【札幌の浴室】(第五十三夜)

 札幌で一人暮らしをしていたときのことです。涙も凍る冬の、零下十度を下回る寒い夜のことでした。予備校の仕事を午後十一時に終えて、薄野で晩飯を済ませた私は豊平川沿いに雪の中を歩いて帰り、午前一時くらいに澄川の自宅に着きました。扉を閉めて鍵をかけると雪と寒さとで部屋のあちこちの軋む音がします。夜の散歩で鼻先や指先が感覚を失うくらいに冷えていたので、すぐに浴槽にお湯を入れ服を脱ぎ肩まで浸かりました。
 疲れていたのでしょう。私はお湯に浸かりながらうたた寝をしました。ハッと目覚めると水面に長い毛髪が浮いていました。陰毛かと思ったのですが縮れてもいなし長すぎます。まるで女の髪のようでした。浴槽の外にその髪を捨てました。でも数分後にまた長い髪が浮いてきます。排水溝に髪を捨ててもまた髪が浮いてきました。気味が悪くなって私は浴槽から出ました。すると浴槽の底には長い髪をした女の顔が沈んでいたのです。ギョッとしました。けれど優しい顔をした女だったのでその現実を受け入れてしまいました。その女は水中で何か言っていました。唇の動きを読んでいくとその女が繰り返している言葉が分かりました。
「お・そ・と」
 後ろを振り返ると浴室の曇り硝子に人影が映ります。しかし扉を開けても誰もいませんでした。そして浴槽の底にあった女の顔も無くなってました。その時チャイムが鳴りました。
 ピンポーン、と。