水無月の川辺で -朱鳥の神楽・小外伝-

 朱鳥あけみとりみやこ……
 いつの日よりか、触れた途端に生きとし生ける者の命の炎を、瞬時に消してしまう朱華はねずの水は、此の世の大地に溢れ出した。
 朱華はねずの水は、海のように大地を覆い、人々の営みを押し流し、為す術もない人々は、ただ怖れ、逃げまどい、そして水の餌食となって多くの者が、命を落としていった。
 そして朱華はねずの水の恐怖が、都にも迫っていた。
 帝に仕える式神使いは、朱華はねずの水を避けるため、式神によって都とその周辺を宙に浮かせることにした。
 朱華はねずの水を避けるようにして、鳥のように空に浮く都……いつしか人々は、朱鳥あけみとりの都と呼ぶようになったという。
そして、朱鳥あけみとりの都が空での営みを始めてから、一二〇年あまりの月日が流れた。

 宙に浮かぶ朱鳥あけみとりの都でも、天空のご機嫌にお伺いを立てながら生活することでは、地上と全く変わらない。
 昨日までの小雨模様とはうってかわって、今日の空には、柔らかな日差しを遮るものは何も浮かんでいなかった。
 外に出る機会に恵まれなかった人々にとっては、久しぶりの外出日和である。
「はやく、はやくぅ」
「まってよぉ」
 都の城門を出てすぐのところ、まばらに行き交う人々に混じって、歳のころ十歳にも満たないであろうか。小綺麗な小袖を着たひと組の男の子と女の子が、威勢のいい声を上げていた。
 都を囲う城壁を取り巻く数十町ほどの土地は、もっぱら都の民を養うための農産物を作る耕作地が広がっているのだが、それ以外にも、都の水甕となる溜め池同士を繋いでいる小川がひとつある。
 いずれも大人にとっては大したことのない距離だが、子供にとってはちょっとした遠足といったところ。
「置いてっちゃうよ紫道しどくん」
 女の子の方は、一度立ち止まって男の子の方を振り向き、両手を腰に当てる。
「ま、まってよ……相変わらず歩くの早いなぁ藤香とうかちゃん」
 紫道しどくんと呼ばれた男の子は、小走りになってようやく藤香とうかちゃんと呼んだ女の子に追い付く。男の子とはいっても、身体の発育は女の子の方よりも遅いのか、まだ頭ひとつ分背は小さい。
水無月みなづきの小川までお出かけするって言ったのはあんたでしょ。
 ゆっくりしてると、日が暮れて夜が明けて年も明けちゃうよ」
 なにげに無体なことを言う藤香とうかに、紫道しどは言い返すことをしない。口が達者な藤香とうかにいつも言い負かされるからである。
 そうこうしているうちに、一刻ほど歩いていると、木々の集まった森のような物が見えてきた。鳥の鳴き声と、せせらぎの音が心地よい。
 あと一町ほどで、宙に浮く土地の端まで行ってしまうほど、外れにある場所。休日でない限りあまり人は訪れないが、数少ない自然の岩場に小さな渓流が流れている。都の人々はそれを水無月みなづきの小川と呼んでいた。
「ここで前、けっこういいもん見つけたんだぜ」
 紫道しどは得意気に言うと、草鞋わらじを脱ぎ袴をたくし上げて小川に入る。深さはせいぜい膝小僧ぐらいまでしかないが、川底はゴツゴツした岩であるため転んだら危険極まりない。
「……んもう、何て無鉄砲なんでしょう」
 衣服を濡らしながら、川底を一生懸命に何かを捜す紫道しどを、川辺で藤香とうかは呆れ顔で見つめている。
「……あった!」
 嬉々とした声は紫道しどのもの。川底に右腕を突っ込むと、何かをつまんで拾い上げ、高々とかかげながら藤香とうかのもとへ向かってくる。
「……何コレ?」
 川を上がってきた紫道の手にある物を見て、藤香とうかは訝しむばかり。あちこち角張り、ちょっと緑がかった単なる石にしか見えない。
「あんまし見たことない石だろ? 藤香とうかにあげる」
「えぇ、いいわよこんなわけ分からない石ころ」
「そんなぁ」
 泣きそうな顔をする紫道しど。しかし、藤香とうかの後ろに視線を移し、みるみるその顔は青ざめてゆく。
「どうしたのよ……っ」
 一応石を握りつつ、振り向く藤香とうかも、思わず息を呑む。
 グウウゥゥ……
 二人の前に、二匹の野犬が牙を濡らしながら唸り声を上げていた。都の野良犬が城壁の外に出て、野鳥や放し飼いの鶏を喰らいながら狂犬化することは珍しいことでもなく、年に一回は検非違使けびいしの役人が、わざわざ都の外の狂犬駆除を行うほどである。
「さ、さがって藤香とうかちゃん!」
 かすれて裏返った声を上げながらも、紫道しどは足下にあった木の枝を拾い上げて、藤香とうかと身体の位置を入れ替え、野犬に向かって木の枝を青眼に構えた。が、枝先は僅かに震えている。
「ちょっ、ちょっと紫道しどくん、そんな棒きれでどうにかなるの?」
「こ、これでも父上から、剣術の稽古は受けてるんだ……こ、こんな犬、ど、どうってことないさ」
「そ、その割には声も足も震えてるじゃない」
 ツッこむ藤香とうかも、顔を青ざめさせながら、思わず紫道しどの身体の陰に隠れてしまう。自分の身体の柔肉が、野犬の栄養になってゆくのを想像するのは、さすがにイヤすぎた。
 ガウッ!
 野犬のうち左の一匹が、ひと吠えしたかと思うと、口を開けて紫道しどに飛びかかってきた!
「う、うわっ、来るな」
 紫道しどは慌てて、木の枝を振り上げて上段から打ち込むが、体重の乗った野犬の飛びつきに、木の枝が耐えきれずはずもない。ベキッと軽い音を立てて真ん中から折れてしまった。
 ガフっ!
 そして、さがっていた紫道しどの左小手に、野犬の牙が鋭く突き立った!
「ぐ、ぐあああああっ!」
「ちょ、ちょっと紫道しどくん」
 激痛に思わず絶叫する紫道しど
 その声に反応するかのように、残ったもう一匹の野犬も二人に向かって飛びかかってくる。
「いやああああああっ!」
 藤香とうかも悲鳴を上げ、頭を抱えてしゃがみ込む。目を瞑り、歯を食いしばる。
 ギャンッ! ギャウッ!
 しかし聞こえてきたのは、野犬の息遣いでも自分の肉が肌ごと食いちぎられる音でもなく、野犬の弱々しく甲高い悲鳴。
「その歳で、背水の陣を敷くには早いよのう」
 藤香とうかが恐る恐る顔を上げて目を開けると、二人よりも頭数個分は高い、たくましい大人の男が、二人の前にそびえ立っていた。
 

