じわりじわりと辺りに立ちこめる生温かい空気が肌に触れ、腕や額から汗がにじみ出る。まだ七月に入ったばかりなのに、夏の暑さは容赦がない。
 どこかうつろな顔で、無意識のうちに華代はふーっと深いため息をつく。毎日続く暑さも厄介だが、その表情が浮かないのは暑さのせいだけではなかった。
(お母さん達、そろそろ着いたかな……?)
 止めていた足を再び動かしながら、ぼんやりとそんなことを考える。
 高校二年の六月の終わり頃。今からちょうど一週間前のことだ。
「はな! 見て見て! 二泊三日の温泉旅行が当たったの!」
 学校から帰ってきた華代に、華代の母は嬉しそうに報告してきた。
「え? 本当なの? すごいじゃん!」
「ふふ、すごいラッキーだわ。ねぇ、はな、一緒に行かない?」
 母からの誘いは嬉しかった。もちろん「行きたい」と思ったが、華代はあることを思い出す。今日、学校の終わりのホームルームで、期末試験の範囲が発表された。テストの結果が悪ければ夏休み中にも補習がある。もちろん夏休みにまで学校に行きたくはない。
「ごめん、お母さん。私、今度テストあるんだ。勉強しないと補習になっちゃう」
 そう伝えると、母は残念そうに肩を落とす。そんな母の姿を見て、華代は咄嗟にこう言っていた。
「そういえば、来週って確か結婚記念日でしょ? お父さんと行けばいいじゃん」

