江上に彼の人を憶う

 あの日から毎日、かんは舟を出している。
 江上に雪が舞う日も、雨が降る日も。
 もう、彼の人が浮かび上がってくることはない――そうわかっていても。

 命からがら乱を逃れて兄と祖父とともにこの地に辿り着いた環にとって、ここでの日々は常に「生きるため」の何かによって埋められていた。舟に人を乗せて江上を漕ぎ、渡し代の駄賃をもらって食いつなぐことが最優先の生活の中で、自然を愛でる余裕などない。兄をこの采石磯さいせききの急流で亡くしてからはなおさら、そんなものに浸る気などなくなった。自然は人の命を奪う恐ろしいものであるという思いが強くなったからだ。
 そんな、余裕なく単調な日々を送っていた環の前に現れたのが、あの詩人――李白だった。
 学のない環には客の話がわからないことも多く、漕ぐ時は大抵無口だ。それでも、初めて環の舟に乗った時のやりとりがいたく気に入ったらしい李白は、この渡し場にやってくるといつも環を漕ぎ手に指名した。
 かつての宮中のように自分の足を引っ張る讒言とは無縁だし、今の世を批判しても舟の上なら聞きつけて咎める官吏もいない。思うまま酒を飲み自然を楽しめるこの場所を――江上を、あの詩人は気に入っていたようだった。そこにいつも環を一緒にいさせてくれたということは、それだけ環が無知で無害だったということだろうが、己の死期を悟っている節もあったあの詩人にとって、環は晩年に得た小さな友人でもあったのかもしれない。

   *

 あの冬の雨上がりの日、夕暮れに酒壺を振りながら渡し場にやってきた李白は、いつものように環を漕ぎ手に指名して舟を江にうかべ、水面に映る月をすくい取ろうと身を乗り出してそのまま水中に没した。
 翌日に渡し場を訪ねてきた詩人の縁者――その人はこの辺りを治める県令で、李陽冰りようひょうと名乗った――と顔見知りになった環は、以来その人の邸に招かれるようになった。そして、今日も。
「久しぶりだね。舟は不自由ないかね」
 そう言ってこちらの暮らしを案じる姿は、あの詩人とどこか通じるものがある。こんな自分が付き合っていい身分の相手ではないと、初めの頃は環も遠慮があった。けれどある思いを打ち明けてからは、彼の邸を定期的に訪ねるようになった。
「さて、今日はどこからだったかな」
 そう言って李陽冰が棚から取ってきた書物には、達筆で『草堂集』と題が付されている。李白の詩文をまとめたものだ。臨終にあたり草稿万巻を託された、とは編者である李陽冰自身が序文に記している。
 環は、李陽冰から文字を教わるようになった。ほんの一年の間、舟の上でともに過ごしたあの偉大な詩人が遺した大量の作を、自分で読めるようになりたいと思ったのだ。
 県令の仕事で忙しいはずだし断られると覚悟していたのに、逆に快諾されて環のほうが驚いた。李陽冰は休暇をわざわざ環のために確保して、しかも「ただ四書五経を覚えるのでは苦痛だろう。せっかくだからこれをそのまま教本にしよう。あの人は故事を詩に取り込むのも上手かったから」と『草堂集』を使って教えてくれることになったのだ。

 その日教わったのは、李白が妻や友人に宛てて詠んだ詩だった。
「君が字の読み書きができるようになりたいと思ったのは、あの人の作品を読めるようになりたいだけでなく、あの人に言いたいことがあるからだと言っていたね」
 李陽冰はそう言うと、環の目の前に古紙と筆を置いた。
「書いてみるかい? 今、ここで。わからない言い回しがあれば教えよう。言いたいことはちゃんと言葉に残さないと、相手に伝わらないものだからね」
「李白さまのようにですか」
 違いない、と李陽冰は楽しそうに笑った。李白とほぼ同世代という彼は、あの詩人よりずっと品がよく人当たりのよさもあるが、その笑い方はどこか通じるものがあった。
「あの人はちょっと、言いすぎなところもあったけれどね」
 改めて筆と紙を勧められ、環はしばしそれらを凝視した。
 まだまだ文字はわからないものだらけで、あの偉大な詩人が記憶し綴ったもののほんの一握りにも満たない。それでも、今の自分が伝えたいことはあの最期の日からずっと、この胸の内で燻り続けている。
 ――ううん、あの日からじゃない。
 あの詩人の最期に立ち会ってしまうよりもさらに前。初めて出会った日からずっと。会うたびに言いたいことがたまっていったのだ。
「……県令さまみたいな立派な字は書けないから、何だか恥ずかしいですね」
「だったら書の師も追加で承ろうか」
 そう言って、環が辿々しく綴る文字を、にこにこしながら見守ってくれる。
「思いを言葉にして表すことができる――それだけで十分立派なことだよ。言葉や文字の巧拙を気にする必要はない」
 書き損じても、それは立派な思考の跡だと環を励ましてくれた。途中で筆が止まって相談すれば、綴りたい思いに合う言葉を一緒に考えてくれた。
「……できた」
 手で擦れた墨の跡や書き損じでだいぶ汚れてしまったが、初めてまともに思いを綴ったものとしては上々の出来だろう。李陽冰も手を叩いて喜んでくれる。
「県令さま、ありがとうございます」
「何の。……ところで、それはどうするんだい」
 環が手紙を丁寧に折り畳んで懐にしまうのを見て、李陽冰は不思議そうに首を傾げた。
「戻ったら舟を出します。舟の上からなら、きっと李白さまにも届くと思うから」
 それを、自分の中でのけじめにするつもりでいた。
 一人で舟を出すのは、今日が最後だと。
「あの人が旅立ってしまったのに、私が立ち止まっているわけにはいかない。私もあの人にちゃんとお礼を言って、また前を向いて歩いていかないと」
 以前のような、生きるために糧を求めるだけの単調な日々に戻るつもりはない。今までとは違う日々になると信じているし、そうしていかないといけない。そのためにも、この手紙を新たに動き出すきっかけにしたいのだ。
「県令さまも、お時間があったらまた渡し場に来てくださいね。舟の上であの人の思い出話ができたら楽しいかなと思って」
「ふむ、それはいいな。今度時間を作るとしよう」
 この日の李陽冰は、環が邸を出るまでずっと笑顔だった。

