すべてがかえるうみ

C[29] H[18] S[56]

 もう何年も前から使っている古いアパートの一室。
 基盤、筐体きょうたい、ケーブル、その他の資料やごみの山。自分でも把握していないものがどこかに埋まっている。夕暮れどき、小さな窓のカーテンの隙間から見える都会の町並みを見下ろしながら、煙草を吹かす。吐き出した煙はどこへともなく流れていく。
 必要なものを乱雑に積んだ90センチ四方のデスク。そこそこの値段がする、と言っても今や型落ちのセール品だが、快適な背もたれと肘掛けのワーキングチェアにもたれかかって、ぼんやりと天井を見つめる。
 三つのディスプレイから容赦なく浴びせられるブルーライトが電気の点いていない部屋の中を明るく照らしている。彼は、仕事が終わるのを待っていた。
「んー、時間かかり過ぎだなー。そろそろチューニングするか」
 誰に言うでもなく小言を漏らしていると、画面の後ろから木琴を叩くような小気味よい音色が流れる。
「はいはいよー」
 煙草をくわえたまま、画面の後ろにおもむろに手を突っ込む。タッチパネル画面のついた手のひらサイズの金属板の感触を得ると、それを掴んで取り出し耳にあてた。
「はいー、もしもし。浦島です」
 三つのディスプレイに向かって応答する。
「その件なら、今、まさに作業中ですよー。終わったら連絡するんで、じゃ」
 そう言うと、タッチパネル上の赤いボタンを押して通話を終了した。
「いちいちうるさいなあ。ああいうやつは絶対出世しないわ」
 ぶつぶつと文句を言いながら、やけにボタンの多いキーボードをカチャカチャと叩く。その音は部屋中に散乱した物体が片っ端から吸い取って、一種の防音室のようだった。
「さすがに一人でやるのは面倒臭すぎるぜ」
 ディスプレイの背景に設定している白い砂浜。青く透き通る海のさざ波を横目に、黒地に白いフォントが浮かぶウィンドウをいくつも開く。それぞれのウィンドウ内で、手際よくコードを書き換えていく間も、煙草はどんどん燃焼を続けていた。吸っては白い煙を吹きだす行為を何度か繰り返した後、煙草を吸殻の山の奥に押し当てて火を消す。そして、流れるようにもう一本を箱から取り出して火をつける。浦島は美味そうに吸い込んでから白い煙を吐き、吸い始めた煙草を、吸殻に満ちた灰皿の隅に置いた。
「まだ終わらねーし、暇潰しにちょっくらダイブしますかね」
 デスクの脇にかけてあるヘッドホンのような大振りのヘッドセットを付けて、耳元にあるボタンを押す。その瞬間、彼の体は光になってディスプレイの一つに吸い込まれる。
 後に残ったのは、閑散とした部屋に響く機械の駆動音と、立ち上る一筋の煙だけだった。

> ***** TRANSFER COMPLETE (INSTANCE) *****

 寄せては返す波の音の中、彼はゆっくりと双眸を開いた。見渡す限りの白い砂浜を見渡して、誰もいないことを確認すると、ようやく我が家に帰ってきたかのように大きく伸びをした。そして、砂浜のような場所に、ドサッと仰向けに倒れ込んだ。
「うーん、今日も清々しいね」
 眼前に広がる景色とは裏腹に、潮の香りもしなければ、肌がべたつくこともない。その無機質な空間に、彼は満足していた。
 しばらくの間、波の音に耳を傾けていた浦島の平穏を乱すものが現れた。
「また、ここか。お前、病んでるのか?」
「うるせえ」
 彼は浦島の顔を覗き込んで、開口一番、笑いながら難癖をつける。
「悪かった。昔からだったな」
「あー、はいはい。木江様の言う通りでござんす」
 木江と呼ばれた男は、浦島と同じように隣に寝転んだ。
「まあ、確かに。ここはいつ来ても静かで落ち着くんだよな」
「だろ? 見つけた俺に感謝しな」
「しねえよ」
 談笑する二人の声が青い空に抜けては消えていく。

> ***** DATA SALVAGED *****

 小さなネオンサインのような文字が、浦島にだけ見えるように浮かび上がった。
「あ、終わったわ」
「いつものやつか? ていうか仕事中に来るなよ」
「お前も口うるさくなったな。いや、昔からか」
「はー、悪かったなあ。さっさと行け」
 目を逸らして臭いものを追いやるように、笑いながら手首を振る木江。浦島は怠そうに上体を起こして「じゃあな」と言い残すと光の泡になって消えた。

