BAR NAGOMI -青月-

『我が家にも新しい家族が誕生し、にぎやかなお正月を迎えています!』
『子どももついに四月から小学校に入学します☆』
『我が子は最近スイミングを頑張っていて、親は送り迎えの日々で大変です(汗)』

 今年もまた同級生から届いた数枚の年賀状を、暖房の効いたワンルームで一人眺める。大学時代の友人がほとんどで、男友達は少なく、同性からの年賀状ばかりだ。卒業から十年以上経った今でも、こうして繋がりがあることを彼女は嬉しく思う。皆いつの間にかお母さんになっていて、直接会うことはほぼなくなったが、毎年子どもたちが大きくなっている写真を見て思わず笑みがこぼれる。
 こんなにも嬉しいのに、涙が出るのはどうしてだろうか。悲しいときにしか涙を流したことがない彼女にとって、初めてのことだった。

 大阪市中央区北浜。大阪証券取引所がシンボルの、大阪を代表するビジネス街の一つ。バーテンダー、山川和水ヤマカワナゴミの店はこの街にある。グルメサイトにも載っておらず、ビルとビルの間の奥まったところにあるため、常連からは【隠れ家】なんて愛称で呼ばれている。マイナーなオーセンティックバーだが、店が存続するということは、それだけ慕われているという証でもある。【ビジネス街の女神】と呼ばれる彼女の作る、一杯のカクテルを求めに、今日も客がバーの重厚なドアを開く。その重々しい扉を開けた先に、隠れ家が露わになる。
 わずか七のカウンター席。小さい数台のダウンライトでしか明かりをとっていない、薄暗い空間。カウンター越しにある背の高い棚には、磨かれたボトルの数々がぎっしりと並べられている。それらは暖色の光に反射して、暗闇の中でも神々しい程に輝きを放っている。その中で、女神は背筋を真っ直ぐにし、柔和な笑顔で迎える。
「いらっしゃいませ。月岡様」
「どうも、こんばんは~。あけましておめでとうございます!」
「あけましておめでとうございます。今年も【BAR NAGOMI】をよろしくお願いしますね。どうぞお掛けください」
 山川和水は三十代半ばで、背は女性としては高め。艶のある黒髪は後ろで一本に纏められている。服装は清潔感ある白の襟付きシャツに黒のベスト。首元には蝶結びの黒いリボン。化粧はビジネスウーマンのようにフォーマルで清らかな印象。
 月岡真宏ツキオカマヒロは二十代半ばで、常連の中では最年少だ。住宅業界の会社で、労働基準法など無視された激務に耐える若きサラリーマン。本人曰くネガティブ思考で、毎日会社を辞めることばかりを考えていて、こっそり転職活動中なのだとか。
「今日からお仕事ですか?」
「いや、一昨日からなんっすよー」
「え、一昨日って一月二日じゃないですか」
「実は年末からモンスタークレーマーを引きずってまして。年末年始くらい休ませろって話ですよ。あー、会社辞めたい」
「あまり無理なさらないでくださいね。お体が一番の資本ですから」
「ま、今年こそ今よりマシな会社と御縁があることを願うばかりですよ」
 和水からおしぼりを受け取ろうとしたとき、真宏は一瞬違和感を覚える。
 バーテンダーはオーセンティックバーなら尚更、接客のプロだ。和水は彼のわずかな表情の変化に気づく。おしぼりを手から手へ渡すという、ほんの数秒の間に、和水は笑顔を崩さないまま自身を振り返る。失礼な発言をしなかったか。癇に障る発言はなかったか。お客様をもてなすのに相応しい笑顔をしていたか。自分の身だしなみに問題はないか。
 真宏は和水から温かいおしぼりを受け取ると、少しだけ目を逸らし、口元が動くが言葉は発さない。
 おしぼりを渡しても彼が覚えている違和感はなくなっていない。いや、それを伝えたいと思っているけれど、伝えられないのだろうと和水は察する。だが、見当がつかない。清掃で抜けているところもなく、カウンター下の鏡で己を一瞥しても服装に乱れはない。時と場合によるが、分からないことは放置したくない。和水は正面を向きながら、彼の目線よりやや下にピントを合わせて尋ねる。
「すいません、月岡様。わたし、何かご無礼を申し上げてしまったでしょうか」
 申し訳なさそうに山川がそう言うと、月岡は慌てて手を横に振る。
「いえいえいえいえ、そんなことは何も! ただ……、客のくせにお節介だとはわかっているんですが……」
「何でも仰ってください」
 この店の従業員は、和水ただ一人。叱ってくれる先輩も、手間のかかる後輩もいない。己の身は己で磨き、お客様に鍛錬してもらう他ないというのが、彼女の信念だ。
「泣いて……いらしたんですか?」
「え」
「ほら、目元がすごい赤くなっているので」
 和水は予想もしなかった彼の言葉に、思わず呆けた声を洩らす。ハンドミラーで自分の顔を映すと、思っていた以上に酷い顔をしていた。彼の言う通り、目元はこの薄暗い空間でも分かるくらい赤く広がっていて、瞳は潤んでいる。
「大変申し訳ございません」
 和水は睫毛に付いた雫を手早くハンカチで拭き取る。心臓の鼓動が早くなる。普段より冷静さが欠けていると感じる。身だしなみでお客様からの指摘を受けたのなら、せめてカクテルは最高のものを提供したい。
「いやー、頭を下げるのは僕の方ですよ。女性に向かって泣いてるんですかなんて訊く男、最低でしょ」
「それは事実ですので。すいません、頭を切り替えます。本日は何になさいますか?」
「今日は和水さんのお任せでお願いします」
 悩んだ様子もない彼からのオーダーに、和水は内心一驚してから応える。
「かしこまりました」
 彼女は自身でも驚くほど悩まずに、ジンのボトルを手に取る。
「和水さん」
「はい」
「客とバーテンダーの距離って、手を伸ばせば届くほど近いのに、何となく遠い感じがするしそれが自然だと思うんですよね。僕はいつも和水さんに話を聞いてもらえるだけで幸せです。だから、和水さんも悩みがあったら遠慮なく言ってくださいね」
 和水は動作を緩めずに、クレームドバイオレットとレモンジュースのボトルを用意する。
「とは、あえて言いません。和水さんはプロのバーテンダーですから。僕にできるのはこうしてカウンターで、あなたの作る最高の一杯をいただくことだけです」
 ドライジン30ml、クレームドバイオレット15ml、レモンジュース15ml。これらをメジャーカップから氷の入ったシェーカーに移し、上下にシェイクする。液体固体気体空気。バーテンダーの技によって、性質の違う三要素が融合し、一杯のカクテルが生み出される。
 シェイクが終わると、蓋からカクテルグラスにアメジスト色の酒が注がれる。
「お気遣いありがとうございます。【ブルームーン】でございます」
「【ブルームーン】。【青い月】、ですか」
 真宏は初めて見聞きするカクテルをまじまじと見つめる。使用しているのは三つの材料だけなのに、どことなくミステリアスで複雑な色合いをしている。彼はその謎に迫りたいと、そそくさとカクテルグラスを口につける。
 甘みと苦味。正反対の味覚が共存している。クレームドバイオレットがその根源なのだろうが、ドライジンによってその複雑な香りが広げられているような感覚。どうして彼女がこのカクテルを選んだのか。その謎を月岡は解明できない。いや、解かれないようにあえてこんなミステリアスなカクテルを選んだのではないかと考察する。
 まるでロダンの【考える人】のような思いつめた顔をする真宏を見て、和水は上品に手で口を抑えながらも笑いを洩らす。
「青い月。そんなものあるわけない。なんて、思ってしまいますよね。でも、実は一年にたった一度だけ、同じ月に二度満月が空に浮かぶことがあります。それをブルームーンと呼ぶそうです。それが転じて、滅多に起こらないこと、奇跡的なことなんていう意味があるそうです」
「なるほどー、奇跡ですか」
「ええ。自分のお店はこんなに小さいけれど、父が賄っていた頃も合わせれば、もう三十年以上も続いている。そんな奇跡が実現できているのは、お客様のおかげだと思うんです。なので、今日の一杯はわたしからの感謝の気持ちです」
「あっ、いや、そんな感謝だなんて……なんか照れますね。むしろ、僕の方こそいつ仕事の愚痴ばっかり聞いてもらって、本当すいません」
「謝ることなんてありませんよ。わたしの目指すバーテンダー像は、お客様に寄り添える存在になることですから。お話したいことがあれば、いつでも気軽にお越しください。改めて今年もよろしくお願いしますね」
「はい、こちらこそ!」
 真宏は今年初の女神の施しを受け、もう一杯別のカクテルを飲み干すと、真っ直ぐ帰路についた。

