扉の前
近所の本屋に熱烈にスカウトされ、紆余曲折あって転職を決断してから一週間。
職場には退職届けを出し、本屋にも「形式だけ」と履歴書を提出して、橘彦はどこかふわふわした心持ちでいた。
つい最近まで幽鬼のようだった……と自覚できるだけ回復したということだろう。多少の不安はあるものの、先行きにはうっすらと光がきざしている。
人に求められることは純粋に嬉しい。それが、長い間持て余してきた自分の〈視力〉だというから、なおのことである。
本屋の名前は「銀杏堂」。表向きはどこにでもある街の本屋だが、その実、すこし風変わりな裏の顔をもつ。折原橘彦は、そんな銀杏堂の新しいメンバーとして迎え入れられた。
1・お花見弁当
とんとん。
橘彦の住む木造アパートにはインターホンなどない。住民たちは警戒心が強く、なかなか出ていかないため勧誘には大変苦労するし、配送業者は声を張り上げるほかない。
どうやら訪ねてきたのはそのどちらでもないようすで、遠慮がちなノックのあとにガサガサと音を立てて、しばらくすると遠ざかっていく気配がした。
桜の満開もすぎた、土曜日の夜である。
辞める会社に親睦もなにもない、と勤め先の花見を断って、橘彦は自宅でカップラーメンをすすっていた。なんとなく面倒でテレビすら点けずにおり、壁が薄いのでちょっとした物音もよく聞こえる。ニュースを見るよりもよほど身の回りのことがわかる気がして、無音のまま過ごすことは少なくなかった。
カップの底をさらうのをやめて立ち上がり、開閉のたびにひっかかるドアを力いっぱい押し開くと、ステンレスの丸いドアノブに大きなビニール手提げがかかっていた。
「ん?」
突き出した首を傾げながら袋を手に取る。
重い。
角張った形の正体は三段重ねの平たい密閉容器で、折りたたんだ若草色のメモとちいさな桜の枝が添えられていた。
作りすぎてしまったので、よかったらどうぞ。
ごはんはしっかり食べてくださいね。
一緒に働く日を楽しみにしています。
銀杏堂 日野奈津子
この重さ、作りすぎですむ量ではない。つい笑ってしまってから、その真意に気づく。
(心配してくれたんだなあ)
日野さんは銀杏堂でも古株の書店員だ。まさにスカウトされたあの日、心身ともに擦り切れていた橘彦が店先で昏倒したあのときから、何かと案じてくれている。
ふたたびメモに目を落とす。かどのまるい、丁寧な文字の並びに心がほぐれていった。
どこか厳かな気持ちで部屋に戻り、安テーブルの上で蓋をひらいた。
「すごい」
ちりめんじゃこをまぶした俵型のおにぎり、菜の花の天ぷら、鶏の唐揚げにかぼちゃの煮物に卵焼き。好物のポテトサラダには、ゆでたまごとアスパラが混ぜ込んである。
日野さんの人柄そのまま、春の日だまりのような詰め合わせ。カップラーメンしか入っていない腹が急に減ってくる。
これは招待状だ。
「花見いくか」
日陰の桜なら、まだ待っていてくれるだろうか。食べるぶんだけ詰め直して、よれよれのTシャツを着替える。
橘彦は片手に春をぶら下げて、夜の扉を開いた。
2・感想文を書け
日野さんの〈作りすぎ〉以降、銀杏堂では橘彦の生存確認と餌付けが流行っているらしい。
登山家の顔をもつ店長からは多種多様なフリーズドライに『ともに東京砂漠を生き抜きましょう』という謎のメモが、実家暮らしの浅葱巴(あさぎともえ)は「家で採れすぎたからもらって」とダンボール箱いっぱいの小松菜を置いていった。彼女の場合は単純に押し付けにきたに違いない。おかげで橘彦の食事はしばらくのあいだ一面のみどりいろであった。などなど。
従業員みんなに住所が割れている、これは個人情報の扱いに問題ありである。複雑な心境のまま、もぐもぐする毎日が続いている。
そんなある日、やたらと忙しないノックとともに「たのもー」と呼ばわる声があった。どうも聞き覚えのある女性の声だが、いまひとつピンとこない。
「はい?」
