月のない夜

 これは、この広い世界のどこかで起きていたかもしれない、ある国々の人々の物語である。

   ***

 その夜、王女は運命から逃げ出した。

「マリーナ様、今晩も調子が優れませんか?」
 ベッドに横たわる王女に、傍らの椅子に腰掛ける召使が声をかける。
「そうね……でも大丈夫よ。今晩は一人になりたいのだけど、いいかしら」
 王女が絞り出すような声で尋ねると、召使から「もちろんでございます。仰せのままに」という返事が返ってきた。
「ありがとう。あなたも今晩はゆっくり休んで頂戴」
「お気遣いありがとうございます。それでは、お言葉に甘えて」
「おやすみなさい」
「おやすみなさいませ」
 ぱたん、と扉が閉まる。王女はそれを確認すると、するりとベッドから抜け出した。
(気持ち悪い……)
 体調は最悪だった。しかし今晩しかない。次の新月を迎える頃には、自分はもう、北の国に嫁いでしまっている。
 王女は胃がひっくり返りそうになるのをこらえながら、予め用意しておいた街娘の服に着替えた。そして、足音を忍ばせ、そっと部屋の隅へと向かった。
「……うっ……」
 力を込めて石造りの壁を押す。それは隠し扉で、城内でもその存在を知る者は少ない。
「よ、大丈夫か?」
 隠し扉の向こうから声がして、扉が急に軽くなった。
「兄さま」
 扉の向こう側に控えていた「兄さま」と呼ばれた少年は、王女の実の兄ではない。彼女より一つだけ年上のその少年は、かつて王女の身代わり役を務めていた海軍提督の子息で、彼女の幼馴染である。
「さぁ、こっちだ」
 少年に手を引かれながら、らせん状になっている石段を下りる。通気口が点々とあるのみの階段は暗く、少年の持つ小さなランプだけが頼りだった。
「大丈夫か」
 階段を一番下まで下りたところで、少年が振り返った。
「えぇ」
 王女の返答を確かめると、少年は、外へとつながる小さな通用口に手をかけた。間もなく、外を流れる夜風が、二人の頬をくすぐるように優しく通り抜けていく。
「……どう?」
「しっ! 静かに」
 少年は左右を何度も見やり、見張りの兵士がうろついていないことを確かめる。そして猫のような慎重さで一歩を踏み出し、今度は少女の手を引いて、また一歩を踏み出した。
「走るぞ」
 通用口の扉を静かに閉めて、少年は言った。王女は黙って頷き、少年の後に続いて駆けだした。

   ***

「何だ?」
「っ! 隠れろ」
 見張りをしている兵士の声がして不自然に彼らの持つランプが揺れる度、二人は近くの植え込みや建物の陰に身を潜めなければならなかった。
「誰かいるのか」
「おい、どうした?」
「いや、妙な物音がして」
「気のせいだろ」
「しかし……」
「気が立ってんだよ。明日がアレだからさ。そんなんじゃ、明日までもたねぇよ」
「あぁ……」
 彼らの会話を、隠れる二人は息を呑んで聞いた。
「……」
「……」
 兵士たちの気配が遠のいていく。
「……行こう」
「えぇ」
 兵士の気配が完全に消えると、身を屈めたまま、二人はまた城外に向かって進んでいくのだった。

   ***

「はぁ……」
「とりあえずここまで来れば追っ手は来ないだろうが……とにかく早いうちに城から離れるんだ。まだ走れるか」
「えぇ、大丈夫」
「よし。行くぞ」
 見張りを上手くかわして城外に出た二人は、寝静まった街を駆け抜けた。幼い頃に、毎日のように駆け回っていた城下町。夜の風景は見慣れたそれとは少し違って見えた。
「兄さま……待って……」
「ん? どうした? 具合悪いのか」
 立ち止まった二人の呼吸が、やけに大きく響く。
「ううん、違うの……最後に、行きたいところがあって……」
「……?」
「あの岬に……連れてって……」
 王女の言葉に、少年の目つきが険しくなる。
「そんなこと……」
「……お願い」
 異論は認めないと、その声は言っていた。
「……分かった」
 少年は強く王女の手を握りしめ、再び走り出した。
 城下町の大通りから東に逸れ、脇の小道を行くとだんだんと民家が減ってくる。その先に王女の言う「岬」はあった。高い崖になっており、眼下には大海原が広がっている。満月の夜には水面にくっきりともう一つの月が浮かぶのだが、新月の今宵、岬の向こうにはただ真っ暗な闇が広がるだけだった。
「きっともう二度と、来られないから……」
 岬の先端で足を止めると、王女は呟いた。
「ここで、兄さまに、花冠の作り方を教わったのよ……」
「ガキの頃の話だろ」
「この花、今も変わらず咲いているのね」
 足元に群れて咲く白い花々に目をやりつつ、二人はゆっくりとその場に腰を下ろした。
「……これもここで、兄さまから貰ったのよ」
 王女は首に着けたネックレスをすっと顔の前に掲げた。小さな真珠が針金で固定してある。
「そうだったな」
 少年はふいとそっぽを向いた。
「私の結婚の話を聞いて兄さまが家出したとき、私がここで兄さまを見つけて」
「やめろよ」
「だって、ほんとに心配したのよ? 私が家出したいくらいだったのに兄さまが飛び出してしまうから、私は何も出来なくて。頭きちゃう」
「あの時、お前、本当に怒ってたよな。俺に飛びかかってきて。野生の熊か何かみたいだったぞ」
「失礼ね!」
 二人はくすくすと笑った。
「家出するくらい嫌だったの?」
「お前も嫌だったろ」
「……北の国になんか、行きたくない……」
「当たり前だ。あんな戦争ばっかしてる国になんか、誰が喜んで行くんだよ」
「……これで、良かったのよね……」
 王女は夜空を見上げた。一面に散らばる無数の星々が、宝石のようにちかちかと光を放っている。
「……もう、死んで償うなんて言うなよ」
「言わないわ」
「ちゃんと産めよ」
「分かってる」
「……」
「……」
 それからしばらく、沈黙が続いた。二人はただじっと、真っ暗な海を見つめていた。
「……さてと、時間がない。そろそろ立てるか?」
 少年がおもむろに膝を立てる。
「えぇ」
「行こう。今度はお前を、家出させてやる」
 二人は立ち上がり、服についた草や土を払った。
「兄さま」
「ん?」
「……ありがとう。愛してるわ」
「……あぁ、俺も」
「たとえこの先、二度と会えなくても、ずっと」
「分かってる……行くぞ」
 王女は頷き、駆け出す少年の後に続いた。
 そうして二人は夜の中を走り続けた。海の向こうの、南の国を目指して。