 私は大丈夫だから、楽しんできなよ。

 それは本心から出た言葉だった。
 けれど、言った後で気付いたが、それには一つだけ問題がある。華代に兄弟はおらず、父と母が出かけてしまえば当然華代は家で一人だ。それはよくある状況なのだろうが、華代には小さい頃の経験でちょっとしたトラウマがあるのだ。
 華代がまだ小学生だった頃、家で一人きりの時に台風に襲われたことがある。
 電気も消えて真っ暗な家の中、唸るような風の音と鳴り響く雷。
 台風のせいで仕事に出かけていた両親もなかなか帰れず、結局台風が過ぎ去るまで華代は一人、家で震えて泣いていた。
 あの日を経験してから、華代は少し夜が怖い。もう高校二年になるのに、夜に一人でいると理由もなく怖くなってしまう。
(私から提案したことだし、『行かないで』なんて言えないよね)
 怖いという気持ちはあるけれど、喜んでいる両親にそんなことは言えないまま、二人は今日、有給を取って仲良く出かけていった。
 今日は金曜日。二泊三日の旅行だから、二人が帰ってくるのは日曜日。憂鬱な週末だ。
「もー、私のバカー。意気地なしー」
 愚痴ってみるけれど、自分が置かれた状況に変わりはない。
 一人が怖いのならば誰か友達を誘えば、とも考えたが、今は試験週間。友達だって勉強をしているだろうし、友人達と一緒にいれば勉強がはかどらないことも容易に想像できた。自分の都合だけで振り回すのも悪い気がして、結局この事は誰にも言っていない。
 そろそろ覚悟を決めなければ。そう思って華代は俯けていた顔を上げる。
 その時、視界の隅で何かがきらりと光った気がした。
「?」
 咄嗟に足を止めて、華代は光が見えた方を振り返る。
 狭い路地へと続く小道の入り口に、光るものが二つ。
 暗い影の中に浮かび上がる鋭い煌めきを見た瞬間、華代の背筋をぞくりと冷たいものが走った。
 その直後、ゆらりと光が揺れる。
「にゃーん」
 甘い撫で声と共に、黒い猫が路地から出てくる。
「なんだ、猫か……」
 その愛らしい姿に、華代はほっとした。光っていたものは猫の目だったのだ。だがそれが猫だとわかっても、完全に闇と同化したあの姿はかなり怖かった。黒猫とはいえ、あそこまで闇に溶け込んだ姿を見たのは初めてだ。
 無意識のうちに詰めていた息を吐き出すと、黒猫はとことこと華代の足もとまでやってきた。何か言いたそうに大きな瞳が華代を見つめ、ぱたりぱたりと尻尾が地面を叩く。首に巻かれた赤い布がひらりと揺れた。
「散歩中かな……どうしたの? お腹空いたの?」
 華代が話しかけてみると、黒猫はそれに答えるように一声鳴く。まるで本当に会話をしているようで、華代はくすりと笑みを浮かべた。ごそごそと鞄の中を探る。
「どうぞ。私の食べかけでごめんね」
 お昼に食べきれなかったパンの残りを華代が差し出すと、黒猫はくんくんと匂いを嗅いで、ぱくりとパンにかぶりついた。
 ご機嫌そうに尻尾を揺らしながらパンを食べる猫を見ていると、華代の今まで落ち込んでいた気持ちが少しほぐれた。その気持ちのゆるみが、こらえていた不安を押し出す。
「あのねー、私、今日はお父さんもお母さんもいないから、家で一人ぼっちなんだー。だから、ちょっと不安でねー……」
 答えを求めるでもなく、独り言のように呟くと、猫はちらりと華代を見上げた。けれど、すぐに視線を落として食事を再開する。言葉が通じないのだから当然だ。それを分かっていながら、こぼれだした言葉は止まらない。
「高校生にもなって夜が怖いなんて、情けないよねー……。私って弱いなぁ……」
 ふっと、華代の顔から笑みが消えた。
「…家に…帰りたくないなぁ……」
 ぽつりと、一番言いたかった言葉が口からこぼれる。
 心配をかけたくなかったから言えなかったけれど、誰かに聞いてほしかった言葉。
 ふぅっと華代がため息をつくと、甘えた声で黒猫が鳴いた。はっと我に返ると、いつの間にかパンを食べ終わった猫がじっと華代を見上げてきている。
「だから、君が傍にいてくれると心強いんだけどな」
 視線を合わせてそう言ってみると、黒猫はまた華代の言葉に答えるようににゃんと鳴いた。まるで「良いよ」と言われているようで、固くなっていた華代の表情にぎこちないながらも笑みが戻る。
(でも、赤い布を巻いてるし、この子は飼い猫だよね。勝手につれて帰るわけにもいかないか……)
 思いを振り切るように、華代はさっと立ち上がった。
「さてと。暗くなる前に帰らなくちゃ」
 じゃあね、と猫に手を振って、華代は足早に歩きだす。
 じっとその背を見つめていた黒猫は、ぱたりぱたりと尻尾を振り、華代の姿が見えなくなると、すっと小道の影へ戻っていった。