誰だっけと腰を浮かすと、「あー、いるならいい」と止められた。
「銀杏堂の吉永ですー、流行りにのって私も押し売りに来ました。これ、置いてくから即座に回収してください。それじゃ帰ります、ではー」
と用件だけ早口でまくしたてて行ってしまった。ほんとうに忙しない人である。
困惑しながら戸を開けると、レジャーシート素材の手提げがドンと鎮座していた。ひとかかえほどもあるその中身はすべてアニメのブルーレイで、一番上に大きく『吉永私物、取り扱い注意』と記載してある。
えらいものを押し付けられてしまった。
おそるおそる袋を持ち上げて、思わず「おおお」と声が出た。相当な重量である。不在だったらどうするつもりだったのだろう。
吉永仁世は橘彦と同年代の、いわゆるオタク女子である。マンガやアニメ、声優はもちろんのこと、その原作や歴史にも精通しており、一部の客に大変頼りにされているという。橘彦が軽い気持ちで好きなアニメ作品について訊いてみたら、ものすごい早口であらすじと解説がはじまり、最終的に制作当時の社会背景と絡めた考察まで聞くことになってしばらく帰れなかった。
仁世が選んだタイトルは幅広いジャンルに渡り、ほぼすべてが初回生産限定盤か特装版で揃えられていた。一巻完結のものもあるにはあったが、大半がシリーズものだ。恐るべき執念と財力である。
ひととおり中身を確認し終えると、底のほうにまだなにかが残っているのを見つけた。
「原稿用紙……?」
袋に入ったままの400字詰めの原稿用紙と、星の瞬く便箋が一枚。罫線にそって、斜めに傾いたくせのある文字が並ぶ。
現代社会につかれたキミに、世界の鍵をあげよう。
遠慮なく飛びこんで、そして沼にはまるがいい。
感想は返却時に同梱のこと。
箇条がきでもなんでもいいから、みたらとにかく書け。
話はそれからだ。 ニヨ
さっさと置いて帰ったのはこういうことか、と橘彦は感心した。
感想文を書け、すなわち絶対に観ろということだ。異論をはさむ余地を与えない、見事な手際である。
会社と家の往復で、ここ数年はまともに映画を観ることもなかった。ましてアニメシリーズなんてずいぶん久しぶりだ。いったい何を楽しみに生きていたんだろう。直近で思い当たるものがなくて、すこしぞっとする。慌ててブルーレイの山に目をうつした。
明日は休日、夜を徹して観ようがなんの問題もない。このへんも、ニヨさんの思惑のうちだろうか。そのわりに原稿用紙はまるまるひと袋、雑なのか周到なのか。
すこし思案して、はじめに観る作品をひとつ選んだ。せっかくだからがっつり雰囲気をつくろう。橘彦は部屋のものをざっと片付けてから、いそいそとコーラを買いに出かけた。
3・あちらからのおたより
「まただ」
帰宅すると玄関にばったり本が倒れている。三日ぶり三度目ともなると、さすがになにかアクションを起こしたほうがいい気がしてきた。
橘彦のアパートに郵便受けはなく、届けものとあらば直接扉に投げ込む仕様になっている。この扉の受け口にまるで受け止める気がないため、帰宅するとだいたいチラシや請求書が散乱している。
行き倒れていた本はいずれも文庫でジャンルはまちまち、児童文庫にホラーにマンガのノベライズ。どこか破れていたり、曲がっているものばかりだった。この乱暴なドアポストのせいかとも考えたがどうも違う。土間に落ちているとなれば少なからず心が痛むもので、橘彦は見つけるたびはたはたと砂を払っては靴箱の上にのせていた。
眉間にシワを寄せつつ三冊目を拾った橘彦は、前の二冊もまとめて奥へ持っていった。スーツのジャケットをかけ、ベッドにどっかと腰掛けるなり、ばららと本をめくってみる。
とたんに、わっと視界が明るくなって目を瞬いた。
視界がすべて橙に染まり、もはや自分の部屋かどうかもわからなくて無意識に目を凝らす。さながらランタンフェスティバル、よく見るとすべて大きな鬼灯の実だった。ほんのりとあかりのともる鬼灯には、まだ青いものや黄色いものも交じっていて、その濃淡があざやかだ。と、よくよく見えてきた頃にはじわじわと彩度をおとし、やがて味気ない室内灯にとってかわった。