 静かな夜だった。
 朝日が昇れば国中が大騒ぎになることを夜空も風も知っていて、せめて今晩くらいはと、二人のために息を潜めてくれているかのようだった。

   ***

 これは、この広い世界のどこかで起きていたかもしれない、ある国々の人々の物語である。

 幾多の戦いの末、北方の大陸を我が物にした軍事国家、「北の国」。
 おおらかな王による国政で、島に点在する複数の民族の共存を可能にしている「南の国」。
 緑豊かな国土を持ち、小さい島国ながらも他の国と対等に国交を交わす「東の国」。
 長年、東の国と南の国は貿易によって友好的な関係を保ってきた。一方で、大陸の国々を我が物にした北の国は、次に、近海に点在する島国を手中に収めようと動きを見せていた。東の国や南の国も、彼らの狙う島国の一つだった。
 特に北の国と比較的近い場所にあった東の国は、数年に渡って北の国から圧力をかけられていた。明らかに東の国に不利な条件で、豊富にある木材や農作物という「資源」をよこせというものだった。もちろん、東の国はこれを拒んだ。しかし北の国はそう簡単に引き下がるような国ではない。やがて北の国は、交渉の中で「戦争」をちらつかせるようになった。いざ戦争となれば、東の国が北の国に勝てる見込みはない。
 資源を安く譲る気はない。戦争も避けたい。
 そんな東の国に対して、北の国はまた別の条件を東の国に提示してきた。
「東の国の王女を、北の国の王子と結婚させましょう。こちらの王族となる御方の祖国に、悪いようにはできません。対等にお付き合いしていこうではありませんか」
 東の国としては第一の王位継承者である王女を北の国へ嫁がせることは避けたいところであったが、数年に渡って行われたこの交渉を今度こそ終わらせなければ、いよいよ戦争は免れなくなる。自国を守るためにやむを得ず、東の国はこの話を受け入れた。

 ところが。
「失礼いたします」
 婚礼当日の朝、東の国の城内で「事件」が起きる。
「寝過ごすなんて、珍しいですね。昨晩はなかなか寝付けなかったのですか?」
 召使が王女の部屋を訪ねると、間もなく彼女は異変に気がついた。
「……マリーナ様? えっ、マリーナ様? マリーナ様! だ、誰か、誰か!」
 昨晩まで確かに自室にいたはずの王女がいない。
 すぐさま城内の召使や兵士が総出で捜索に当たったが、王女はどこにも見当たらなかった。誘拐か、暗殺か。はたまた、結婚を憂いた王女が自ら命を絶ったか……様々な憶測が飛び交ったが、彼女が痕跡なく姿を消してしまったために、真相は分からずじまいだった。
 国王一族はこの一件を機に権力を失い、東の国もまた、北の国のように国軍が国家を統治するようになっていった。そういった変化がある中で、北の国の王子との婚約だけは破棄されないまま、十余年の時が経っている。

 そう。事件から十余年経った今も、王女は見つかっていない。

 所変わって、東の国と海峡を挟んだ隣国、南の国。例の失踪事件以降も、北の国に浸食されつつある東の国との関係は良好に保ってきた。 
 しかしある時、訪ねてきた東の国の使節団に国王を暗殺されたことで、南の国は東の国との関係を絶つ。その直後に兵を挙げるも東の国、北の国の連合軍にあえなく敗北。領土は地域によって東の国、北の国のものと分けられ、国家は滅んでしまった。

   ***

 かつて「南の国」と呼ばれていた地を放浪する、一人の少女がいた。南の国で生まれ育ち、戦火を逃れ、敗北した祖国の亡骸を撫でるように、当てのない旅を続ける少女。
 彼女が「東の国の、正統な王位継承者」として東の国に現れるのは、もう少し先の話となる。


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サークル名:謂はぬ色(URL
執筆者名:梔子花

一言アピール
当日は「花マップ」「企画旅行商品【テキレボ7号 台東館周遊ツアー】」に参加します。
今作ですが、2~3年前に書いたものをいじって投稿しました。同じ世界線のまったく別の話で「泥より出でて、泥に染まらず」という本も当日頒布されます。詳しくはwebカタログで。

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