   *

 渡し場まで戻ってくると、環は舟の準備を始めた。懐には、県令邸で書いた手紙がそのまま入っている。
 あの日以来、客を乗せていなくても舟を出して李白の帰りを待ち続ける環のことを、祖父は見て見ぬ振りをしていた。今も、こちらの様子をぼんやりと詰め所から眺めるだけだ。
 何も言われないことに対して申し訳なく思っていた環は、次第に舟の手入れに時間をかけるようになった。自分の勝手で舟を使っているのだ、壊してしまっては余計に金がかかって暮らしに影響が出る。
 ――でも、そうやって勝手をさせてもらうのも今日までだ。
 環は、いつも以上に丁寧に準備をすると、夕暮れ、月が昇る頃に舟を出した。
 足元にはいつものように漁り火の用意をしてあったが、今日は不要のようだった。円い月が、一面に江上を照らしてくれている。
 まるで自分の決意の後押しをしてくれているようだと思い、それから環は我に返り苦笑した。自然に対してそんなふうに思えるようになったのは、紛れもなくあの詩人と出会った影響だろう。
 あの日、李白が身を投げた辺りまで舟を出すと、環は懐から折り畳んだ手紙を取り出して広げた。
 文字は少しずつ書けるようになってきたが、読むほうはまだ苦手でなかなか覚えきれない。何とか読める文字をかき集めてまとめた手紙は、文字も内容も拙いかもしれないが、それでもあの詩人に今伝えたい思いを込めたものには違いなかった。
「李白さま。今、どこにいますか」
 環はゆっくり、ゆっくりと、読み始めた。
「ここからは、李白さまの姿は見えませんが、きっと、李白さまからは私の姿が見えているのかな」
 ふっと手紙から顔を上げれば、あの日と同じ月がある。その明るい光は、環の手元を照らし続けている。
 前に教わった詩の中に、月を介して遠くにいる人を思うさまを詠ったものがあった。
「李白さまがいる場所にも、月は出ていますか。そこから見える月は、私が今見ている月と同じなんですよね?」
 月が好きなあの詩人のことだ、月のない場所を終の住処に選ぶことはあり得ないだろう。もしかしたら、いつか聞かせてくれた伝説のように、彼自身が月に上って仙人になった可能性だってある。
「世の人が何と言おうと、李白さまは李白さまだ」
 宮中での素行や逆賊になった経緯など、知りたいとも思わない。酒飲みのよく笑う爺さんで、自分よりずっと長く生きている先輩で、とてつもなく物知りの先生――それが、環がこの舟の上でともに過ごした大詩人の姿だった。それで十分だった。
「明日からは、もう舟は出さない。お客さんのためにある舟を、李白さまの思い出にすがるために使うのは間違ってるから」
 そんなことをしなくても彼を偲ぶことはできる。彼の詩が、そう教えてくれたのだ。
 もう一度、環は空を見上げた。
「李白さまのことを思い出したくなったら、李白さまと話がしたくなったら、私は月を見るようにします」
 同じ光はきっと、あの人のいる場所にも優しく降り注いでいることだろう。そう思えるようになってから、環は顔を上げる機会が増えた。自然を愛でる心を知った。
 あの詩人と出会っていなければ、この先もずっと、うつむいて余裕なく生きていたはずだ。
「ありがとう。……さようなら」
 両手に広げていた手紙を細かく破き、舟の上から江上にぱらぱらと落とす。
 月明かりの下、紙切れたちは少しずつ水底へ沈んでいった。
 あの日、環の手が届く前にあっという間に沈んでしまった詩人と違い、ゆっくり、ゆっくりと。

サークル情報

サークル名:水中月
執筆者名:長浜惟
URL(Twitter):@nagahama_yui

一言アピール
新刊は2015年発行の『世界史C』アンソロに寄稿した李白の捉月説話ネタのリライトです。伝説が元ネタなので、オリキャラの童子も出してとことんフィクションに振り切りました!アンソロでは新刊のその後の話を書きましたが、これ単体でも読めるようにしてあります。よろしくお願いします。

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