> ***** CARRIAGE RETURN *****

 吸い残した煙草は、線香のように本体のほとんどを灰に置き換えていた。それは、浦島がワーキングチェアに戻った拍子に崩れ落ちた。
「やべ、そんなに経ってたか。やっぱり近いうちに再チューニングするしかねえな」
 ヘッドセットを外してデスクの脇にかけてから、灰皿からディスプレイに視線を戻すと、いくつかのウィンドウが“Your access to the server has been denied…”の文字を出力して停止していた。
「は? ちょっと待てよ。そんなことある?」
 他にも陰湿な罵詈雑言をディスプレイの中の何かに浴びせながら、キーボードを強めに打鍵する音が部屋に響く。
「いやいやいや。だから、そうじゃねえでしょ。こっち? ねえ、こっち?」
 今に始まったことではないが、独り言がそれとは思えないほどの声量になっていく。それと同時に、打鍵する指にも力が込められる。
「あー、あかん!」
 浦島は少し震えた指先で、煙草の箱を乱暴に掴んだ。箱は紙が擦れる音を立てて潰れた。
「こんなときに切れるか? 糞ったれが!」
 紙屑に成り果てた煙草の空箱を部屋の隅に投げて、またヘッドセットを装着する。
「やりたくねーけど、今日はこっちで我慢するか」
 浦島はヘッドセットの耳元にあるボタンを押した。

> ***** TRANSFER COMPLETE (TEMPORARY) *****

「おう、おかえり。早かったな……って、その顔。まだ、終わってねえな」
 さっきと同じ砂浜。浦島は砂浜の到着した場所から、海のほうへ向かって歩いていく。
「ちょっと気分転換してくるわー」
「いってら。気をつけてなー」
 まるで感情を失ったような、抑揚のない簡素なやりとりを交わして、寝そべる木江をよそに浦島は歩いて海に入っていった。

> ***** ENTER THE SEA *****

 視界が一瞬で青い透明な液体のようなものに満たされた。
 どこまでも続く白い砂の足場に、上空から水面を通して差し込む陽光が光の柱となっている。それはゆらゆらと揺れて、幾重にも重なる光の筋を水底に作り出している。ある程度の距離までは視認できるが、それより先はグラデーションする青に埋め尽くされていて、ブルースクリーンを彷彿させる。
「この景色は何度見ても慣れないわ」
 後ろ頭を軽く書いて、何もないほうへ向かって歩いていく。
 やがて、一段深くなる場所に辿り着いた。
「こっちだっけか? 久しぶりだから覚えてねえな──」
 浮力によって軽くなった体で、崖を飛び降りる。ゆっくりと体が沈んでいくにつれて軽快なビートを刻む音楽がフェードインしてくる。視界には “HELLO WORLD”、“WELCOME TO THE SEA”、“PLEASE ENJOY YOURSELF”といった大きなネオンサインのような文字が次々と視界に現れ、水底にはたくさんの人やモノが行き交っていた。
「はは、相変わらず盛況ですこと」
 人は遠くの方から、次々と気泡に囲まれて現れ続ける。上空に表示されているデジタル数字が表す同時接続数は目まぐるしく変わり続けている。自嘲するような笑いを浮かべた浦島は、人波をかき分けながら目的地を目指して進んだ。
 しばらく行ったところで、一本裏の道に入る。そこはメインストリートよりも暗く、青よりも紫に近い色がメインカラーとして使われていた。何より、道を歩く利用者の姿が実に際どい。
「こっちも相変わらず、か」
 豊満な胸、白い肌、ビビッドカラーのタイトな服装。浦島がどっちを向いても、目のやり場に困るばかりだった。その中でも、より人通りがまばらで、より静かな方へ向かっていく。遠ざかる喧騒と派手な建物を尻目に、浦島はこぢんまりしたコンクリート風の建物の前で立ち止まった。そして、数年ぶりに勇気を振り絞って、入口のドアを開けた。
 浦島の視界は暗転して、小さなネオンサインが視界に浮かぶ。
「はあ、ここも古いままかよ、呆れる」

