鬼と行かば、魔に逢う暮れに


どんな事にも理由はある。但し、一つだけとは限らない。
古書店を営む「私」は、友人である「先生」の青い瞳に理由律の海を見る。
『青春雑音』、ノスタルジアの影に潜んでいたのは。『創嫉残響』、魔物と戦う者があげた叫びとは。『夕日証明』、見えないものにこそ意味がある。
サークル・島梟がお送りする秋と冬の青春怪談短編集。
(作品裏表紙より)

 また、だ。
 またやってくれた。
 また僕の嫉妬を駆り立てるような、惜しむことなく羨望の眼差しを注ぐような、純粋に賞賛したくなるような、そんな作品に仕上げてくれた。
 素晴らしい、と心から言わせて欲しい。
 そしてできれば、僕以外の沢山の人ともこの素晴らしさを分かち合いたい。この得体の知れない、夕暮れの時間帯に出会ってしまった魔物のような空気を漂わせる作品を読んでもらいたい。
 本作『鬼と行かば、魔に逢う暮れに』は、閉鎖的で内向的な僕をして「この作品について色んな人と語り合いたい!」と思わせる力を持った作品だ。

 前作『幽人、籠枕を好み』から引き続き、学業の傍ら古書店を営む「私」と「私」の友人であり仄かな憧れの対象である「先生」の二人を中心に物語は進む。
 聖夜に怪談を語る「先生」の目的を焦点にした『理由並列』。
 「私」の元に持ち込まれた、奇妙なDVDを巡る『青春雑音』。
 通り魔に魅入られる「私」を描く『殺意乱数』。
 奇妙な怪談話について推理を巡らせる『創嫉残響』。
 「私」の兄について語られる『夕日証明』。
 全て、質の良い、宝石のような怪談だ。
 背筋がぞくりと震える。冷や汗が薄く浮かぶ。派手さと荒唐無稽さを追求したモンスター・パニックでもなければ銀幕に血飛沫と内臓をぶちまけるスプラッターでもない、最近妙に流行りの陰惨で暴力表現の執拗なフレンチ・ホラーでもない。グロテスクな怪物が登場するわけでもなければ、気の狂った科学者が無慈悲な実験を繰り返すわけでもない。直接的な表現は何一つなく、しかし確かな「恐怖」が暗示される。
 怪談、都市伝説、奇譚──いずれも玉石混淆、傑作も駄作も無数にあるのだけど、本作に収録された五つの短編はいずれも傑作だと胸を張って断言できる。
 古来からの因習でもなく、理不尽な暴力でもなく、ただ静かに忍び寄る形のない恐怖が描かれている。時系列も物語としての結末も、何もかも曖昧で、読むたびに手触りが変化する。
 もしかしてこうなのか? いや、本当はこうなんじゃないか?
 読者の頭の中に渦巻く疑問に、本作は決して答えを明らかにしない。
 一寸先は闇ではないけれど、まさに自分の鼻先程度の距離しか見えない黄昏時の中を手探りで歩くように、読者はただ物語の始まりと(一応の)終わりを肌感覚で知るだけだ。

 僕は稲川淳二氏の怪談が大好きで、よくイベントにも足を運ぶのだけど、いつだったか彼は「怪談は怖いだけじゃいけないんです。優しかったり、心を動かしたり、何かそういうものが必要なんです」と言っていたのを思い出す。
 確かに本作は、怖い怪談が集まっている。
 怪異は明示されない。むしろ怪異に関わる人間達こそ恐ろしいような書き方をされているようにも思う。だけど、人ではないモノの存在を匂わせているし、実際読んでいる内にそういったモノ達の息遣いまで感じられるような気もする。
 得体が知れない。だから、怖い。
 けれど、怖いだけでは終わらない。
 読み始め、そして『夕日証明』を読み終えたとき、僕のこの「怖いだけでは終わらない」感覚がわかると思う。
 この作品には怖さと、優しさが同居しているから。

 前作『幽人、籠枕を好み』は文句なしに素晴らしい作品だった。夏を味わい、楽しみ尽くす怪談集だった。
 本作『鬼と行かば、魔に逢う暮れに』は、秋と冬の怪談集だ。
 「私」は過ぎゆく秋を懐かしみ、訪れる冬の寒さに怯え、しかしいずれ訪れる春へと傾いていく季節の中を生きている。
 後ろ髪を引かれる思い、何一つ成せないことへの焦燥、日々の平穏を願う心、ささやかな日常を楽しむ気持ち──物語を動かすための都合の良いキャラクターではない、確かな「人」としての「私」が、この作品の中には丁寧に描かれている。
 怖い。
 けれど、見ていたい。
 これらが決して矛盾することのない感情なのだと、この作品は教えてくれる。

 言葉を尽くしたって魅力は語りきれない。
 是非、多くの人が手にとって、読んで、そして味わって欲しい。 


発行:梟流
判型:新書版 96P
頒布価格:400円
サイト:梟流 “小説家になろう”マイページ
レビュワー:神楽坂司