聖ペトロよ、この母子を祝福したまえ

arasuji

9世紀、中世ヨーロッパ。
女は罪の根源であり、憎まれる、汚らわしい存在。
そのような世界の中で、とある女性が男の祭服に身を包み、神聖なる教皇の座に座った。女性を蔑みあざ笑う「真理」を知る司祭たちは、誰一人としてそのような事実に気が付いていなかった。
彼女の名前はヨハンナ・アングリクス。
余りに優秀で余りに神を慕っているというのに、女と言うだけで汚れた者扱いされる世界で、女教皇ヨハンナは女を殺して生き延び、そして壮絶な死を遂げた。歴代教皇の歴史に、名を連ねることもなく。

女として差別されたがために男として生きた彼女は、いつも気付つけられる女性たちを見てきた。
だが、そんな彼女の思いを踏みにじるのは、いつも自分達だけは汚れてないと思い込む男性たちだった。

中世伝説に語られる幻の女教皇の、苦悩の人生を描いた戯曲。

(第6回Text-Revolutions Webカタログより転載)

kansou

 戯曲作品です。
 女教皇ヨハンナの話と聞いた時点で、この本が面白おかしいものではないとわかっていたが、それでもヨハンナを書く人がいるなんて、という興味にとりつかれて購入してしまった。あー、疲れてるのに今読まなくてもと思いつつつい本を開き、次々ページをめくっていた。やはり重かったけれど、目が離せなかった。強い立場の者は弱い立場の者を理不尽に馬鹿にして虐げ、反抗すれば叩き、弱い立場の者たちはその弱さから足を引っ張りあうしかなく、脱落者は死ぬ。私には現実の世界が、この話の舞台のように絶望的で閉塞したもののように感じられることがある。
 ジェンダーを扱った話、という見方をするべきだろうけれど、ヨハンナの苦しみは実は全人類の抱える苦悩でもあるように思える。このヨハンナはしかしとても強い精神を持っていて、女であることから来るあらゆる重圧に簡単に押し潰されることなく、必死に生きて行く。彼女を突き動かしていたのは理不尽な世の中や歪んだ偏った価値観への強い怒りももちろんあったけれど、同時に神への絶対的な信頼でもあった。感覚だけでなく、理性を信じ、冷静に戦い勝ち抜いて来たのは頭が良かったからだ。だが神学校の優秀で頭のいい男たちは、彼女ほどにはキリストを理解することができなかった。人はどうしても自分の感覚に絶対的な信頼を寄せてしまうからなのではないか。世の中では皆こう言っているからあたりまえ、これが常識、という感覚は、とても強く人を引っ張るものだから。それが偏見であることにすら普通なかなか気付かない。男という立場の強い存在であれば尚更。

 ヨハンナはとてもよく怒って、すぐ喧嘩もする。そして、なかなか答えを与えてくれない神の前に、悩み続ける。そして私はキリストを思い出す。

 学生の頃、新約聖書に触れる機会があったが、私にはキリストの教えがとても難しく感じられた。一番強く印象に残っていたのは、キリストは「怒ってばっかり」ということだった。神殿で商売してる人の屋台を蹴散らしたり、せっかくキリストに理解を示して誉め称えてくれる人たちに馬鹿なことを言うな愚か者、というような不機嫌そうな言い方したりし、また弟子たちのこともしょっちゅう叱ってる。何でこんなに怒ってるんだろう、と思った。また、最も理解できなかったのは、ゲッセマネの園で父である神の考えが推し量れず悩む姿だ。こんな、私のような下々でもあるまいし、徳の高いお方が何を思い悩んでいるのだろう、何が怖いんだろうと。真理なんてちゃんとわかってるだろうし怖いはずなんてないのにと。ヨハンナも、これと似たような種類の言葉を人から投げつけられている。

 そして、ヨハンナもまた、ゴルゴタの丘への道を行く。それは凄惨な口上の重なりに、読んでいて圧倒された。こんな風に書ける人がいるんだ……。そうかこれはキリストの歩む道と同じだ。神はなかなか答えない。そして私は、あまりにも凄まじい言葉の応報に、だんだん何が真実なのかわからなくなってゆく。私は受け止めきれず心細く恐ろしくなっていく。しかし、ヨハンナは大衆の罵倒に全く臆することなく、怒り、力強く説き続ける。そしてマルチェロの最後の言葉が、全くその本人の意図に反して、そして恐ろしい絶望的な周囲の状況とうらはらに、どこに真実があるかを読者に対してのみ明白にするのだ。
 はっとした。彼女を突き動かしていたのは、怒りと、悩んで判断し選んできた自己の意志だけではない。神への信頼(信仰)はもちろんある。ただ他の人達と違って彼女を最後の最後まで歩かせたのは何なのか、キリスト教徒でもない私に正しい答はわからないけれど。ペトロがどうだったのかわからないけれど。そういえば、ただ愛であったんだ、と思った。ずっと。それは我々の知っている、日常のぽかぽか温かい愛なんかでなく、流血と罵声の中での、残酷な犠牲を伴う、絶対的な愛だったのだと思う。しかしそれは崇高というよりも、私のような、またマルチェロのような、地べたでへたりこんでいる人たちの位置まで降りてきてくれるとてつもなく優しい愛でもある。これがあまりに生々しく訴えかけてきたので、初めてキリストを、ひとつの方面からかもしれないが少しだけ理解できた気がする。そして、私は観念ではなく人としての自分と、また観念ではなく人としての他人についてふと思いを致した。

 ただし、この作品が描いているのは宗教ではなく、あくまでヨハンナという神の道を生きた人だ。この作者様もキリスト者ではないよう。自分の宗教に関わらず読んで問題無い。多くの人にとっていろいろ感じるものがあると思う。衝撃的な作品だった。

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発行:クリスマス市のグリューワイン
判型:文庫(A6) 124P
頒布価格:600円
サイト:クリスマス市のグリューワイン
レビュワー:nanori_nigatsu