> ***** SYNCHRONIZE INFORMATION *****

 再び明瞭になった浦島の視界には、目に見えるほどの香の煙が漂う中で、一糸まとわぬ姿の女性たちが行き交う光景が広がっていた。そして、様々な胸、体、髪、瞳を見比べながら、イライラを発散してくれそうな相手を物色する。目が合った女性は、一人残らず微笑み返してくれる。ほとんどハーレム状態にある自分に酔い痴れていると、ひときわ目立つ女性の姿が目に入った。
 薄暗い店内の照明に反射して陽光のような輝きを放つ金髪、涼し気な切れ長の目と細い眉、灰色の瞳が浦島の心を一瞥で貫いた。その女性は、愛想のない社交辞令的な微笑みを少し浮かべると、視線を切るように目を閉じて体を背け、ゆっくりと落ち着いた足取りで店の奥へ行ってしまった。
 つられて行ってしまいそうになる足を辛うじて自制した浦島は、すぐに踵を返して店を飛び出した。そして、何かに急き立てられるように、表通りから元来た場所へ浮上する。

> ***** LEAVE THE SEA *****

「おつかれさん、ちゃんと発散できたか?」
 白い砂浜で、仰向けに寝そべったままの木江が、ぼんやりと尋ねる。
「それどころじゃねえ!」
 その怒鳴り声にはドップラー効果がかかったのかと錯覚するほど、全速力で木江の横を駆け抜ける浦島。
「お盛んですこと」
 浦島が泡となって消え、ただ波の音が残る砂浜で、木江は小さく呟いた。

> ***** CARRIAGE RETURN *****

 窓の外は、すっかり夜の帳が下りていた。
 煌々と輝くディスプレイが照らし出す、煙草の臭いが充満した、暗い部屋に戻ってヘッドホンを煩わしそうにもぎ取ってその辺に投げ捨てた。
「はいはい、ワダツミちゃん、汚名返上の機会ですよお~」
 弾むような声で話しかけながら、リズミカルに打鍵をして最後に“Enter”と刻印されたキーを勢いよく叩いた。しばらくの間、いくつかのウィンドウが開いては閉じ、任意のディレクトリにデータが収集されていく。
 ──はずだった。
 浦島の予想に反してすぐに、ディスプレイには“DATA SALVAGED”と表示されたウィンドウが開いて、動作が止まった。
「……早くね?」
 また“Enter”と刻印されたキーを押下すると、新しいウィンドウが開いた。そこには、記憶に新しい彼女の顔の画像ファイルが一つと、極小サイズのテキストファイルが一つ、格納されているだけだった。その様子を見た浦島は、唸りながら頭を掻いてテキストファイルを開いた。
乙姫おとひめ、か」
 そこにあったのは、彼女の名前と簡単なプロフィールのみで、浦島が知りたかった詳細な情報は毛ほども記されてはいなかった。こんな名前が実名であるわけがないだろうし、誕生日や血液型など、今の浦島にとってはどうでもよかったのだ。
「さて、どうしたものかね」
 仕事を放り出したままワーキングチェアの上で四肢を投げ出した彼は、もはや、乙姫という女性にコンタクトを取る方法を考えることで頭がいっぱいだった。

> ***** TRANSFER COMPLETE (TEMPORARY) *****

「それで、また戻ってきた、と」
「とりあえず、な」
 代わり映えしない砂浜で、木江と浦島は揃って腰を下ろしていた。
「お前が凝り性なのは知ってるが、ほどほどにしとかないと、いつか痛い目見るぞ」
「大丈夫、大丈夫」
 浦島は水平線を見つめながら、お座なりな返事をする。
「もっかい行って、話してみるか?」
「それしかないよな」
 少ない情報のなかで、二人の意見に相違が生まれる余地はなかった。
 掛け声とともに勢いよく立ち上がって腕まくりをする仕草をした浦島を見て、木江は言った。
「天才も老いには勝てないのな」
 笑っている木江を無視して、左手で空を切るような身振りをすると、浦島の前に小さなネオンサインのような“ABBREVIATION”という文字列が浮かび上がった。
「言ってろ」
 捨て台詞を吐いて、その文字に触れた浦島の体は、足元から泡になって消えた。

> ***** START MACRO ABBREVIATION *****
> ***** ENTER THE SEA *****
> ***** SYNCHRONIZE INFORMATION *****
> ***** SUCCESSFUL TERMINATION *****

