南泉さんの猫事情

彼は、ただただじっと、いつもそこに佇んでいた。
ある一点、というより、そこに描かれた「モノ」を眺めていた。
ここは徳川美術館。
愛知県名古屋市にある、尾張徳川家伝来の調度品や武具、茶器、着物などを展示する、日本屈指の刀剣所蔵を誇る私立美術館である。
数多くの国宝と重要文化財が所蔵され、日本刀だけでも500を超える所蔵を誇るこの場所で、現在とある企画展が行われていた。
その企画展の片隅に、期間半ば頃から、彼はじっと佇んでいる。
そこには一本の掛け軸が飾られていた。
和尚が1人、小僧が2人、その和尚の手には物騒な刀と小さな猫。
南泉斬猫図、という猫好きが聞いたら発狂しそうな掛け軸だが、れっきとした禅問答を描いた有名な故事の絵柄である。
彼はその軸を、ただ見つめていた。
誰もが近寄れない雰囲気を醸し出して、ずっとそこにいた。
だから、「彼女」は声をかけたのだ。
この美術館でも数少ない、「国宝刀剣」として、その役を担わされたと言ってもいい。
彼女の名は「透かし庖丁正宗」。
刀身に透かし彫りが施された、刀工正宗の傑作と名高い逸品である。その透かし彫りにちなんで、彼女は「ゆき」と呼ばれている。
おかっぱ頭にぱっつんとした前髪、朱の混じった金蒔絵の簪は黒髪によく映え、鞠の描かれた赤色の着物を纏っている。見た目は大層可愛らしい幼な子だが、包丁正宗三姉妹の長女である彼女は、面倒見もよく、小さい身ながらこの美術館で非常に強い信頼と信用を獲得していた。
「あの、南泉さん?」
恐る恐る彼女が声をかけると、声をかけられた彼、「南泉一文字」はびくりと肩を震わせて振り返った。
少し緩くウェーブのかかった髪に、黄金色の瞳が印象的な青年である。
上から下まで黒ずくめの服装、首には瞳と同じく色のチェーンが巻かれている。そのジャケットスーツ姿は実に様になる見目の良い彼は、しかし心なしか沈んでいるようにみえた。
「ああ、お透さん。お久しぶりです」
緩やかな笑みを浮かべて、南泉は優雅に一礼した。
「ええ、ご機嫌よう南泉さん。ずっとあなた、ここのところここに立ち尽くしているので、皆が心配しているのよ。どうしたの?」
同じく透が一礼を返すと、彼は困ったようにかり、と自身の頬を掻いた。
「いえ、この掛け軸が……」
そう言って、彼は押し黙った。
彼がいかに優れた切れ味を誇る日本刀であるか、という逸話はいろいろとあるが、彼の名前にちなんだ逸話はなんとも奇妙ななものである。
足利将軍家に身を置いていた頃、磨きに出された研ぎ師の家で、剥き出しの刀身のまま立てかけられていたところに飛びかかった子猫が、刀身に触れただけで真っ二つに切れてしまった、という話が残っているのだ。
先ほどの掛け軸「南泉斬猫図」は、南泉和尚という唐の時代の中国の禅宗の僧侶のお話しで、小僧たちに仏とはなにか、という教えを説くために子猫を斬った、という公案である。
そこから転じて、彼には「南泉」という号が与えられたのだ。