 時計の秒針の音が、やけに大きく部屋に響く。
 時刻は深夜の一時。家に帰ってから、なるべく夜のことを考えないよう、華代は試験勉強に没頭した。勉強で疲れれば、眠れるかもしれない。そう思って勉強を続けていたが、日付が変わっても眠気はまったく訪れない。
 静かすぎて華代の心にじわじわと恐怖が込み上げてくる。
 華代はぶんぶんと頭を振って怖いと思う気持ちを振り払おうとする。けれど、一度その事を考えてしまうと簡単には頭から消えてくれない。
 ペンを持つ手が止まる。恐怖に負けて、問題を解くどころではない。頭が回らない。
「あー! よし、もう寝よう! 寝ちゃえば関係ないよね!」
 無理矢理自分に言い聞かせ、華代はノートと教科書を閉じた。
 既に寝間着に着替えていたので、前髪を上に持ち上げてとめていたピンを外して髪を整え、部屋の灯りを消してからベッドに潜り込む。
「………」
 静寂が、いつもより重い。辺りを包むのは、闇。家の外も、中も、暗い。恐怖を誤魔化すように華代は布団を頭からかぶる。けれどやっぱり、そこにあるのも闇。
 目を閉じても、開けても、華代の前にあるのは闇ばかり。
 今は聞こえないはずの、荒れ狂う風の音、耳をつんざくような雷鳴。
(…怖い……怖い…こわいこわい!)
「――――っ!!」
 半ばパニックに陥って、華代は慌てて電気を付けようと立ち上がり……足下がよく見えなくて派手に転んだ。
「ぃっ、たぁ……」
 恐怖と相まって華代は涙目になる。泣きたい思いでぶつけた膝をさすっていると、くすりと笑い声がした。
 華代は、ゆっくりと顔を上げて声がした方を振り返る。
 閉めていたはずの窓が開いていて、青年が窓枠に腰掛けていた。
 月明かりに照らされている青年は、見えているはずなのに、今にも闇に紛れて消えてしまいそうなほど幻想的で、淡い。
その姿に華代は一目で見惚れてしまう。
 ぽかんとした顔で華代が青年を見つめていると、くすくす笑っている青年と目が合った。細められた目は鋭いのに、怖さはない。
「お前、そんなに暗闇が怖いか?」
 笑い混じりに青年が問いかけてくるが、あまりの出来事に華代は言葉が出なかった。
 しばらくぱくぱくと口を動かし、ようやく声を絞り出す。
「あ…なたは、誰…ですか……?」
ようやく華代が反応を返すと、青年は面白そうに目を細めて腕を組んだ。
「私か? 私は…そうだな、夜、とでも名乗っておこうか。名前ではなく、存在だがな」
「はぁ……あ、の…なんで夜さんが私の部屋に?」
「お前が来いと言ったのだろう」
 青年は苦笑気味にそう答える。その答えに、華代はきょとんと目を瞬いた。
「私、貴方に会ったことがありますっけ?」
 妙な言葉遣いになっていることにも気付かないまま、華代は素直に疑問を口にする。そんな華代に、青年は頷いた。
「あぁ、お前は私を知っている。私のことを知らない生き物はこの世にいないさ」
「えーっと……すみません、まったく記憶にないんですが………」
 言いにくげに華代が頭を掻くと、青年の口元が緩む。
「そうだな、普通は見えない……いや、気付かないだけだ。―――言っただろう? 私は“夜”だと」
「…よる……」
 困惑気味に言葉を繰り返す華代の態度を気にした様子もなく、青年はすっと窓の外へ目を向ける。
「この世界を覆う闇…その時間、空間、現象……といった感じか。人間の言葉で説明するのは難しいな」
「……つまり、貴方は…“人”じゃない…?」
「そうだな。これも仮の姿だ」
 自分の胸を示して、青年は華代の言葉に頷く。
 実にあっさりとした返答だった。
「でもやっぱり…なんで夜さんがここに?」
「だから、お前が来いと言った」
 やはり釈然としなくて華代が同じ問いを繰り返すと、青年はくくっと低い声で笑い、ゆっくりと振り返る。
「借りを返しに来たんだ。……まぁ、少しお前に興味を持った、ということもあるが」
「……?」
 結局事情を飲み込めず、華代の困惑は消えない。そんな華代の目を見つめ、青年は口を開いた。
「お前が、私を怖れていたからだ」
 その顔が少し悲しげに見えて、華代は無意識のうちに息を呑む。咄嗟に謝ろうとして……それより先に、青年が言葉を続けた。
「時に、お前は心というものをどう思う?」
「え…心…?」
 突然の話題の切り替えに戸惑いつつ、華代が問い直すと、青年はこくりと頷く。
「そうだ。人間には、悲しい、嬉しい…喜怒哀楽という言葉があるように、感情がある。それは犬や猫にもあると思うか?」
「ある、と思います」
「では、植物にも心はあると思うか?」
