幽人、籠枕を好み


内と外。境界の向こうで微笑む彼が、私を待つ──
古書店を営む『私』は常連客の『先生』に手を引かれ、今日も不思議に触れていく。哀しき魚たちの魂に触れる『魚の話』、不可解な人間の心に触れる『幽霊の話』、そこに映るものについて頭を悩ませる『映るものの話』。
サークル・梟流がお送りする夏の青春怪談短編集。
(裏表紙あらすじより抜粋)

 読み終わって、「畜生、やられた!」と思わず快哉を叫ばずにはいられない。この『幽人、籠枕を好み』は、僕にとってそんな作品だった。当然その出会いは貴重だし、大切なものだ。年間何冊本を読んでも──それがプロのものであれアマチュア作家のものであれ──自分の心にストンと落ちてくるような作品はそうそうない。
 自分と、波長が合う。
 そして多分この作品は、沢山の人と波長が合うはずだ。
 とてもとても広範囲に電波を飛ばしている、高性能な電波塔のような作品とでも言うべきだろうか。

 内容としては、古書店を営む(とは言っても完全に一人で経営しているわけではないらしい)「私」と、その「私」の店の常連客であり仄かな憧れの対象である「先生」が繰り広げる怪異譚三編である。
 『魚の話』、『幽霊の話』、そして『映るものの話』。
 短編として程よい分量だし、実際重厚な表現力にも関わらず、この作品はあっという間に読み終えてしまう。読み始めて、気が付いたら終わっている。そして、後にはただ蝉時雨のような余韻だけが残る。深く深く染み込んでくる余韻を味わいながら、もう一度最初からページをめくる──そうせずにはいられない作品だ。
 あくまでこれは僕の持論なので、共通認識ではないし、そう思って欲しくもないのだけど、僕個人は──怪談や奇譚に、明確な理由や原因があって欲しくないと思っている。何か不思議なことが起きる。「それはきっとこういうわけだよ」と説明される──けれど、腑に落ちたような、腑に落ちないような、何とも形容し難いもやもやが残る。それは決して説明不足ではなくて、読者に想像の余地を与えるもやもやだ。
 優れた怪談話、読んで思わず膝を叩きたくなるほど良く出来た怪談話というのは、「怖さ」も当然必要だけど「良く出来た話だね……」と感嘆したくなる、そんな力も必要なのではないだろうか?
 本作品は、まさにそんな「心地よいもやもやが残る」作品だ。
 多分そうなんだろう。
 恐らくこうなんだろう。
 三編それぞれに一応の解決は見られるけれど、明確な回答は用意されていない。
 そしてそれがたまらなく心地よい──胸を掻きむしるような慕情が、この作品の中にあるからだ。

 作中の舞台は夏。暑苦しく誰もが汗ばみ、湿気に皆顔をしかめ、しかし子供達は賑やかにプールで遊び若者は花火で賑わう。そんな、映画の書き割りのような『夏』が本作品中には散りばめられている。誰もが郷愁に焦がれ、誰もが経験したはずの『夏』が、「私」と「先生」を優しく、そして怪しく包み込んでいる。

「季節を動かす歯車があるとすれば、蝉の声は夏の回る音なのだろう」

 この一文を味わうだけでも、この本を手に取る価値は十分以上にある。
 作者の小鳥遊さんは2012年頃から小説を書き始め、この本が実質初製本のようだけど(そして制作期間も短かったようだけど)、だとしたら何とも末恐ろしい話だと思う。この人が本腰を入れて小説を書き進め、どんどんと磨かれていったらどうなってしまうのだろう? どれだけの人を魅了する作品を作れるのだろう。

 僕はその日が待ち遠しくてたまらないのだ。


発行:梟流
判型:新書版 80P
頒布価格:400円
サイト:小鳥遊(小説家になろう)

レビュワー:神楽坂司