さぞかし複雑な気分であろうな、と透は考え込んだ。
この掛け軸とともに、南泉は今回の展示で飾られている。否が応でも思い出すのであろう。
偶然とはいえ、子猫を斬ってしまった負い目でも思い出しているのだろうか、と透が思案していると、南泉はくっと拳を握って歯噛みした。
「こんなに可愛らしいのに、この和尚はなんということをしたんだろうと!」
は? と透が問いかける間もなく、南泉は続ける。
「いいですか、猫は天使です。柔らかな体、我儘な性格、可愛らしい鳴き声、麗しい瞳、自分が可愛いことを分かっていて見上げてくる媚びの売り方、それらすべてが備わった完璧な生物です。それを、それを斬り捨てるだなどと!」
唐突に力説し始めた彼に、透はただオロオロするしかない。
「あの、南泉さん?」
「それに僕は、子猫など切っていない! 切れ味がいかに素晴らしいかという説明のために、こんなにも愛らしい動物を僕が斬り捨てるなど、斬り捨てるなど!」
「な、南泉さん落ち着いて?」
肩でぜーはーと息をする南泉は、しかしそこで膝から崩れ落ちた。
「だから僕の側には猫が寄って来ないんだ。こんなに可愛いのに、こんなに愛らしいのに、こんな和尚と逸話のせいで、僕の側に猫が来ようものなら、みんな顔色変えて遠ざけてしまうんだ。猫、猫が、猫が足りない……猫が足りないいいいいいいいい触りたいいいいいいいいうわあああああああああああんんん」
そうしてとうとう子どものように泣き崩れてしまった彼に、彼女はしばらくどう慰めの言葉をかけたものかとオロオロと手を彷徨わせて。
泣きそうになりながら後ろを振り向けば、どうにかしてやってくれ、と幾つかの刀剣たちが必死にゼスチャーを送っている。
無責任な、と彼女が憤慨していると、ふとその内の1人、物吉貞宗があれあれ、と何かを指をさしていた。
その方向には、徳川美術館のミュージアムショップ。
そこで彼女はピンときた。
「南泉さん! ちょっとこちらに!」
えぐえぐと泣き続ける南泉を立たせると、透はスタスタと彼の手を引いてミュージアムショップへと連れてきた。
そこで、そこに置かれていた猫のぬいぐるみを手に取った。
普段そんなものはもちろん置いていない。ただこの時は、この掛け軸にちなんで猫グッズもいくつか並んでいたのだ。
「はいこれ!」
そう言って、透は南泉にそれを渡した。
恐る恐るといった程で彼はそのぬいぐるみを触ると、戸惑ったように尋ねた。
「これは、本物の猫のような毛並みなのですか?」
哀れな彼は、本物の猫に触れたことさえなかったのだ。
もちろん透も日本刀である。切れ味も鋭いものだが、猫くらいはさすがに触ったことはある。
「ちょっと違うけど、大体こんなものです。さあ、これで猫に触れましたね? だからもう泣くのはやめてくださいね……」
水分は刀には厳禁なのですよ、と透も自分でもちょっと意味がわからないな、ということを言い含めると、南泉は素直にこくんと頷いた。
こうして、掛け軸の展示期間の終了を待たずに、掛け軸の前にひたすら佇む南泉の恐ろしいまでの威圧感はなりを潜めたのだが。
代わりに、可愛らしい猫のぬいぐるみを抱えてくふくふと嬉しそうに笑う、図体のでかいイケメンの姿が目撃されるようになった。
「で、あれはどうするの?」
透の声に、物吉貞宗が、バツが悪そうに頭を抱えていた。
「いや僕、猫の絵の図録を持っていれば、という意味で指をさしたんだけど、まさかお透ちゃんがぬいぐるみ渡すと思ってなくって」
「私だって、物吉さんが指を指すからてっきりあのぬいぐるみのことだと……」
そうして、2刀は数多の刀達に囲まれながら、ひたすら頭を抱えていくことになる。
強烈な猫のぬいぐるみコレクターと化した南泉一文字の、どんどん増えまくるコレクションに、刀部屋が侵食されていくことに。
まさに「残念なイケメン」誕生の瞬間を彩ったのが自分たちだと気がつくのは、わりとすぐのことであった。


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執筆者名:藤木一帆

一言アピール
お題付オリジナル小説アンソロジー「言葉遊山」を中心に頒布。どえむ集団になりつつあり、通称「鬼畜遊山」と呼ばれる、そんな本。個人では日本刀擬人化本(※とうらぶではありません)を出しています。

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