民国期の中国大陸。横暴極める日本人の振る舞いに憎悪の念を抱きつつも、北平(現・北京)で起こる激しい抗日運動の行く末に不安を感じた丁安遠は、その争いから身を遠ざけるようにして漢口へと移り住む。帽子屋の家に間借りした彼は、そこで毎朝、隣家から口琴(ハーモニカ)の奏でる音色を耳にするようになったが、しかし、その口琴の音色には、いつも曲の途中で演奏が終わってしまうという特徴があった。しかも、その口琴を奏でる者について、漢口の住民は誰もが無視を決め込んでいる。やがて安遠は、周りの住民から遠ざけられている口琴の主と接触する。その主は、上品な雰囲気をたたえた女性だった…。
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夜来香 中国短編小説集一(1)
全くの偶然であるが、評者は今から5年ほど前、本作と同時期の中国を舞台の一つとした、一本の長編小説を書いた。その長編を書いた時に強く感じ、また先日本作を読んだ際にも改めて感じたのが、前世紀初頭から半ばにかけての北東アジアが、特定の政治的・社会的信条に命を捧げることを絶対的な善とし、『より安寧な生活を送りたい』という欲求を強く否定する空間であったということである。
勿論、そのような空間は人類の歴史に至るところに見られるものである。ナチス撤退後、ドイツ人と親しくしていた人々が著しい恥辱に晒されたフランス。或いはベルギーの植民地支配下で地元住民が二つの『部族』に分断され、やがてその『部族』同士の憎悪が煽られた結果、凄惨なる大虐殺が引き起こされたルワンダ。政治的・社会的な主義主張や信条が『静かに、穏やかに、愛する家族や友人たちとともに仲良く暮らしたい』という人間として当然の思いを上書きしてしまう例は枚挙に暇がない。
本作品は、それらを中国近現代史における架空の一断面として描写した作品である。主人公・安遠を惹きつけた口琴の音色、その口琴を吹く女性、彼女と彼女の持つ口琴が抱える過去の経緯、そしてその女性が辿る結末。作品後半部の展開からは、安寧な日々を信条と正義の嵐から守ろうとしつつも、それが叶わなかった人々の姿が見出される。
あまりに悲しい結末の物語ではあるが、しかし著者は、本作品最後の4行において、未来へと視線を転じている。そして、今から先の時間へと意識を向けることによって、物語全体が悲しくも絶望のみに終わることを回避している。そうした点において本作品は、読む者に『糧』を残してくれる良質な悲劇に仕立て上げられているといっていいだろう。
発行:龍の髭
判型:A5 44P
頒布価格:200円
サイト:龍の髭
レビュワー:高森純一郎