【鶴坂】(第三十八夜)

ヲゝ、これはお前(めへ)さん転びなさんなよ。よつく下を向いてお歩きよ。此のところ雨の続いたからネ。下駄が泥に取られちやいけねへ。
ナニ、ここいらぢヤア、この坂は鶴坂といつて名の知れた処だヨ。ホウ、お前さんご存知ねへとはソリャいけねへ。
ここいらが大火で焼ける前の時分だヨ、此の坂の上に何某といふ旗本の御屋敷があつて、そこに鶴といふ女、奉公に上がつていたンだが、コレが大層旦那のお気に入りで、其れがよくねへ、よくある話サ、奥方様のおもしろくねへときて、奥方様、中間(ちゅうげん)共にいひつけて、お鶴を井戸に放り込んだつてサ。旦那には知らぬ顔で里に帰しました、ホホ、などといつていたが、夏になつて井戸の臭いがいけねへつてんで、中を浚つてみりやア案の定、赤い振袖のしやれこうべが、釣瓶にかかつて上がつたのサ。
間もなくして旗本某も奥方も病で死んだが、お鶴女の噂は絶えねへヨ。旦那の言い付けを守つて今でもこの坂を上つて屋敷に通つてゐる。帯を引き摺つて上つていくのを、二月の月の無い晩に手前(てめへ)の母(かか)アも見たつてサ。
ソウソウ、お前さん転んだらいけないといふに。この鶴坂で転ぶとネ、井戸のアッチに連れていかれるといふ話だヨ。