黒い海と金の冠 遙か北東の十字路を行く
1 曹操の通った道
一〇〇年前に
ただし曹操のように数万の兵を率いているわけではなく、ましてや
ここは
とはいえ曹操が通ったとされる場所近くまで来ると、寄り道するという誘惑にあらがえなかった。そこで無理を言って寄り道したのだが、そんな私を、護衛にあたっている慕容部の戦士たちは不機嫌そうに見た。仕方のないことではある。私の目には曹操の勇壮な
「気はすみましたか? 旦那」
通訳の男が私に声をかけた。彼はずぶずぶと慣れた様子で泥を踏み抜いて私の近くまで来ると、気安く肩を叩いてさり気なく、
「相当いらだっていますよ、彼ら」
と忠告を与えてくれた。
「もともと無駄足の大嫌いな連中ですから」
そう言って通訳は軽く振り返ると、高い鼻で後ろに控える慕容の戦士たちを差した。不機嫌さを隠そうともしない彼らに、通訳は満面の笑顔を向けて軽く手をふりながら、
「имаику!」
と明るい声で短く、彼らの言葉を投げかけた。戦士たちは泥で足を汚し険しい表情のまま、牛の角を削ってつくった強弓や、肉厚で短い、馬上で振りやすそうな腰の剣をかちゃつかせて答えた。
「さ、行きましょう、旦那」
通訳は私に有無を言わせなかった。
私は慎重に道を戻ったが、戻る途中で振り返り、海を見ずにはいられなかった。この海岸から見える海は、黒々としているのだ。黒い海、
2 鮮卑族の慕容部たち
この地は塞外の地であり、私のような漢人ではない
昔ここは
次に
そうして匈奴と烏丸が去ったあとで強勢を誇ったのが
その慕容の
通訳と道案内をしてくれる
「旦那がた漢人は驚くかもしれませんが、俺たちにとっては特別なことでもなんでもありません」
と道すがら彼は語った。
「陸はつながってますから」
言われてみればその通りだ。それでもやはり、隊商を組み移動を常とする彼らと、城壁に囲まれ基本的に生まれた土地から離れることのない漢人である私とでは感覚がまるでちがう。
私の感覚では、敦煌は西の果てであり、ここ昌黎は東の果ての向こう側だ。どちらも自分の生まれ故郷からはほど遠い場所であり、果てと果てとがつながっていると言われても、感覚として、なんとなく納得がいかない。
しかしそういった感覚の乖離は鮮卑たちに対しても同じであり、その乖離を記録するために私はいる。
「あなたがた漢人を理解できません」
と慕容の戦士たちを率いている
樹左車は三十歳ごろの熟練の戦士で、鉄のように屈強な男だ。五人張りの強弓を引き、彼以外に手綱を握らせない荒馬を乗りこなす。慕容と名乗るのだから慕容の酋長である慕容廆と縁者なのだろうか。私は無意識に自分たち漢人の常識で彼らを測ってしまったが、すぐにその誤りに気付いてかぶりを振った。
彼ら鮮卑は名字を持たない。必要とあれば「慕容」と名乗るが、これは我々漢人向けに名乗っているだけであり、彼らの間で名字は使われない。また慕容と名乗っている人々全員が家族親戚、血縁関係にあるというわけでもない。
彼らが相手を同胞と見るか否か、つまり同じ「慕容」を名乗れるかどうかは、ひとえに「戦士」であるか否かにかかっている。つまり羊など家畜の放牧を手伝い、狼や他の部族の人間から家畜を守るために、あるいは部族や一族同士の戦いに参加できるかどうかで、仲間かそうでないかを見極めるのだ。
だから匈奴や烏丸や、あるいは史栄のような商胡ですら、望めば、そして戦士たり得るならば、「鮮卑」にもなれるし「慕容」にもなれる。実際、そうやって慕容になった人々もいると史栄は語った。
「弱かったですからね」
史栄は彼らが慕容になりたがった理由を一言で表した。
「弱くちゃ、土地を守れないですから」
土地というのは牧草地のことだ。彼らの財産である家畜は個々の家々のものだが、牧草地は部族のものであり、家畜を放牧できるのはその牧草地を所有する部族の者だけだ。だから部族の戦力が弱くなり牧草地を守れなくなれば、より強い部族に合流し、新しい部族の名前を名乗るようになる。
私たち漢人が耕すための大地を愛し、所有地に固執する方法とはかなり趣がちがうが、彼らもまた大地があるから生きていけるのであり、所有地に執着することに何ら変わりはないのだ。
