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 会話が終わり、アネキス氏と向かい合う夕食で私は味の濃い煮込みをパンで慰めながら何を話していたのと聞いた。答えは苦笑だった。

「別に意味のある会話じゃないよ。適当に、マァマァなぁなぁで済ませちゃうほうがいいこともあるでしょ」
「でもあんな失礼なことを言ったのに」
「失礼ねェ……」
 アネキス氏はゆるくスプーンをくわえ、困ったように笑う。

「彼だって十分失礼でしょ、君に」
「エリン」
「はいはいエリン教授。でも君、彼が何で来たか分かってないの? そりゃバカにされるよ、だって彼、君とよりを戻そうって思ったんだぜ?」
「まさか……」
 私は思わず呟いて、それから口元を押さえた。昔つき合っていたのだと今言ったようなものだ。
 これを誘導尋問というのだろうかと思いながら、私は首を振った。

「……私と彼のことはあなたには関係ないわ。それに失礼って何よ、あなたは無礼じゃない」
「無礼はそうなんだけど、追っ払ってあげたんだからもうちょっと感謝してくれたって良いじゃない。君がズブズブ不倫にはまるのを助けてあげたんだからさ。あと、バートね」
「追っ払うって……」 

 私はスプーンを置いた。何かを言ってやろうと身構えたとき、あのさ、と氏が低い声を出した。パーティの夜にもこんな声を聞いて海のように深いと思ったことがあった。
 今も不意にその深海色にとらわれたように言葉が一瞬途切れてしまう。

「今、──ああ、丁度八時か、この時間だよね? ねぇ準教授の家がどこか知らないけどザクリアの市立院へ通える家ならザクリア市内でしょ。奥さんに不審がられない帰宅時間なんてせいぜい九時、彼が来たのが六時半前で、ザクリアのどこへ帰るにも一時間はかかるとして、空き時間はせいぜい一時間半ってことじゃない」
「……それがどうしたのよ」
 私は不機嫌に応じる。氏は長い長い、私を諭すような溜息をついた。

「だって一時間半だよ? シャワーもそこそこにいきなり突っ込んでちゃっちゃと腰動かしてさ、終わったらすぐシャワーあびて帰らないと間に合わないじゃない。君、そんな扱いされてんだよ、気付けよ」
「な……」
 絶句以外、何も浮かばない。
 私は無意味に何度か唇を動かした。真っ白に塗りつぶされてしまった思考とは真逆に、目の前がすうっと暗くなる気がする。

「でも……だって……だって、あの文書は確かに意味がよく分からないし、それに、でも……」
 うわ言のようなことを早口で呟いていると、アネキス氏は苦笑した。
「賭けてもいいけど次は嫁の愚痴だね。そんで君とつき合ってたときが懐かしいって言うよ。思ってもいないくせにさ」
「そんなこと、あなたに、分かるわけ、ないじゃない」

 反駁する言葉が息絶えそうな獣のようで私は顔を歪める。

「分かるよ、男だもん。こないだのパーティーで俺が君といるのを見て焦ったんだろ。そんで嫁さんと分かれる気なんて更々無いよ、だって君は遊ぶには丁度いいし、嫁さん見た感じあれは結婚したくなるタイプの女だもんな」
「は!?」
 私はつい大声を出し、その声に自分ではっと首をすくめた。