った。
 二度と会う事のない椎名とシイナに向けて。せめてもの手向けだ。
 メッセージボトルが後戻りできない距離まで流されて、彼方へと消えていく。ザザンと鳴り響く波の音を合図に、星見海岸を後にした。


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サークル名:感傷リップループ(URL
執筆者名:秋助

一言アピール
感傷リップループでは小説、脚本や短歌、ツイノベを中心に、主にテキレボや文学フリマ、ネットで活動しています。『炉心遊海』→海で行方不明になった後、二年後に再び海で見つかった椎名。地震を予知できる鯨のシイナ。椎名とシイナは互いの目を交換することになった。「未曾有の震災を止める事ができるよ。私達の命と引き換えにね」

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