しかし、やはりこういった名字、ひいては「家」に対する執着の薄さは、頭ではわかっていても面食らうときがある。祖先に名高き人物がいれば、二十世代あとでも三十世代あとでも系図をきちんと作り、自分が今その人物から何代目かを言えるし、また誇りでもあるのが我々漢人だ。きっと一〇〇代あとでも二〇〇代あとでも、それは変わらないだろう。
だが彼らが我々漢人とちがう理由も納得できる。生きている土地の環境がちがいすぎるのだ。
鮮卑の文化は匈奴や烏丸と同じく、ただただ軍事的だ。馬に乗れるか、弓は引けるか、度胸はあるか、そして強いか。そういった事々が最重要になる程度には、この土地で生きることは厳しい。棘城までの道程で私はそのことを肌で感じた。まだ七月に入ったばかり、秋のはじめだというのに、地面をおおう草やたまに見かける木々は急速に赤茶けていく。乾ききって冷たい風は初秋のもとは思えず、ただ屋外にいるだけで体力を奪っていく。この地では夏は短く冬は長く、冬に備えるための秋は一瞬で、息をつく暇もないのだ。そして厳重に冬に備えなければ、死ぬ。この単純明快な過酷さのなかでは、家だの名字だの血筋だのに構ってはいられないだろう。
家といえば、私は彼らと同じ移動できる天幕の家、いわゆる
3 慕容のなかの漢人たち
とはいえ、彼ら遊牧の民は私たち漢人のように自給自足では生きていけない。常に家畜にしたがって移動している彼らには、長時間一定の場所にとどまって生産に専念しなければならない物はつくりだせないからだ。大いに必要としているにも関わらず。
たとえば鉄。鏃、剣、馬具など、彼らが彼らの暮らしを維持するのには鉄器が必須だが、彼ら自身には、鉄を溶かし、精錬して不純物を除き、鋳り、また溶かして、必要な道具に加工する暇などない。
また、穀物。彼らは軟弱な漢人の風習として穀物を食べることをあまり好まないが、家畜の飼料としての有意性は認めている。もちろんこの土地柄ではさほどの収穫は見込めないが、それでも完全に牧草地頼りでいるよりは生活が安定する。
こういった物品を手に入れるために、彼らは騎馬に長けるという移動力の高さを生かして盛んに交易している。我々の晋王朝との公式な交易の場である
だが彼らは交易とは別の入手方法も心得ている。略奪だ。
棘城に住む四十二歳の
以来、王照は兄と二人で鉄を打つ日々を過ごしている。遊牧に忙しい慕容の代わりに
棘城には略奪された漢人たちが大勢住むが、それと同じぐらいに、自ら長城を越え慕容の支配地に移住した漢人たちもいる。戦乱から逃げるためだ。
「ひいひいひいじいさんの代からそうして暮らしてます」彼はあっけらかんと語った。「もともとは
最近結婚したばかりだという李与は、聞いてもいないのに自慢の妻を呼ぶと、彼女の美貌と気立ての良さを存分に語った。そこで私が彼女のほうの来歴を尋ねてみると、「ああ、ひいじいさんの代からですよ」とのことだった。「
4 慕容の長
その公孫淵との戦いで名を挙げたのが、慕容部の酋長・
「遠路はるばる、ようこそおいでくださいました」
慕容廆は漢人式の作法に則りながら礼をした。まだ三十にもならない若い長、それが慕容廆だった。
彼は慕容の戦士たちが着ていた刺繍のほどこされた毛織物ではなく、絹でできた、完璧に中華的な礼服を着こなしている。この土地柄で桑はまったく、あるいはほとんど栽培できないだろうから、絹は相当貴重だろう。後漢末の黄巾の乱からかれこれ一二〇年弱、政治的混乱によって貨幣が価値を失いかわりに絹が流通して長いが、ここでの相場はかなり割高だった。
にも関わらず、彼は丈の長い、ふんだんに絹地を必要とする中華の礼服をあつらえている。慕容という名字しかり、彼らが漢人向けにその風習を整備している節はあるとはいえ、正直なところ、ここまで完全な漢人流の応対を受けて少し驚いてしまった。
私は同じく中華式の礼をしてから、彼とさまざまなことを語り合った。彼は中華の動向について多くのことを知りたがった。晋王朝の枢機に関わることを慕容の長たる彼に言ってしまうのは、漢人である私にとっては背信行為なのだろうか。だが宮勤めを辞めて久しい私に語れることは多くない。私は中央から冷や飯を食わされているがためにそういった葛藤を味あわずにすむことをうれしく思った。
私がたいしたことを知らず、また彼らの政治になんら興味を示さないことがわかったからだろう。次第に慕容廆は堅苦しい姿勢を解いて、ふとこう尋ねた。
「
私は驚いた。なぜ彼が張司空を知っているのだろう? 張司空といえば、今は……皇后陛下、そう、皇后陛下の信任厚く、朝廷を実際に動かしている大人物だ。その張司空を、彼は昔なじみの近況を尋ねるように聞いた。