 月岡はあまり仕事ができるタイプではない。分からないことを分からないままにし、後で調べようと思っていたことはほぼ確実に忘れているからだ。和水から青い月に付けられた意味を教えられたとき、本当は疑問が残っていたのに、そんなことはもうとっくに忘れている。

 店を閉めた和水は、住まいである同じ雑居ビルの狭い一室で、珍しく自分のために一杯のカクテルを作っていた。
 一枚の年賀状を眺めながら、アメジストの輝きを放つその酒を啜る。

『もう一度考えてくれないだろうか。やっぱり僕には君が必要で、君と家庭を築きたいと思っている』

 【ブルームーン】は、正反対の二つの意味を持つカクテル。一つは、滅多に起こらないこと、奇跡的なことという意味。もう一つは、叶わぬ恋、無理な相談という意味。その昔、バーで女性が男性のプロポーズを断るのに選ぶカクテルと言われていたとか。

サークル情報

サークル名:教授会
執筆者名:紗那教授
URL(Twitter):@prof_shana_GG3S

一言アピール
創作文芸サークル「教授会」代表の紗那教授と申します。テキレボアンソロではすっかりお馴染みとなった『BAR NAGOMI』シリーズでの投稿となります。今回は、正反対の意味合いのカクテル言葉を持つ、ミステリアスなカクテルを選定してみました。ぜひ、物語と共にお召し上がりください。

かんたん感想ボタン

この作品の感想で一番多いのはしんみり…です!
この作品を読んでどう感じたか押してね♡ 「よいお手紙だった」と思ったら「受取完了!」でお願いします!
  • しんみり… 
  • 受取完了! 
  • そう来たか 
  • エモい~~ 
  • ロマンチック 
  • 胸熱! 
  • しみじみ 
  • 怖い… 
  • ゾクゾク 
  • この本が欲しい! 
  • 尊い… 
  • かわゆい! 
  • 切ない 
  • うきうき♡ 
  • ドキドキ 
  • ほのぼの 
  • 泣ける 
  • 感動! 
  • 楽しい☆ 
  • キュン♡ 
  • ほっこり 
  • 笑った 
  • ごちそうさまでした 

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください