士郎の何でもない幸せな一日
早朝から焼き上げたガトーショコラとアップルタルトを搬入ケースに詰めていると、ばたばたと走る音が聞こえた。何事かと目線を上げる。すると、リビングのドアの向こうから血相を変えた甥の
「どうして起こしてくれなかったのさ!」
リビングに響く凛とした声とは裏腹に、着衣はだいぶ乱れていた。おそらく手近な服を引っ掴んで着たのだろう。
「起こしたじゃないか」
「起こしてない!」
「お前、うん、って返事したぞ」
「知らないよっ!知ってたら今こんな事態になってない!ああ、土曜の一限は絶対外せない講義なのに」
世の中の大半が休みの土曜でも、理学部に通う祐弥は朝一から授業がある。そして、このやり取りも毎度おなじみの光景。慌てながら玄関に向かう祐弥に、
「時間を見つけて食べなさい」
士郎の柔らかい声。祐弥の表情が和らいだ。
「ありがと、士郎さん」
祐弥はザックにそれらを放り込むと、「行ってきます!」とそのまま駆けて出て行った。
「行ってらっしゃい。気を付けるんだぞ」
甥っ子を送り出した士郎は、一つ伸びをして呟いた。
「さて、私も行く準備をするか」
いつもの何気ない、幸せな一日が始まる。
車で二十分ほどの距離にある、昔ながらの入り組んだ住宅街。右は木造一軒家、左は生け垣が張り巡らされている小さな社。その間にぽつんと佇む木造平屋が士郎の職場――喫茶・
でもそれは、なにも外観に限ったことではなかった。内装も外装同様に落ち着き、それはまるで時が止まってしまったかのような、世間から切り離されてしまったような雰囲気を漂わせている。全てはマスターでありバリスタである士郎の天分。喫茶『合縁奇縁』は、士郎が淹れる珈琲と彼の能力で満ち満ちており、客はそれを享受した。
元同僚の拓海の言葉を借りるなら、
「至福のひとときが味わえる喫茶店」
喫茶・合縁奇縁は、珈琲と共に穏やかなひとときと空間を提供する店だった。
「おはよー、士郎さん」
毎日のように店にやってくる
「今日はやけに身軽だな」
「久々にお休みを頂きましたー」
カジュアルな私服を纏っている拓海がふにゃりと笑う。普段の仕事からでは考えられない気の緩みように士郎は小さく息を吐き、いつものように珈琲豆を挽き始めた。
「休みの日にわざわざ来るなんて、良いんだか悪いんだか」
話しながらネルドリッパー内の中挽きした豆を湯で蒸らす。辺りに看板メニューであるブレンドの豊かな香りが立ち上った。
「休みの日こそ、至福のひとときを味わいたいじゃない」
いつも通りの光景、いつも通りの香り。それだけで、拓海は多幸感を覚える。それは士郎も同じだ。士郎の喫茶店経営以外の仕事と、拓海の探偵事務所所員の仕事から見れば、珈琲をゆっくりと飲む行為は贅沢以外の何ものでもない。
「祐弥は?」
拓海はあたりを見回して尋ねた。甥の祐弥は、よく店の手伝いでウエイターを務める。士郎は湯をトーッと太く注ぎながら、
「大学に行ったよ。慌ただしくな」と答えた。サーバーにはポタリポタリと雫が落ちる。
「そっか。いつも通りだね。うん、いつも通り」
拓海は口元を緩めて「良いことじゃない」と笑った。とても静かで、優雅なひととき。ゆったりとした時の流れに合わせて、拓海はゆっくりと珈琲を啜った。
ひっそりと囁かれている都市伝説。本当に困った時、どうしていいのか分からない時、決断に迷う時。そんな時にしか気付かない噂話。
「叶わなかった夢を見させてくれる人がいる。店がある」
その名は、喫茶『合縁奇縁』――。
“カララン”とドアベルの音に、「いらっしゃいませ」とテノールの声が覆いかぶさる。入り口のドアを引き開けたのは見慣れない女性。表情が硬かった。
「お好きな席にどうぞ」
女性は一瞬ビクッと体を震わせ、カウンターに視線を投げた。縋るような瞳が印象的で思わず動作が止まる。その様子に気が付いた拓海はゆっくりと振り返った。しかし、女性は既にこちらに背を向けてテーブル席に腰を下ろしていた。拓海の目がスッと細まる。探偵ならではの鋭い瞳だった。
「士郎さん」
「ああ」
士郎は、注文伝票片手にカウンターを後にした。
午前中は基本的に常連客ばかりになる。それはひとえに士郎の人柄に――珈琲を飲みながらカウンター越しのマスターと話をしたいが為だった。柔らかな物腰と聞き惚れるテノールの優しい声、そして穏やかな口調。常連客は、一様に言う。
「マスターと話していると、悩みも怒りも馬鹿らしいモノのように思えてくるよ。ここのブレンドとマスターは安定剤だね。心が和む」
側にいる者全てを和ませる。士郎はそういった能力の持ち主だった。
「ご注文はお決まりですか?」
笑みをたたえて女性の隣に立つ。顔を上げた女性の瞳は不安定に揺れていた。ああ、やはり、と思う。士郎は眼鏡の奥の瞳を少し伏せて、ゆっくりと話しかけた。