動揺が私の顔に出たのだろう。慕容廆はすぐにこう語った。
「まだ私が子どもの時分、安北将軍として赴任された張司空に、お目にかかったことがあります。すばらしい方だった。
そう言って彼は今自分がかぶっている冠、それをとめる簪を指した。
「これです」
誇らしげな彼には悪いが、私は彼が冠を指したことで、彼らが持つというある重要な風習をまだ見ていないことに気がついた。
私がそのことを口にすると、彼は一瞬、不機嫌そうに目を細めた。
「あれを? しかし、あれは我らの内輪のもので、あなたにご覧に入れるようなものでは……」
そこを何とか、と私は頼みこんだ。
「わかりました」
と遂に彼は言った。
「お見せしましょう。少し時間をいただきますが。……ои,дзюнбисиро」
「хаи」
慕容廆はそばに控えていた女官に慕容の言葉で話しかけた。漢人と思われた彼女は、しかし慕容の言葉で答えると、しずしずと奥へ戻り、慕容廆も続いた。
5 冠に実る黄金の果実
次に見た慕容廆は、金色に輝く冠をかぶっていた。
冠といっても我々漢人がかぶる、髪と頭を包む冠ではない。慕容廆の冠は、頭より少し小さい輪っかの上に、樹木を模した角が隙間なく並んでいる。その樹木に実っているのは、丸く薄い金の果実だ。青銅で作られ全体を鍍金されたこの冠はまばゆいほどに輝いているが、なかでもこの黄金色の果実が歩くたびきらきらと揺れて輝く。私も文献では知っていたが実物を見るのは初めてで、その美しさにしばし見とれた。
「……ご存じかもしれませんが」
乗り気ではない慕容廆はごく控えめに語った。「これが
「私の曾祖父、名は
と慕容廆は彼らの歴史を語った。
「当時、公孫淵の拠った燕ではこの歩揺冠がたいそう人気だったそうです。莫護跋は歩揺冠を初めて見て大層気に入り、自らかぶるようになった。故に、我らの一族は「ほよう」と呼ばれるようになり、やがて音が訛って「ぼよう」となり、我々は自ら「慕容」と名乗るようになった。……」
「さて」
と慕容廆は不機嫌なまま言う。彼としては私が彼らの文化風習にしか興味がない上に、かなり興味津々といった顔で立ち入ってくるのがおもしろくないのだろう。彼は、厳しい環境で生きる彼らは、そういう腹の足しにもならないことに熱中するから漢人は軟弱なのだと思っている節がある。私も否定はできないが。
「ところで」
明らかにこちらに興味をなくしたふうの慕容廆は、しかし一応、といった具合に私に聞いてきた。
「私に仕える気はありませんか? あなたにふさわしい身分を保障します」
一応、という声が聞こえてきそうだった。私は少し笑いそうになりながら、いいえ、と答えた。
「そうですか」
ではさようなら。
といったあっけなさで、私と慕容廆の対面は終わった。
棘城には漢人が多く住むが、なかには学識もあれば身分もある漢人もいる。彼らが慕容をはじめ胡族に亡命すれば、好待遇を与えられるのが通常だ。放牧し交易しあるいは略奪し、常に移動する胡族たちは、何よりも情報を大切にしているからだ。学識と身分のある漢人は重要な情報源のひとつであり、胡族は彼らから情報を手に入れ、礼儀作法をはじめ対漢人用の交渉術を会得する。慕容廆の礼服も作法も、そういった漢人たちから教わったのだろう。
だからこそ、彼は私の来訪に通訳も護衛もつけてくれたのだ。私が新たな情報その他をもたらさないかと期待して。
しかし、私のような穀潰しではたいして役に立たないと判断されたらしい。まさか晋王朝からも胡族である慕容からも同じ評価を下されるとはさすがに思わなかったと、私は自分でも意味もわからずおもしろかった。
6 西の彼方に消えた人々
「旦那も大概もの好きですよね。長生きできませんよ」
史栄は私の話を聞いて心底あきれたようだった。「もともと気が荒い連中なんですから」
確かにそれはそうだ。
優雅に振る舞って見せたあの慕容廆も、十数年前には遺恨のある
また、慕容廆についてはこういう話も聞く。なんでも彼は父の死後、叔父に殺されかけたという。慕容廆は逃げ延び、酋長の位を簒奪した叔父は人望がなかったためにやがて殺された。それを待って慕容廆は部族に戻り、酋長になったそうだ。