 妖艶な雰囲気に包まれた薄暗い店内に突如として現れた浦島に対して、すぐ近くにいた何人かの男女が視線を投げる。そして、実態が何の変哲もない男だと分かった途端、みな視線を外して、また下卑た笑いの中で各々の遊びに興じた。
 浦島自身も、そんな周囲の様子など気にもとめず、備え付けのバーカウンターを目指した。
「なあ、ここに乙姫ってヤツがいるよな?」
 そして、カウンターにいた別の客と、カウンターの中にいるバーテンダー風の男性との会話に割って入るようにして、ぶっきらぼうにものを尋ねる。少しだけ驚いた様子を見せたバーテンダー風の男が浦島に答えた。
「え、ええ。確かに。こちらにおりますが」
 満足そうな浦島に対して、カウンターで談笑していた客のほうは、一変して険しい目つきになった。
「お前、急に入ってきて何なんだ?」
 さきほどよりも明らかに声のトーンが低くなっているが、浦島の好奇心の前には取るに足らない些末なことだった。
「すまんな、すぐ終わるからちょっと黙っててくれ」
 邪険にされた客は、手にしていたジョッキをテーブルに強く打ちつけて、中身が飛び散るのも意に介さず、両足を広げて立ち上がった。それから、浦島の肩を突き飛ばして自分と対面させると、すぐさま振り上げた拳を浦島に目がけて繰り出す。そして、彼の放った一撃は、浦島の顔面に的中し、バーカウンター辺りにあった円卓の上に、大きな音を立てて仰向けに倒れた。
 他の客がざわめきだして、バーテンダー風の男性がカウンターごしに、男を諫めようとする。
「お客さま、困ります。店内では、他のお客さまのご迷惑になりますので……」
「うるせえ、俺も客だ! それにふっかけてきたのはコイツだぞ!」
 興を削がれた男はカウンターの中に向かって怒鳴り散らしてから、浦島の胸ぐらを掴んで、もう一発お見舞いしようと握り締めた拳を振りかざす。
「やめて」
 酔いと怒りによる興奮で我を忘れた男の、分別のない行動を制止したのは、彼の後ろから響く澄んだ女声だった。
 浦島の霞んだ視界の中で、最初に出会ったときと寸分違わぬ彼女の姿が、まるで女神のように見えた。
「彼、私の連れなの、離してくれる?」
 哀れな姿の浦島を指差した彼女は、浦島を掴んだまま呆気に取られている男の返事を待たず、店内に生じたどよめきをかき消すように、高いヒールの靴音を響かせて二人に近寄った。やがて足音は浦島の横で止まり、恐らく二人にしか聞こえないほどの小さな声で女が囁いた。
「いきましょう」
 その艶めかしい声は、男の力を奪い、浦島を魅了した。女は流れるような足取りで出入り口へ向かい、浦島は解くまでもない男の手から逃れて、従者のように女の後について店を出た。
 二人が去った店内は、しばらくしないうちに、元の喧騒を取り戻していた。

C[29] H[01] S[47]

「あ、あんた、乙姫か?」
 ノースリーブのタイトなワンピース姿で、腰まではあろうかという長い金髪をなびかせながら、颯爽と前を歩く女性に向かって、興奮冷めやらぬ浦島が慌てて問いかける。
「それよりも、まずは『ありがとう』じゃない? 私のおかげで助かったの、分かる?」
 彼女は肩越しに無遠慮な浦島を一瞥して、うんざりしているように短く鼻で笑った。
「あ、すまない、ありがとう、助かった」
 ばつが悪そうに頭を掻く浦島は身体を丸めて謝罪と感謝を口にした。それから沈黙したまま、まるで金魚の糞のように、ずっと後ろをついて歩いていると、前を歩いていた女性が急に振り返った。
「いつまで私についてくるつもりなの?」
「いや、その──」
「私も暇じゃないんだけど」
 胸の前で腕組みをした彼女が睨むように細めた目に、思わず威圧されそうになって目を逸らした浦島が口を開く。
「もし、あんたが乙姫なら、今度、飲み直さないか? お礼というか、なんというか……」
 いぶかしげな表情で浦島の言葉の裏を窺っていた女性は、やがて口を開いた。
「いいわ、そこに連絡して頂戴」
 言い終えるが早いか、踵を返して歩き出す彼女の指差した浦島の胸元には、ファイルの受け取り確認を促すメッセージが表示されていた。

> YOU GOT CONTACT FROM “OTOHIME”. ALLOW IT? (Y/N)

