島に伝わる二番目の足削ぎ師についての記録

 えいらは牡蠣の殻にも似た、ぎざぎざのふちを持つ楕円のベッドに寝かされていた。冷たさも暖かさもなく、世界とイベントが同じ温度だ。藤色の波紋を持つ縞瑪瑙のベッド、もしくは食卓だと、肘をついて身を起こした時に気づいた。えいらの動きで、シャボンを溶かした水のように景色が揺れる。まるで世界を羽織っているよう、あるいは世界が液体に満たされている。ひどく暗いが、ピントはどこまでもくっきりと合い、実際のところひどく気分が悪かった。いっそう体を起こそうとして再びぐらつき、誰かの白い手が肘を支えた。
 知らない青白い顔が、えいらをのぞき込んでいた。髪はふわふわと彼女を縁取って、体の他の部分をいっそう影に押し込んでいたが、見ればわかった。彼女は裸だった。少し硬そうな乳房が二つ押し黙っている。見れば狼煙のように細いひもが彼女の唇から立ち上がっている。えいらがそれに注視すると、するり、と飲み込んで彼女は言った。確かに声が聞こえた。ここは紛れもない海の底だったというのに。
「これ、わかるでしょ?」
 と突然、闇から突き出された赤に汚れた、丸めた冊子。
 かばうように受け取ろうとして、自分の膝に腕をぶつける。えいらは黒いローブを胸に羽織っていたが、膝を立て、下半身を大きくはだけていた。ご丁寧に尻の下に厚いクッションをあて、奥までよく見えるサーカステントの構図で展示されていたのだ。
 急に足を閉じ、膝骨をかちんとぶつけると小さなどよめきが起きた。揺れを感じてベッドにしがみついたが、何も起こっていなかった。暗い部屋のあちこちで、さまざまの顔とさまざまの瞳が、えいらを見ていた。えいらは星で星座を作るように、瞳を追ってぐるりと部屋を見渡した。すると頭が激しく痛む。慌てて両手で押さえると、しっとりと湿った布で頭全体を包まれていた。目と耳のあたりにだけ細いさけめがある。指を差し込むと鮫の食べかけのようにえぐれていた。
 見えている、聞こえているということは中身は案外無事だったのだろう、とえいらは考えた。だが深くは考えなかった。これは夢に違いないから。
 目と、目と、目と、目。
 部屋を満たしているのは女たちだった。さまざまな大きさや角度の乳房がそのままに乱れ咲いていたからだ。彼女たちは大抵が髪が長く、そして宙に浮かんでいた。いいや、違う。部屋は水に満たされ、動くのは容易く、止めるのは難しかった。えいらは大きく息を吸った。爽やかな風は無かったが、確かに何かが侵入し、肺を満たした。
 女たちがゆらゆらと海藻のように揺れ、部屋の天井からえいらを見下ろしていた。彼らの下半身は銀色のなめらかな筒で、先端で絞られ、優雅なそれぞれのヒレを持っていた。多彩な。天蓋のように垂れ下がっているが、生きている。半分はパレオをまとって、半分は銀を誇ってむき出しのまま。
「よすんだエットリア」
 はっと気がつくと、最前の少女が顔のさけめに手を入れようとしていた。大きな手に肩をつかまれて引き戻されながら、だって返事がないから、と小さな声が遅れて届く。えいらは落ちもせず、浮かんでいるそれを受け取った。しっとりと湿ってはいるが確かに本だ。赤い表紙がさらに赤く汚れている。
「だけど、まあ、起きたところを悪いけど急いでるんだ。やっちまってから、眠ればいいよ」
 そう言って、エットリアを室に投げ飛ばしたヨナ・アイリーンはたくましかった。腕は太く、乳は乱暴に放り出されて光沢がない。腰から下をマーブルに染めたパレオが覆っていたが、裾のあたりはぐちゃぐちゃと汚れていた。
 糸綴じの冊子をつまんで開くと、人間の二本の脚と、その中央の複雑な臓器が、簡単な線で描かれていた。パイオニア探査機の金属板に描かれたまじめな女に少し酒を飲ませ、リラックスさせたような図だった。彼女に楽しいダンスをさせて緊張を解き、誰も見ていないからと脚をからげさせる。少し、ほんの少しだけと言って、笑わせて、ライトを当てたような。そしてどんどんと奥深く進んでいくような。好奇心から覚めた時には女は死んでいるだろうが。最深部まで到達して、ページをめくると、いきなりリラックスした男が現れた。
「そこはいいよ。どうせみんな女の脚が要るんだ」
 ヨナ・アイリーンは冊子を取り上げて、室全体より大きな声で呼ばわった。
「さあ、あんたの番じゃなかったかい。ミユ?」
 黒い髪を編み、顔の両脇に垂らした目の小さい女が、ズームのように目を逸らさず降りてきた。腰を使って部屋を泳ぐ。水の乱れが感じられない。そして器用に反転して、自らベッドに横たわった。ヨナ・アイリーンがすずらん型のライトを伸ばす。急いた手つきでミユとヨナ・アイリーン、四つの手で薄いパレオがかきわけられた。
