【一文字も書けない娘】(第五十七夜)

 一文字も書けないんです先生。
 上条ふみ子は日ごろから達者な字を書き、書道大会で入選すること數々、非の打ち所のない完璧な手を誉められていたが、今は原稿用紙を山と抱えて国語科研究室に立ち尽くしていた。何が、と問えば、原稿用紙を腕から罅割れた床へざらりと雪崩れさせた。広がった紙の海には、機械で打ち出したような非人間的筆跡が敷き詰められて余白のほかに隙間もないほどだった。書けているではないかと言うとふみ子は、赤いボールペンを取り出し足元の一枚にとりついた。一行目の隣りに、緻かいが背筋の凍るほど精密な文字で何かを書いていった。筋繊維の滑動限界を疑う速度で余白を埋めた鬼筆は、顔をあげ俄雨を待つような瞳をみせた。示された原稿用紙を取り上げる腕が本能に震えた。樫色の四角を避けて身を寄せ合う謎の赤字は著者名と書名と出版社名出版年月日印刷所ページ数行数そして端的な説明、つまり――この原稿用紙に書かれた一語一語の言葉、それらの連関が誰の何という本のどの版の何ページ何行目といかなる点で共通しているかが仔細に書かれているのだった。一文字も書けないんです先生、と、ふみ子はまた繰り返した。私の言葉が。