 浦島は、是非も無く“YES”を選択して、乙姫の連絡先を手に入れた。

> ***** DISCONNECTED (NO RESPONSE) *****
> ***** LEAVE THE SEA *****

「おーい、浦島、生きてるか?」
 打ち寄せる波間に聞こえる声と、視界をチラチラと遮る木江の手が、煩わしくなって払い除ける。
「ああ、お前のせいでせっかくの余韻が台無しだわ」
「ほお、そうかい。間違っても俺でヌくなよ、色惚けさん」
 反射的に言い返そうとした浦島が、視線を海面から木江に向けたときには、ひらひらと揺れる彼の手首が泡になって消えていくところだった。それからしばらくして、浦島も自分の城に引き返した。

> ***** CARRIAGE RETURN *****

 小鳥の鳴き声が、彼の小さな部屋に虚しく響く。カーテンの隙間からは、あの砂浜とは比べ物にならないほど強い光が差し込んでいた。ヘッドセットを外してそっとデスクに置く。輪郭の曖昧になった理性で、おもむろに立ち上がった浦島は、おぼつかない足取りでふらふらとベッドに近寄り、萎えるように身を委ねて惰眠を貪った。
 じんわりと浮上した淡い意識の中、時を告げる鐘の音が遠く聞こえる。仄かに肌寒い空気が、膀胱内圧の上昇による神経の刺激を強引に思い出させ、よだれを垂らして眠っていた浦島の眉根に皴が寄った。重い瞼を持ち上げては閉じ、呻き声を上げつつ体を引き剥がして、漏れた唾液を拭う。そして、渓谷のように出来上がっている道に従って、上体を左右に揺らしながらトイレのほうへ向かった。
 慣れた手つきで用を足して出てきた浦島は、カップ一杯の水を汲んで飲み干し、型落ちのコーヒーメーカーに電源を入れる。そのまま、水を飲んだカップをコーヒーメーカーにセットして抽出ボタンを押した。
 コーヒーメーカーの抽出完了を知らせる音で我に返った浦島はカップをもってデスクに座ったところで、煙草が切れてることと、まだ乙姫に連絡していないことを思い出した。
 連絡用の携帯端末を手に取り、静電容量方式のタッチパネルを指で叩いたり撫でたりして、乙姫のアドレスを画面に表示させる。空いた手でカップを持ち、ズルズルとすすりながら器用に要件だけを入力していく。
「日時、場所、候補も、これで、いいな、送信」
 内容をざっと目検して“送信”の文字に触れる。すると、画面上に“送信完了”と書かれたウィンドウが表示され、そのウィンドウの“OK”ボタンに触れる。それから、コーヒーをもう一口すすった。
 あと二口も残っていないカップと携帯端末をデスクの上の隙間に並べて置いて、お気に入りの銘柄の煙草を5カートン注文する。、注文完了画面に映る法外な値段が目に入って、うっすらと仕事のことが頭をよぎった。
「そういえば、終わってねーな、あれ」
 前回の続きから作業を再開しようとシステムを起動した瞬間、携帯端末が小刻みに振動する。光った画面に浮かぶ受信通知に加えて“乙姫”の文字が見えたことで、浦島は苛立ちを抑えることに成功した。そして、一緒に表示されている内容のプレビューを覗き込んで、携帯端末を手に取るのをやめた。
「『了解』だけって、愛想なさすぎだろ」
 しかし、キーボードを叩きながら考え直す。
「いや、初対面の男に愛想よくしても、何の価値もないな」
 浦島は約束の日時まで、乙姫に会うことをご褒美と称して、仕事に明け暮れた。

C[30] H[19] S[52]

