arasuji
ひとがどこかに根を張って生きていくということ。
大地からは水と栄養、そして毒を汲む。

2013年~2016年発表の、
「自分の住んでいる場所」「居場所」へのあえかな愛憎をえがいた再録短編集。

収録作品

「消滅可能性私達」
(2015年 痛覚様発行「きみとダンスを」寄稿)

「なまえをあげよう」
(2013年 第十七回文学フリマ個人誌初出 加筆修正)

「幸福の香りにはさわれない」
(2014年 web公開(フリーワンライ) 加筆修正)

「わたしのまちはきらきらくらい」
(2016年 名古屋コミティア48ペーパー初出 加筆修正)

(第4回Text-Revolutions Webカタログより転載)

kansou
それぞれの居るべき場所で「まち」の中で生き、生かされている四人の「私達」の物語。年齢・住む場所・立ち向かっている現実はそれぞれ違えど、抗いながら「何か」を残そうと懸命に生きる人たちの物語なのかな、と受け止めました。
目を背け、見ないふりをしている方が「楽」で、それでも「楽」であることと本当に「楽しい」ことは当然別物で。
あずみさんの物語るお話は現実の困難をただ痛ましく突きつけるのではなく、感情の澱をやわらかに掬い上げるようなまなざしには優しさがあります。
それはきっと、物語を生きる彼らの中に諦念と共に、「それでも何かを残したい」という懸命さと力強さを感じるからかもしれません。そこにどうしても見出さずにいられないのは「物語る」ことへの誠実さ、切実さのようなものでした。
個人的には最後に収録された「わたしのまちはきらきらくらい」にほろほろ泣いてしまいました。きらきらと豊かなつくりものの「まち」へ馳せる想いはハッとするほど鮮やかで痛ましさもただ美しい。
綺麗な絵空事を描くことに何の意味があるの? と自問自答を投げかけながらいずれ沈んでいくのであろうきらきらと豊かな作り物の「まち」を見下ろす主人公の目線に立った時に浮かぶのは、タイトルにも冠された「消滅可能性私達」に登場するいずれ地図から消え去っていく「まち」の姿であり、作中に登場する美しい街を描く路上小説家を「うそつき」と揶揄する私の姿は「物語ること」への問いかけのように胸に突き去りました。

読みながら自然と浮かんだのはあずみさんの代表作である「ワスレナウタ」シリーズに登場する砂糖菓子のような美しい街の光景であり、改めて、「ワスレナウタ」は町に生き、生かされ、それでも見えない何かに抗いながら自らの業を背負って生きていく物語だったんだなぁと他の作品で感じたことが浮かび上がってきました。
他の作品を通して書き手さんが一貫して見つめ続けているモチーフ・テーマに触れることが出来るというのは一人の作家さんの作品を追うことの楽しみだな、とも。

入れ替わり立ち代わり現れる主人公たちは置かれる立場も向き合っている現実も当然違っていて、彼らの目線・語り口には『降りてくる』かのような感覚を受けます。
一読して浮かんだのは「諦念」ではありましたが、そこに留まらない「私の生きる場所はいま立っているこの場所である」という強さもそこにはあり、真っ直ぐなまなざしに射抜かれるかのような心地になりました。
お話ごとにテーマを余すことなく表現するための語り口を持っていらっしゃる、様々なカードを使い分けることが出来るのがあずみさんという書き手さんの筆力なのだな、とも。
いままでのあずみさんの作品に触れてきた方にも、初めて読まれる方にもおすすめしたい一冊です。

data

発行:冬青
判型:文庫(A6)68P
頒布価格:300円
サイト冬青
レビュワー:高梨來