アルカイックフロンティア

 没落貴族がたしなむ紅茶は、ほとんど香りがしない。
 質の悪いものをまとめ買いしたせいか、紅茶という定義のぎりぎりにかろうじて引っ掛かっている。
 花があしらわれたカップに唇を寄せ、私は様々な思いを飲み込んだ。ミルクの味が一気に口内に広がる。これはもう紅茶というよりもミルクに近い。
 昔面倒を見ていた使用人が今も律儀に届けてくれなければ、このミルクだって手に入らないだろう。父は「由緒正しき」が口癖だけど、私たちがこの地区から追い出されるのは時間の問題だ。
 堪えたはずのため息がこぼれた。テーブルクロスに食器、花瓶。視線を上げても見慣れたものしか目に入らない。伝統があると言えば聞こえはよいが、買い換えるだけの余裕がないだけだ。
「シマニさま」
 ふいと、右手の扉が開いた。穏やかな声が静かな空気を揺らす。私は視線だけを向けた。
 一礼して入ってきたのは、数ヶ月前にこの屋敷の使用人となったハウトルだ。γ3地区から晴れてこのα5地区へと昇格したばかりの青年。最高の幸運を手にしたにも関わらずその後職に恵まれなかった彼を、父は哀れんで拾った。――これだから我が家の財政は傾く一方なのだ。
「食事はおすみですか? 先日話していたイルの花が咲きました。見に行きませんか?」
 金の髪に青い瞳、優雅な立ち振る舞い。外見だけであれば彼の方が『貴族』らしい。彼が今まで農業主体のγ3地区にいたと聞いたら、誰もが驚く。そして口を揃えて「さぞ勤勉に働かれたのでしょうね」と微笑む。
「そうね」 
 私は紅茶らしきものを一気に飲み干した。父がいればはしたないと言われる行為。でも彼は何も言わない。貴族の地などと呼ばれるここの常識を、まだよく知らないせいだろう。
 カップを置いて立ち上がると、深緑の長いスカートが揺れる。母から譲り受けたこの一着には、有名店の紋章が縫い込まれている。もし別の地区に飛ばされたら、これも身につけることはかなわなくなるだろうか。
 この巨大なコロニーでの生活を保つためには、各地区の人口のバランスを維持しなければならない。そういった理由で、地区間の移住には制限がかけられている。とはいえ、狭い地域での交わりが続くのも健全とは言いがたい。そのため一定の年月が経過する度に、AIによる移住判定が行われるようになった。
 それが成功しているのは、コロニーで長年問題が生じていないことが証明している。何故だか人口が増えすぎることもない。母なる星を破壊する原因となったという食糧問題も、今のところ深刻なものはない。
 そのかわり、誰しもAIの判定を拒否することはできない。
 没落の一途を辿るこの家に、移住命令が突きつけられる日はそう遠くないだろう。一体どこの地区になるのかと、考えるだけで心が冷える。私が知っているのはここの生活だけ。様々な地区の特徴をいくら学んでも、それをありありと思い描くことなどできなかった。
「α5のイルはとても大きな花をつけるんですね。驚きました」
 私を待って歩き出したハウトルは微笑みながらそう言う。彼の話を聞く度に、心の奥が揺さぶられた。上ってきた彼と落ちていく私たち。どこで明暗は分かれているのだろう。AIの判定基準は明らかとはされていない。
「シマニさま、なんだか元気ないですね。あ、もしかして今日の紅茶失敗しました? またミルク入れすぎましたか?」
 振り返ったハウトルは顔を曇らせた。私は慌てて首を横に振る。彼がどれだけ工夫して淹れたとしても、安物は安物だ。幼い頃飲んだあの味には敵わない。でもそれは彼のせいではない。
「いいえ、違うの。紅茶は美味しかったわ」
 私はいつも通りに嘘を吐く。この地区に相応しい人間として振る舞うために、誇りを守るために。
 それでも彼は眉はひそめたままだった。
「正直に仰ってくださいね。ミルクを入れすぎてしまうのが癖なんです」
 扉に手を掛けた彼はさらに眉尻を下げた。私は目を丸くする。彼に紅茶を飲む習慣があるというのは初耳だった。
「ハウトルは紅茶が好きなの?」
 γ3でも紅茶をたしなむのねだなんて言ったら、さすがに失礼だろう。それでも疑問をしまっておくことはできず、私は別の聞き方をした。彼は嬉しそうに頷く。
「ミンドリンという、ちょっと変わった茶葉がよくとれて、それを飲んでいました。少し癖があるんですが、たっぷりミルクを注ぐとまろやかな味わいになるんです。絞りたてのミルクを使うと、さらに美味しくなるんです」
 彼は何かを思い出すように天井を見上げた。彼の家は元々酪農を営んでいたと聞く。両親が病気になってからは、近くの農家を転々として手伝っていたという。
「そうなの」
 彼の過去に触れてよいものなのか、まだ人生経験の乏しい私には判断がつかなかった。とはいっても、彼だってまだ二十歳だ。つくづく、父はよく彼を使用人にしたと思う。そこが周りからあれこれ言われてしまう原因でもあるんだろう。年頃の娘がいるのに何を考えているのかと、噂されているのは何度も耳にした。それでも父は周囲の評価など気にしない。父の貴族概念は少し変わっている。
「絞りたては何か違うの?」
「全然違うんですよ!」
 こちらを振り返った彼は、力強くそう言った。それからばつが悪そうに視線を逸らしつつ、軽く咳払いをする。