「あるんじゃないですかね。人間と感じ方は違うかもしれないですけど」
「この国には八百万の神という考えがあるらしいな。すべての物事に神が宿るという考え……だとしたら、“夜”という現象に心があってもおかしくはあるまい?」
「えーっと……つまり、貴方は―――“夜”」
 それは先程と同じ答えのはずだが、華代のとらえ方が変わっていた。彼の言いたいことが、なんとなく理解できる。
「じゃあ、私が怖れたっていうのは……」
「もう、説明せずともわかるだろう?」
 華代が頷くと、青年はふっと顔をそらして丁寧に整った髪をかき上げた。
「人は闇を怖れている者が多いな。光があれば影があり、夜になれば日は落ちる。そして、目を閉じればそこは必ず闇だ。闇も光と同じく常に側にあるものなのに、なぜ闇だけが嫌われるのか……」
「あ…ごめんなさい」
 思わず口から出てきた華代の謝罪に、青年は不思議そうに華代を見つめた。
「なぜ謝る?」
「だって…そう思われて、貴方は悲しかったんでしょう?」
 ごく自然に華代が問い返すと、青年は少し驚いたように目を瞬く。
「悲しかった……悲しい………そう、なのかもしれんな」
 その言葉の意味を考えるように繰り返し、青年は今それに気付いたというように苦笑を浮かべた。
 記憶をたどるように、暗い空に視線を投げる。
「今となっては、私に気付く者は少ない。その中でお前は……たとえそれが恐怖から来るものであっても……私に気付いた。だから興味を持った」
 夜は――闇は、意識するより前から当たり前のようにそこにあって、その存在は当然だから、誰も気付かない。その存在に、疑問を持つことすらない。けれど、気付かなくても、誰もがそれを知っている。
「お前は、一人だから闇が怖いのだろう?」
「そう、ですね」
「だが、もうそれも心配いるまい」
「え……?」
 キョトンと目を瞬く華代に、青年は優しく笑いかける。
「お前は、知っただろう? 私の存在を。気付いてなくとも、意識してなくとも、その目に闇が写る限り、私はそこにいる。闇の中でも、お前はもう一人ではない。そうだろう?」
 そう言って笑う青年の笑顔は、今日見た中でも一番輝いて見えた。
 つられるように、華代もいつの間にか笑っていた。
「貴方は、それを伝えるためにここに来てくれたんですね」
「そうだな。それに、言っただろう? 借りを返しに来たのだと」
「借り……?」
 そういえばそういうことも言っていた、と華代が思い出していると、青年はゆっくりと外を振り返り、「そろそろ夜が明けるな」と独り言のように呟いた。
 すっと青年が腰掛けていた窓から離れ、ぐっと体を伸ばす。その首に巻かれた赤い布が、ひらりと揺れた。
「夜が明ければ、私の力も落ちる。この姿も保てぬのでな、そろそろ私は消えるとしよう。こんなことしか出来ぬが、供物のことは礼を言おう」
「供物…?」
「あぁ、それと……」
 華代の問いかけには答えず、青年は華代の瞳を見つめて、笑った。
 その瞬間、外に広がる闇が、吸い込まれるように風と共に青年に集まり、華代は思わず目を閉じた。
『―――お前は人なのだから、悩み事は同じ人に言うべきだ。私はともかく、猫には通じぬぞ?』
 声が聞こえて、そっと華代が目を開けた時、いたずらっぽくそう答えて身を翻したのは、首に赤い布を巻いた小さな黒い猫だった。
「…っ! 貴方、あの時の―――!」
 その言葉を聞く前に、猫は窓から飛び降りる。
 慌てて華代が窓に駆け寄ると、華麗に走る小さな姿は、登り始めた朝日に照らされてできた影の中に、とけるように消えていった。
 無心に猫が消えていった場所を見つめる華代を朝日が照らす。
「夢…じゃないよね……」
 眩しい光は本物で、自分は確かにここにいて、彼も確かにここにいた。彼が腰掛けていた窓枠が、少し温かい。
 差し込む朝日に目を細めながら、華代はふっと笑う。
「また、会えるかな……」
 きっと、会えるよね。
 たとえその姿が見えなくても。

『目を閉じれば、すぐに会えるだろう?』

 そんな彼の声が、聞こえたような気がした。

Fin.


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執筆者名:天川なゆ

一言アピール
これは私のある詩を元に考えた話です。文字数の制限で少し内容をカットしています。本編全部が載っている冊子をテキレボで出すつもりですので、興味を持ってくださった方はぜひスペースにお越しくださいませ♪

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