「お決まりでないのなら、ブレンドは如何ですか?一応、うちの一押しですので」
女性は何と言っていいのか惑っていた。話していいものか、止めておくべきか。逡巡しているようにさえ見える。士郎は重ねて言った。
「まだ何も口にしていないのであれば、おめざにガトーショコラもどうですか?」
「おめ、ざ……?」
「甘いものは心を和らげてくれますよ」
女性は泣き出しそうな表情を浮かべたが、「じゃあ、ブレンドとガトーショコラを……」と消え入るような声で呟いた。士郎は柔和にほほ笑んだ。
「かしこまりました、少々お待ち下さい」
カウンターに戻ると、遠くから様子を眺めていた拓海が、
「祐弥の出番そう?」と、ヒソヒソと聞いてきた。
「どうかな」
士郎は肩を竦めると、少しだけ気持ちを解放しながら珈琲を淹れた。珈琲の香りと陽だまりのような温かさがふわりふわりと揺れて漂う。
「いいの?」
「乞われれば手を差し伸べる。そうでなければ何もしない」
心配そうな拓海に対して、士郎の態度は一見冷たく思えるが、本心は違う。いつだって士郎は思うのだ。酸いも甘いも、何人たりとも犯すことのできない領域。他人がとやかく言うことも、土足で上がり込んで良いものでもない。だからこそ、こちらからは踏み込めない。でも、と思う。自分一人ではどうにもならないほど辛いのなら、助けを求めているのなら、勇気を出して掴んで欲しい。自分や祐弥は、そういった役割を担うために存在しているのだから。珈琲とは別に、背中を押すことが出来るのだから。
女性は、最初の注文以降、何も言わなかった。ただ黙ってガトーショコラを口に運び、時々嗚咽を漏らしては何かを流し込むようにブレンドを飲み続けた。結局、席を立ちあがる最後の時まで、沈黙を貫いた。
だが、それも限界だったのだろう。会計の時、堪えられなかった涙のようにポツリと言葉を零した。
「苦くて……」
一瞬手を止めて女性を見つめる。女性は俯いたまま続けた。
「甘いのに、甘いはずなのに、ほろ苦いんです……」
士郎はお釣りを用意しながら、
「皆さん、同じことを仰いますよ。ブレンドとガトーショコラに限らず」と穏やかに告げた。女性がハッとした表情をして顔を上げる。士郎はお釣りを手渡しながら、ほほ笑んだ。
「大丈夫ですよ。貴女はきっと、乗り越えていけます」
それだけで十分だった。
女性は手の平の小銭を眺め、その手をキュッと握りしめた。
「ご馳走様でした。また来てもいいですか?」
顔を上げた女性の瞳には力が戻っていた。
「ええ、勿論。いつでもお待ちしております」
ニコリと笑うと、女性は来た時は反対に、軽い足取りで店を出て行った。ドアベルの軽やかな音だけが店内に残る。
「あらら。仕事逃しちゃったね」
珈琲に口をつけながら拓海がゆるゆると笑った。士郎は朗らかな顔で、閉まったドアを見つめた。
「自分で解決して乗り越えていけるのなら、それに越したことはない。良いんだよ。どちらにしても、最後の答えは自分で見つけ出すしかないのだから」
「それもそうか」
ささやかな日常、平々凡々な毎日。
人は、当たり前が当たり前である時、それがどれだけ幸せなことなのか分かっていない。当たり前、と言えなくなった時、人は初めて気が付く。自分が今までいかに幸せで、どれだけ恵まれていたのか。
当たり前の日常、平凡な毎日。
そこには、刺激や興奮するようなものは少ないだろう。そして、そんな毎日を「つまらない」という人もいるだろう。でも、本当は素晴らしいことなのだ。最高の日々なのだ。
しかし、時には不幸にも、複雑な状況に陥ってしまうこともある。私は、そんな人達に一時の安らぎと共に一杯の珈琲を提供し続ける。たとえ売り上げに繋がらなくても良い。彼らが女性のように笑顔を浮かべてくれるのなら、それ以上は望まない。そう考えてしまう私は、敏腕飲食店経営者とは決して言えないだろう。けれども、人としては少しだけ自信が持てる。
温かな触れ合いを頂く。それは、私にとってもまた至福のひとときであり、喜びなのだから。
美味しい珈琲、美味しいスイーツ。
そして、小さな夢は如何ですか?
あなたのお越しをお待ちしております。
喫茶『合縁奇縁』店主並びスタッフ一同
サークル名:シュガーリィ珈琲(URL)
執筆者名:ヒビキケイ一言アピール
ちょっぴり不思議な現代物メインのサークル。テキレボ4では既刊の恋愛物2作、新作は戯曲と現代ファンタジー(連作短編集)を発行予定。寄稿文は現代ファンタジーのアフターストーリーです。作風と世界観がお気に召しましたら、是非お立ち寄り下さい。お待ちしております。
なんかこう、スゴい穏やかな気持ちになれました!
ありがとうございます。
「和やか」をモチーフに、「幸せ」をお届けするお話だったので、本当に嬉しいです。