「なんだったんだ」
再び同じ本を同じようにめくってみたが、もう何もおこらない。
おそるおそる二冊目を手に取るとこんどは水面いっぱいの花筏、三冊目では羽音とともに蜻蛉の群れがかすめていった。どのまぼろしも、わずかな時間で消えていく。
そう、まぼろし。それも、橘彦くらいにしかわからない類の。
橘彦の〈目〉のことは、ごく一部の人間しか知らない。それこそ、付き合いの古い友人を除いては、銀杏堂の面々のみのはず。
結局、これも彼らの差し金ということだ。次の休みに顔を出すことを決めて、今度こそ本そのものに目を落とす。
銀杏堂には地下書庫がある。正確には書庫としてはもう使われていないそこは、異界への入り口になっている。
人の空想が生み出したものたちが住まう、世界の向こう側。橘彦の視てきたものがその片鱗であると判明したのもつい最近のことだ。
橘彦は休日の朝一番、まだ店のシャッターが開ききらない時間に銀杏堂を訪れた。
開店前はどんな店も忙しいと相場が決まっている。橘彦は手短に、例のしかけ本の謎だけはっきりさせるつもりで中を覗き込んだ。案の定、店内では巴と仁世、バイトの男子学生がバタバタと動き回っており、さすがに声をかけにくい。出直そうかと思案していると、まずはじめにバイトが気づき、巴と仁世が立て続けに「あー!」と叫んだ。
「きっくんじゃん!」
「誰ですかそれ、初めて呼ばれましたよそんなん」
たびたび色の変わるショートヘアの仁世は大きめの眼鏡のむこうでニヤニヤしている。なるほど、彼女がニヨさんと呼ばれる理由がわかった気がする。
艶のある黒髪をひっつめた巴は片頬をゆがめてにやりと笑んでから「来ると思った」と手を止めた。
「言っとくけど、私は頼まれて運んだだけだからね」
「やっぱりあんたか……」
なんのフォローもないあたり十中八九そうだと思っていた。浅葱巴、誰に対しても遠慮と気遣いをしない二十歳である。
「頼まれて、って、いったい誰に」
問われた巴は下を指差す。
「した?」
「あちら側から、こないだのお詫びにって」
橘彦は一度〈体験入店〉している。そのときに、〈地下書庫のあちら側〉で大変な目に遭ったのだった。おかげでいろいろと吹っ切れたので結果オーライ、本人は荒療治の範疇と思っていたが、どうも相手は気に病んでいたらしい。
「お詫び……」
「物語のなかのものは物語のなかでしか生きられないからね」
仁世が訳知り顔で補足する。
「ずいぶん悩んでるようだったから、私が知恵を貸して差し上げたのさ」
それで、売り物にならなくなった本にあの情景を託したのだ。
「で、中身なんだった?」
「……教えない」
「えー、ケチ!」
「スケベ!」
「何とでも言ってください」
持ち場を離れられない二人の罵声を背に浴びながら、橘彦は店をあとにした。まだ聞きたいことはあったが、どうせ働くことになれば毎日顔を合わせるのだ。急ぐことはない。
自然にそう思える自分に、すこしびっくりした。
得体の知れなかったいろんなものが、今はすこし身近に感じられる。世界は思っていたより、こっちを向いてくれているらしい。それがわかっただけでも、ずいぶん気持ちが楽になった。
「さーて、今日はなにしようかな」
食べるものも観るものも読むものも揃っている。こんなにたのしみな休日は久しぶりだった。
サークル情報
サークル名:甘露
執筆者名:草群鶏
URL(Twitter):@yamakana10
一言アピール
日常とファンタジーのあわいを書いています。やたらと食べ物が出てくるのは、おおかた私がくいしんぼうなせいです。 今回の連作掌編は新刊「銀杏堂異聞」に収録予定ですが、肝心の原稿はいま書いてます。はたしてまにあうのか?!乞うご期待!!