「よし、これでよいだろう。狂犬は思わぬ毒を持つこともある。都に戻ったらちゃんと医師に診てもらい、薬草を処方してもらうのだぞ」
 男は、荷物から真っさらの手ぬぐいを出して、紫道の左腕を吊すように縛ってやると、傷口を消毒した液の入った大きな瓢箪ひょうたんに栓をする。臭いからして中身はどうやら酒らしい。
「ありがとうございます、助かりました」
 深々と藤香とうかは頭を下げる。
 野犬二匹をあっさりノした男は、よく日焼けした逞しい体格にヨレた狩衣を纏い長太刀を下げるという、子どもの二人にとって見た目は少し怖い出で立ちだったが、紫道しどの左腕に丁寧な応急処置を施してくれた。
「あー、よいよい。しかし検非違使けびいしが野犬駆除に出向くのは半月後、今は野犬が一番多い時期じゃからな。今日のところは早々に帰るがよいぞ」
「ありがとう、おっちゃん……俺も、おっちゃんみたいに強くなれるかな」
 紫道しどは、じっと男を見上げている。男も視線で返してやる。
「うむ、坊主が強くなりたいと思えばな。これぐらいの芸当はできるようになろう」
 言うや否や、男は腰の太刀を抜き放ち、高々と右上に掲げるように構えると、側にあった細い松に斬りつける。
 ざっ!
 太刀は地面すれすれでピタリと止まる。一瞬遅れて、細い松の幹はズルリ、と斜めにずれて地面に突き刺さった。
「今のは蜻蛉とんぼの構え。そこから、朱華の水さえ切り裂くような強い気持ちで、渾身の袈裟斬りを繰り出す……今わしが教えられるのはこのぐらいだ」
 あっけに取られる二人。粘りがある松の幹を両断するのは簡単な芸当ではなく、どうやら男は相当な遣い手らしい。
「……む? お嬢ちゃんの手にあるのは翡翠ひすいの原石か?」
 藤香とうかが右手でもてあましていた石を見て、男は驚いたような声を上げる。
「え? これそうなんですか?」
 キョトンとした様子の藤香とうか
「うむ、相違ない……この川では、まだ翡翠ひすいが拾えたのだな、驚きだ……あー、いずれにせよ勇敢と蛮勇は違う。優しさの中から自然と湧き出てくる強さを身につけてくれたまえ! では、わしはさらばだ!」
 男はまくし立てるように言うと、ひょいっと身軽に川を飛び越え、瓢箪の栓を開けて旨そうに中身を頬張りながら、水源地の溜め池の方角に向かって足早に歩いて行った。
「何だったんだろ……?」
「さあ……また野犬に襲われてもいやだし、もう帰りましょ」
「う、うん」
 二人は並んで歩き始める。
「あ、」
 しばらく歩いてから、藤香は顔を赤くしながら顔を背ける。
「……翡翠、ありがと。わたし、ずっと欲しかったんだ。翡翠」
 背けたままの藤香の横顔は、何となくだけど嬉しそうだなと紫道は思いながら、胸の中がほんのりと暖かく、心地よい何かに満たされてゆくのを感じていた。


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サークル名:白水の小説棚(URL
執筆者名:悠川白水

一言アピール
一次創作小説を細々と執筆しています。代表作はミニ四駆ライトノベル『ファイナルラップ!』・短編ライトノベル『蒼と雲の彼方で』『星粒の奇跡を信じて』など。恋愛&ヒューマンドラマ&バトル的なという作風が多いです。今回のアンソロは、和風バトルファンタジーノベル『朱鳥の神楽』のミニ外伝となっています。

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