「すみません」
「いいのよ」
 そう続けても、庭へと出るまでの間、彼はしばらく何か言いづらそうに口ごもっていた。彼が話に飢えていることは、私も何となく気づいている。けれども使用人という立場が気になっているのか、いつもどこか遠慮していた。
 それでもイルの花を見ると、彼の横顔はぱっと華やいだ。わかりやすい。やっぱり彼は自然と接しているのが好きなようだ。庭の手入れが一番向いていると言っていたのも納得だ。
「綺麗に咲いたわね」
 α5地区の象徴花となっているイルの木は、この時期になると紫の花をつける。品種改良の結果なのか環境のせいなのか、紫の花が咲くのはこの地区のみらしい。実際、彼も紫のものは見たことがないという。
 最近、イルのことを考えると、私は複雑な気持ちになる。
「本当に綺麗です。それに立派な木ですね。愛されてきたのがわかります」
 イルの木を見上げる彼の様子は穏やかだ。ここに連れられてきた時はやつれていたのに、今はその面影もない。使用人にも、父は十二分に食べさせる。母が嘆くのもわかる。
「先祖代々守ってきたうちのイルの木だもの」
 近々手放すことになるだろうけれども。その言葉を私はぐっと飲み込んだ。
 移住の噂に上った家は、次の判定でAIから宣告されるのが常だ。だから次か、その次には、きっと私たちが対象になる。
 この立派な屋敷のことなら心配ない。譲り受けた誰かが守ってくれるだろう。イルの木を無下にするような人間もいない。だから花は来年も咲く。でもここを離れたら、私たちはどうなるのか。
「そういえば私、子どもの頃、イルの木にも紅茶を飲ませようと振りかけて、怒られたわ」
 そこでふと昔のことを思い出した。その年、きちんと紫の花が咲くまで、私はびくびくしていた。それだけ怒られたのだ。
 あの時の使用人たちの慌てぶりはなかなかのものだった。私はただ、初めて飲んだ美味しい紅茶を、イルの木にも味わって欲しかっただけなのに。
「それは、さぞびっくりしたでしょうね。でも気持ちはわかります」
 驚いたように振り返った彼は、ふっと笑い声を漏らした。
「初めて絞りたてのミルクを飲ませてもらった時、感動して、飼ってた犬やまだ乳飲み子だった弟にも飲ませようとしましたから」
 語りながら彼は瞳を細めた。きっと故郷を思い出しているのだろう。どんな場所でも、生まれ育ったところは懐かしいものなんだろうか。私にとっての豊かな香りの紅茶が、彼にとってはそのミルクなのか。
「そんなに美味しいの?」
「甘みが違うんです。もっと濃厚で。ただ、遠方にそのまま届けることはできません。だからあの味を知ることができるのは、γ3地区の人間だけなんです」
 そう告げられて私は息を呑んだ。ここは最高の暮らしができる。それが皆の合言葉だ。もちろん食事もそうだ。だからそれに相応しい言動を身につけるべきであり、役割を果たすべきだと言い含められた。
 でも本当は、このコロニーには、もっと美味しいものが溢れている? ここで味わえないものがある?
「とれたての野菜も、味が違うらしいんですよ。僕が実際に口にできたのは一部の野菜だけでしたが。あれを、シマニさまたちにも食べて欲しいですね」
 彼の言葉には実感がこもっていた。彼はこの地区に来て得るものばかりだと思い込んでいたけれど、失ったものもあったのか。
「紅茶」
「……え?」
「本当は、美味しくなかったのでしょう?」
 彼は唐突に話題を変えた。いや、実はずっと切り出したかったのかもしれない。私は思わず口ごもる。咄嗟のことで、すぐには繕えなかった。
「買い置きしてある茶葉、古いものですよね? でも大丈夫です、工夫の余地はあります。今度少し試してみたいことがあるんですが、いいですか? 煮出してみようと思って」
 少し悪戯っぽく笑った彼に、私もつられて頬を緩めた。それはγ3地区の飲み方だろうか? 聞いたことがない。
「じゃあお願いするわ」
 私は素直に頷いた。彼がAIに選ばれた理由が、なんとなくわかるような気がする。
 ここの生活は恵まれているけれども、全てが最高とは限らない。そう考えれば今までよりは気持ちが慰められるようだ。少なくとも、自分にそう言い聞かせられるだけの材料は得た。これなら周囲に哀れまれてもきっと平気だ。
 そよ風に揺れるイルの花を、私はやおら見上げる。この甘い香りは心が安らぐ。紅茶とは別の、思い出の香りだ。
 紫ではないイルの花は、一体どのようなものなのか。まだ見ぬ花の色を想像すると、少しだけ心が弾むようだった。


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サークル名:藍色のモノローグ(URL
執筆者名:藍間真珠
一言アピール
主に理屈系ファンタジー、ふんわりSF等を書いているサークルです。異能力アクション、滅び、駆け引きを愛し、じれじれや両片思い、複雑な関係の話を書き続けています。今回は、ゆるいSF世界を舞台に生きる若者の、「当たり前」を巡る日常の一幕を描いてみました。楽しんでいただけると嬉しいです。

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