彼らの間では、復讐はいつも一族と一族の間で行われる。だから同じ一族の父を殺しても兄を殺しても罪ではなく、まして子や弟や甥を殺しても罪ではない。だから酋長の継承には、血腥い事件が起こりやすい。彼らはそういう人々だ。
「それを知ってて行くんですから、旦那は大物ですよ」
史栄は明らかに皮肉をこめて言った。
しかし、私には心残りがある。彼らの秋の祭祀を見学できずに、こうして帰路につかなければならなかったことだ。彼らは正月、五月、そして九月、各地の長が集まり彼らの祖霊や神を祭るという。だからこそ私は九月に彼らを訪れたのだ。実際、棘城には長らしき人々が馬を駆り穹廬を建て続々と集まってきていた。
「いい迷惑ですね」
遠慮のなくなった史栄が言う。「この時期はあいつらが冬営地に移動する時期なんですよ。ただでさえ忙しい時期なのに……」
史栄は肩をすくめて、
「まちがっても樹左車たちに聞こうとしないでくださいね。そんなことしたら、あいつらはきっと怒って旦那を殺しますよ」
わかっている、と私は返した。歩揺冠を見せた慕容廆の反応しかり、彼らは彼ら独自の、胡族的な風習を私に見せることを嫌がっていた。よそ者の漢人は、漢人から教わった漢人的社交辞令であしらっておくに限る、というのが彼らの考えらしかった。それなのに彼らのもっとも胡族的な部分、祭祀を見せてもらえるほど打ち解けるには恐らく数年、あるいは十年以上の参与観察が必要だろう。しかしそれでは、広汎な見聞録を書くという私の目的は達せられなくなってしまう。
それでも残念に思いながら、私はふと辺りを見渡した。前には樹左車たちがいる。後ろにも慕容の戦士たちが警戒にあたり、斜め後ろでは史栄が大きくあくびをし、馬首にしがみついて一眠りする素振りを見せた。
その他には何もない。ただただ広い大地がある。
この地が交通の要所だと言われても、私は最後まで信じ切れなかった。ここは北東の扶余や高句麗といった異国、慕容だけでなく宇文などの鮮卑族の諸部族、そして万里の長城より南の華北をつなぐ、十字路だ。そう言われても、私にはただただ広すぎる大地としか思えなかった。
そう、広すぎる。広すぎて怖い。私には、城壁に囲まれた城市で育った私には、この際限なく広がる大地を移動することに対して、本能的な恐怖が消えなかった。
なぜ彼らは移動しつづけられるのだろう? あるいは、移動しつづけることに恐怖や疑問を抱かないのだろうか?
「生まれたときからそうですから」
というのが史栄の答えだ。「それに移動しなきゃ死ぬってなったら、するでしょう?」
夜営のたき火に照らされた彼の顔は、何を馬鹿なことを、と言わんばかりの顔つきをしていた。「定住して生きていけるならそうしますし、できないなら移動して暮らす。どちらにせよ、なんとかして生きる。それだけじゃないですか」
私はもうひとつ、気になることを聞いてみた。北方の騎馬民族といえば、漢人にとっては今でも
「匈奴? この辺りでは全く見なくなってずいぶん経ちますが」
史栄も詳しくは知らないようだったが、「ああ、そういえば」と興味深いことを語ってくれた。
「俺たちの同族で西に……旦那がたの言う
康国? と思わず私は聞き返してしまった。あまりに遠い場所だ。いくらなんでも匈奴たちはそこまで遠くに行ってしまったのだろうか?
「行けますよ。陸はつながっているんですから」
史栄は再びその言葉を口にした。「それに、何とかして生きますよ。匈奴たちも意外と元気にやってるんじゃないでしょうか?」
しかしそこまで遠くだと、さすがに商売は相手にはできそうにありませんが。史栄は冗談めかして言った。
確かに陸は続いている。今は夜の闇に沈んでいるが、大地は変わらず、どこまでもどこまでも続いている。それは間違いようもない。だが康国よりも西といったら、確かそこは……
しかし、人はどこでも生きようとする。
史栄の言った通り、また私自身が見聞した通り。私は見聞録執筆のためにほうぼうへ赴いたが、どんな場所にも人はいて、生きていた。今回の取材先、慕容たちの昌黎でもそれは変わらなかったし、きっと康国でも大秦国でも何も変わりはしないだろう。
サークル名:華亭の鶴(URL)
執筆者名:久志木梓一言アピール
主に3~4世紀の中国を題材に、さまざま創作しています。壮大な歴史を描くスペクタクル・ロマン……というよりは、今回のアンソロ参加作のように文化をメインにした、ミクロでマニアックな話を書いています。よろしくお願いします。