雨雲の下に涙は落ちない

 今宵の空は分厚い雲に覆われて、しとしとと静かに雨が降っている。そのため、この落涙対策基地全体にもゆっくりとした時間が流れていた。ちらほらと食堂にも待機中の隊員の姿があり、皆思い思いに過ごしている。
「静かね……」
 その片隅で私は勉強の手を止め、ホットミルクで両手を温めながら小さく呟く。静かすぎると逆に集中できなくて、さっきから魔導書の文字が一文字も頭に入ってこない。
いつもこの時間は戦場にいるのに。今日はまるで違う世界にいるよう。一晩降り続ける雨なんていつぶりだろう。雨の夜はあったけれど、どこかの時点でいつも雲は途切れてしまって警報が鳴る。だからひと時も気を抜けないけど、今日は大丈夫。この分なら明日の昼までふりそうだ。
「いつも雨ならいいのにね」
 けど、いつも雨ならここは存在意義も失われるのだ。そうなったら私はどうするんだろう。私よりもむしろ、あの人は。どこへ行くのだろう。私と一緒にいてくれるだろうか?
「――癒姫いやしひめ
 意味のない妄想を膨らませていると、背後から声をかけられた。見ると最近着任したばかりの年若い事務官が困惑した顔で立っている。手には、手紙の束。
 私宛の物はないことは聞くまでもなかった。私に手紙を送る人は基地の外にいない。
戦姫いくさひめを見かけませんでしたでしょうか。どこを探してもいらっしゃらなくて、呼び出しにも応えなくて」
 一瞬、彼女の事を考えていたことが顔に出ていたのかと焦ったけど、そんなわけない。大丈夫。たぶん。
「今日はまだ見てないわ」
 軽く周囲を見回したがその姿はない。今夜は開店休業みたいなものだけど、もちろんお休みじゃない。待機命令が出ているだけなので決められた範囲にいなくてはならない。
それが破られたとなれば処罰もありえるだろうけれど、あの人はそんなこと気にしないだろうから。
「検閲が終わったので手紙を渡したいのですが……」
 まだ型破りな彼女に慣れていない事務官は、他にも仕事があるのにと小さくぼやいてため息をつく。
「じゃあ、私が代わりに渡してきましょうか? 心当たりならあるし」
 私は手元の魔導書を閉じる。
「それ、癒姫せんだいからでしょ」
――きっと、首を長くして待っている。

 雨はまだ降り続けている。たったそれだけで、どれだけの人を安堵させるのだろう。けど残念なことに、雨はいつかやんでしまう。
「風邪ひくよ、サリア」
 傘をさして基地の屋上に上がると、手すりの上に立つ彼女がいた。なんたってそんなところにいるんだろう。彼女はすぐ高いところに、それも一番危ない場所に上がりたがる。
「癒姫」
 彼女は私を見ると、険しい顔を緩めてニヤリと笑う。
戦姫、それは生まれつき壊すことに特化したサリアにいつしかついた通り名だ。私はそれを何においても治す、その為についた名が癒姫。こちらは先代から引き継いだもので、もともとは私のものではないのだけれど。
「何してるの?」
「雨がやまないかと念じてた」
 サリアは夜空を覆い隠す分厚い雲を睨みつけた。
 そうだろうな、とは思った。
「今夜中は無理じゃないかなー」
 そもそも睨んで念じたからって止むものでもない。
――その視線の向こう、晴れていれば見える夜空には、星空のドレスを纏った一人の巨大な乙女がこの大地を見下ろして、多分今日も泣きじゃくっている。
 その涙はこの大地に降り注ぎ、魔を産み厄災となる。
 私たちはそれを打ち落とし、殺す。ここはその為の基地だ。
 ただそれは、晴れていれば、だ。
 どういうわけか、乙女の涙は雨の日には落ちてこない。乙女の姿そのものが見えていなければ平和そのものだ。
「お前こそどうした?」
「マルカさんから手紙が届いたよ」
 私は結局事務官から半ば取り上げるように手に入れたサリアへの手紙を自分の顔の高さまで持ち上げる。検閲の為に封はすでに切られているが、私はもちろん中身を見ていない。
「読みましょうか?」
 尋ねると、すとんとサリアは手すりからこちらに向かって飛び降りた。水しぶきが飛ぶ。用意しておいたタオルを頭にかけてやった。
「いやいい。最近姉貴の字もだいぶ読みやすくなったし。でも読めない字があったら聞くからここにいてくれ」
「はいはい了解です」
 彼女の視線が手元の手紙に落ちたのをいいことに、私はニコニコと返事をする。頼られると顔がほころんでしまう。
「さて甥御の夜泣きは収まったかな、と」
 言いながら、サリアは私にも見えるように手紙を広げた。私は傘を差し向けて彼女のそばに身を寄せる。土のにおいがした。
 マルカ、私の先代の癒姫、私の師匠、サリアのお姉さん。
癒姫、の通り名に相応しい人だった。
 彼女は利き手を失って戦線を離れ、遠く離れた王都に住んでいる。
 手紙は、いつものサリアと私の体調を気遣う挨拶から始まり、彼女とその家族、王都の近況を伝える。
 サリアの言う通り、利き手ではない手で書かれた文字は初めのころは読み取るのにも難儀したが、今はもうかつてのそれと遜色がない。
 それでも、数年前にやっと字が読めるようになったサリアは文字を指でなぞり、時折小さく声に出しもしつつ、ゆっくりと読み進めていく。
「……ん」
 サリアが眉根を寄せた。
 王都の外れに落涙があった、という文を読んだのだろう。私たちには伝えられていない情報だ。
 幸い、人的被害はほとんどなかったようではある。無論先代もその家族も無事だ。
「ここで打ち漏らしはなかったよな」
 私は頷いた。
 乙女の涙を魔導砲で打ち落とす基地は、ここを含めて国内に三つある。どこかが仕損じれば当然被害が危険地域外にも及ぶ。
「どこだよクソが」
 わかりやすい悪態をついて、無意識にだろう、手紙を握りつぶした。慌てて皺を伸ばす。
『心配なら、傍にいてあげればいいのに』
 私は一瞬浮かび上がりそうになった言葉を飲み込む。