 なめらかな銀の光沢が、ミユのほっそりとした下半身を覆っていた。光を浴びて、表皮の下の細かいラメがちらちら輝く。鱗は見分けられない。裾の方は優美に二つに分かれたあと、長く縮れて、シルクのフリンジのように絡まっていた。
 えいらはその海豚に似た下半身を凝視しながら、自分のローブのボタンを留めた。だがすぐに仕事は終わってしまう。一秒一秒が、一秒一秒のまま押し寄せてくる。誰に対しての時間稼ぎだというのだ。
 多くの気配のわりにやけに静かな部屋だった。えいらは耳に指を突っ込む。ぐちゃぐちゃした血と肉が魚の食べ残しのように耳から細く漂った。
 見物している女たちも少しずつ動き始めた。彼らは金魚みたいにひらひらと、部屋の天井や壁に器用に寄り添い、えいらが動くのを待っていた。祈り、励ましていた。お互いのために。
 ヨナ・アイリーンのナイフ函を開ける。えいらは一目見ただけで、嘴の細い魚のようなフィレナイフを使えばいいとわかった。それは細くてカーブが柔らかい。
「わたし、アルピニストのような足がいいの」
 びっくりするような高い声でミユが言った。ベッドの上で力強く上半身だけを斜めに起こして、新時代のVを作る。編んだ髪が狼煙のようにたち上がる。海水がこの部屋を満たしている、そのことがえいらには理解できている、だが納得できない。
「重い荷物を持って、どこまでも歩いていけるような、どこまでも、高いところへ……」
 ヨナ・アイリーンはばねの壊れた人形にするように、ミユの肩を押さえつけベッドに激しく押し倒した。銀のひれがまぶしく波打って輝く。ベージュと銀の境目がはっきりとせず、見ていると目が騙された。えいらはひれの先端を押さえ、大胆にもその分岐点から、布を裂くように皮膚の閉鎖を解いた。運命が決まっていた場所で動きを止め、てのひらを返し切っ先で削ぐ。ヨナ・アイリーンは目線で小さいナイフに持ち替えるよう促したが、えいらは無視した。先端から元の方まで贅沢に使って奥深く彷徨った。できあがりは一見簡単な描画だったが、それが真の偉大な完成であることは明らかだった。立体感がまるで違った。えいらは初めて人魚の足を削いだが、迷わなかった。
 ミユは両手で顔を覆い、指の間から生まれた二本の銀の足を見ていた。なめらかな銀の光沢を持ったまま、魚の尾ひれは人間の足へとわかれた。すねの裏はしっかりとくぼみ、土踏まずは現代風に控えめに、膝やくるぶしの凸よりも、凹にわざが光っていた。腰は細く、腿のしっかりした波のようなライン。きわだったその生々しさ。見物人はその新しいかたちをめいめい自分の下半身に投影したが、これがミユのかたちであって、えいらのかたちでないことは後日理解された。えいらは人魚を人間にするのではない、そのヒレに潜むものをすくいあげるのだ、と。親指には少し時間をかけて、十指の細部を仕上げた後は、室の誰も、えいらに対する尊敬を隠さなかった。
 ミユは完成と同時に縞瑪瑙のベッドから飛び上がり、床に降りようとして足首を捕まれ、ヨナ・アイリーンと親切なミシェルによって柔らかいはじめてのソックスを穿かされた。白くて光沢があり、花のようなレースが足首を覆っていた。押さえつけられながらもミユは待ちきれないというように体を捻って、えいらの手を強く握った。
「ようこそ、わが町へ」
 人魚はざわめき興奮して室内で渦巻いた。まるで小魚の群れのようだったが、彼女たちはそのことに気づいていたかどうか。近くから、遠くからミユの脚をまぶしそうに見る。勇気を出した誰かが触れる。みんな同じようにまねをする。くすぐったいわとミユが笑う。新しい脚。新しいミユ。そしてひととおり肌を撫でた彼女らは、館中の部屋から持ち寄った、棺に似た黒檀のベンチを次々に開け、ミユに似合う新しいスカートを選んでやった。そしてついでに自分のも。誰のでも。押し付け合い、隠しきれない銀色の向こうを幻視しながら。ベンチ満杯に押し込まれたシルクを、繻子を、オーガンジーを、夏に焦がれ狂い咲く花のように広げた。部屋に溢れさせた。
 脚削ぎ師が町に再び帰ってきたのだ。


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サークル名:漣編集室(URL
執筆者名:まりたつきほ

一言アピール
基本的に現代日本が舞台の小説を書いています。わたしにとって一番不思議な世界とも言えます。物語はいつでも少しずつ離陸していきますが、大丈夫です、立ち読みだけでもしていってくださいね。どのページからでも構いませんので。

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