「遅れて、ごめんなさい」
 舗装された道路にヒールの音が響いた。
「いや、今、来たところ、だから」
 以前の“海”で会ったときよりも均整のとれた美しい体に見惚れて、きざな台詞も形無しになった。機械的な情報の集合では補えないほどの、たおやかな女性としての佇まいに気圧されながらも、視線は釘付けだった。
「待たせた分の埋め合わせと言ってはなんだけど、これ」
 小さくて高そうなハンドバッグから乙姫が取り出したのは、さらに小さな小箱だった。
「有名な洋菓子屋さんの限定ショコラなの。良かったら貰ってくれないかしら」
「あ、ああ」
 差し出された小箱をそっと受け取ると、鞄の中の隙間に固定される場所を作って、割れ物を扱うように丁寧にしまった。
「じゃあ、行こうか。すぐそこのバーなんだ」
「ええ」
 連れ添って歩く様子は、傍から見ると付き合いたてのカップルのようで、互いに一言も交わさないまま、洒落た立て看板が出ている店に入った。
 扉に設置されたドアベルの音に続いて、入ってすぐ右手にあるカウンターの中から「いらっしゃいませ」と声がした。そこには、こちらを向いて微笑む見知った顔があった。
「おう、よろしく」
 浦島は軽く右手を上げて挨拶して、カウンターの中に男性に会釈した乙姫を伴い、一番奥の席に腰かける。鞄を足元のかごに入れて顔をあげると、長く艶やかな髪をかき上げる彼女の顔が耳元に迫っていた。
「よく来るお店なの?」
 深い青色を基調として、静かなクラシック音楽が流れる店内に、いろどりを添えるような心地よい声が鼓膜を揺らす。
「ああ、知り合いの店なんだ」
 体を引いた乙姫の残り香は、今まで嗅いだことのない官能的な甘い匂いだった。
「つ、連れ込むみたいで何か悪いな」
「いいわ、気にしないで」
 笑いながら横目でカウンター内を見た浦島に対して、乙姫はただ伏し目がちに答えた。
 沈黙。
 換気扇の音。
「お客さん、注文は何にしますかね?」
 その居た堪れない雰囲気をとりなすように、バーテンダーが置き時計の針よろしく静かに、しかし、はっきりと尋ねた。浦島がその声のしたほうを向くよりも早く、乙姫が注文をしていた。それは、浦島も知っているテキーラベースのカクテルだった。
「あ、俺も、同じやつを」
「かしこまりました」
 出会った夜とは違って、他に数人の客が出入りするだけの静かな店内で、しばらくの間たわいない話をしてから、乙姫が先に席を立った。
「ありがとう、楽しかった。少しだけ」
「それなら良かった」
 浦島は食べかけのピスタチオを口に放り込む。
「じゃ、また」
 飲んでいる最中に脱いだ羽織と、小さな鞄を持つと、カウンターの中に向かって「ごちそうさまでした」と言って店を後にした。
 一人になった浦島は、やや高揚してはいたものの、いつも通りの夜を過ごした。
 それからというもの、稼業をこなす日々を過ごすうちに、今度は乙姫から連絡があった。何度か最初に飲んだバーで話す中で、互いに似たような仕事をしていることが分かった。とはいえ、浦島が普段から手を出している危ない案件については伏せたままだったが。それでも、乙姫と意気投合した浦島は、ますます彼女に惹かれていったのだ。
 仕事終わりに天井を見つめて一服ふかしていると、携帯端末から着信を告げるスペーシーなチルアウトが流れた。
「はい、浦島ですけど」
「もしもし、私です。良かったら、今から飲みに行きませんか?」
「あ、いいッスね。いつもンとこでいいッスか?」
「ええ、大丈夫です。では、後ほど」
 通話を終えた携帯端末を机の適当な場所に置くと、襟ぐりがヨレヨレのスウェットを脱いで、洗い立ての洋服に着替える。駅に向かう彼の足は、心なしか急いでいた。そして、店の前に着くと、すでに手首に視線を落とした乙姫が待っていた。
「いつもいつも、悪いな」
「分かってるなら、もっと早く出てくれば良いと思いますけど」
 まんざらでもなさそうな乙姫に対して、大げさに、かつうやうやしくドアを開けてエスコートする。
 響くドアベル、落ち着いた店内、最初のオーダーは決まって同じもの。
 二人は本当の意味で“憩いの空間”を手に入れたのだ。
 たとえ電気信号の羅列であったとしても、その意味が変わることはない。


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サークル名:テトラツインテヰル(URL
執筆者名:¥堂 文景

一言アピール
017年に発足した、¥堂文景の個人サークルです。一次創作の小説を書き、主にコミティアやコミケで頒布活動をしています。生まれたての小鹿のように、足元がおぼつかない状態ですが、生温かい目で見守っていただければ嬉しいです。

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この作品の感想で一番多いのはどぼん!です!
この作品を読んでどう感じたか押してね♡ 海だぁー!って思ったら「どぼん!」でお願いします!
  • どぼん! 
  • ごちそうさまでした 
  • 楽しい☆ 
  • しんみり… 
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