――もうやめて。もうやめよう。
 癒姫と呼ばれるに値する優しく慈しみ深い声は、あの時、毒そのものだった。
 あれは、夜どころか昼すら一滴の雨も降らない一月だった。毎晩休みなく降り注ぐ乙女の涙にみんな疲弊し、摩耗していた。
 ただ一人、戦姫を除いて。
「これ以上あなたがボロボロになるのを見たくない」
「あたしなら大丈夫だよ。姉貴がぜーんぶ治してくれるし」
 サリアの言葉は虚勢ではなく、荒んでいく基地全体の空気と反比例して彼女だけは日に日に生き生きとしていた。だって彼女は壊すために生まれたから。戦うために生きているから。腕がもげても腹に穴が開いても、立ち上れる限り戦えるから。
「私が大丈夫じゃない」
「なんで?」
「なんでって……あなたこそどうして分かってくれないの?」
「でも、だって、あたしにはこれしか」
 毎日繰り返される問答に、毒は確実に姉妹を蝕んで、
「私はもう治したくない。もう見たくない。私の力があなたを戦わせてしまうのならこんな力――いっそ」
――壊して。
 そうして、失望した戦姫は癒姫の悲痛な願いを叶えた。
「……一緒にいてくれるだけで、よかったのに」
 誰よりも大切だった癒姫の、大切な右腕を切り落としてしまった。

 雨足はわずかにだが強まりつつあった。あの時、少しでも雨が降っていたら、今私は彼女の隣に居れただろうか。
 癒姫でなくなったマルカは、二代目が現れることを想像すらしていなかったようだけれど。
「癒姫?」
 癒姫を引き継いでから、すっかり名前を呼んでくれなくなったサリアが私を見下ろす。私がどれだけ全力で今の地位にしがみついてるか、彼女は気が付きもしない。私が先代と同じように力尽きたとき、こちらを見てもくれなくなるはずだ。
 彼女に必要なのは『癒姫』であって、私じゃないんだと思う。
「雨、早くやんで欲しいね」
 飲み込んだ言葉の代わりに、心にもないことを言った。
 雨の世界を夢想はするけれど、日々の戦いから解放されたいと思ったことは、まだない。目を逸らし、遠くで心配だけするくらいなら、私は彼女の傷を治し続ける。私が不要になるその日まで。
「いや……今夜くらい、やまなくてもいいだろ」
 先ほどとは真逆なことを言ってサリアは先代からの手紙に視線を落とす。嘘でもそう思えるならば、それは多分いいことだ。
 晴れの夜はいつも怯えながら過ごす王国民も、この雨であればゆっくり眠れているだろう。
 きっとあの人も、今夜だけは妹の身を案じなくていいはずだ。

サークル情報

サークル名:押入れの住人たち
執筆者名:なんしい
URL(Twitter):@animato171

一言アピール
普段はローファンタジーで高校生と魔女、あるいは妖怪、あるいは魔法少女を書いております。でもお姫様も好きです。
新刊(概念)の「夜空の乙女は泣き明かす」より主人公二人のお話をお送りしました。
スペースファンタジーに百合を添えて、になる予定です。なるといいな!

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