未来への遺書

「……はぁ? 遺書?」
 アメリカで暮らし始めて早十ヶ月近くが経とうとしている。研修用のビザを使ってこっちへやって来て以来、慌ただしくホテル従業員としての経験を研鑽しつつ、へとへとになって帰って来るだけの暮らしを続ける僕に、掛かってきた国際電話の主は母親だった。
「何それ、見間違いじゃないの。そんな物騒なもの書いた覚えないよ」
『そんなこと言ったって、モノはここにあるんだぞ。読み上げてやろうか』
 受話器を片耳に挟みながら、右手で淹れたコーヒーの豆が沸騰したお湯とフィルターの中で混ざり合って、ごぽりと音を立てる。元々慣れないことだらけの暮らしだろうと覚悟はしていたけど、その中でも一際僕の予想を飛び越えてしまったのが、このカリフォルニアで、何故かルームシェアをする同居人が出来てしまったことだ。日本からの交換留学生である彼女は、今のところ大学の宿題があるとかで、部屋に籠もっているみたいだが。
(ふぅん、自分はブラックが飲めないし苦手とか言いながら、なかなか香りのいい豆選んで来たじゃないか)
 今度買い物に行く時に安物でいいから買い足しておいて欲しい、と頼んだのだが、湯気とともにふわりと舞い上がった香りに図らずもほっと暖かな気持ちになった。慣れないながらに店の主人と英語でやり取りをしてこれを選んでくれたのだろうか、と思うと口元が綻んでしまう。
『おい、アイ、聞いてるのか? またぼーっとし過ぎて、飲み物片手に電話しながら零してるんじゃないだろうな』
「子供じゃあるまいし。野暮なこと言わないでよ、今ちょっといい気分で、友達がくれたものの匂いを堪能してたんだから」
『はぁ? どういう意味だ。また男だの女だの連れ込んでよろしくやってるわけじゃないだろうな。そんな事のために海外で遊び歩くつもりなら今すぐ戻って来い。そもそも私はまだお前のアメリカ行きを認めたわけじゃないぞ。勝手に家を飛び出したかと思ったら、相談もせずに勝手に就職して、そんなキツい上に不安定な業界に……」
 半目になりながら反論した僕に、わめき立てられるお門違いの文句を黙って聞き流す。もう既に美国アメリカに来てしまっているのに、認めないも何もあるものか。
「それで? 書類は送ってくれたんだろ。いつ届くって?」
『ああ。速達だから、まぁ二三日のうちだろう。勝手に家出した挙げ句親を小間使いにしてこき使うとは、この親不孝者の娘が』
 僕だって、高校卒業以来帰っていない実家に連絡なんて極力したくなかったけど、どうしても日本の本籍地で発行しないといけない書類が急遽必要になってしまったので頼んだ次第だ。
(まぁ、確かに本人代理で役所を往復させたのは悪かったけど、そこをねちねち言わなくてもさあ)
 口に出せばヒートアップするのが目に見えているので、僕は無言で口にチャックをしてから、その手でコーヒードリッパーをカップから取り除いた。我慢だ、我慢。どうせ一定時間言うだけ言ってしまえばこの人は大体忘れるし、僕が傷付く義理も必要もないのだから。――その為に、自分を捨てるつもりで実家を出たのだから。
「ところでさ、さっきの遺書がどうたらって何?」
 別に母親の示した話題に興味などなかったけれど、それでも僕の私人空間プライベートまで詮索する余計な心配をされるより遙かにマシだったので、先手を打って水を向けてみる。
『おお、そうだ。何か、消印付きの差出人がない封筒に入れてあった。お前宛だが、中身の封筒には間違いなく「遺書」って書いてあったぞ』
 がさごそと、何かを探るような音がする。遠慮無く秘密を暴くようなその雑音に、僕は気怠げに茶色いソファの上で足を組みながら、淹れたてのコーヒーを傾けた。
「そもそも、人の部屋というか机の中勝手に漁らないでよ。書類取って来るだけなら、机の中まで見る必要なかっただろ」
『ハンコがお前の机の中にあると思ったんだ。まったく、誰かが掃除してやらなきゃ足の踏み場もないし本だらけだったんだぞ』
「勝手に部屋に置いてある本捨ててないよね?」
『家も家族も捨てた身で今更指図するな。図々しい娘だな』
 否定しないということは、とりあえず置いてはあるんだろうと肩をすくめて、僕は母親の言葉の続きを待った。
『「遠い未来の僕へ 僕が死んだら どうか遺灰は海に撒いてください 遠く遠くの土地へ 魂だけでも流れて運んで行けるように」……なんだこれ』
(アイタタタタ)
 遠い遠い昔に書いた、中二病全開の痛々しさ満載の文章には覚えがある。覚えがあるが、母親には言いたくない。
「ただのクラスメイトのイタズラじゃない? 捨てていいよ」
『ふん? お前がそう言うなら、気持ち悪いし捨てておくか。家に置いてあるだけで運気が下がりそうだからな』
「じゃあ、もう切るよ。国際電話、長く続けると高いんだ」
 心に蓋をするみたいに通話を切る。インターネット通話を使えばもっと安く話せるのを教えないのも、過去の自分が記した自分への遺書だと告げないのも、自分を慮る善意が鎖の形をして自分を縛り付けてしまうのを防ぐためだ。たとえ薄情だと言われたとしても、家族にはうっすらと表の自分しか見せないのが最善の手だと思えたから。
 憂鬱を吹き飛ばすように、ベランダの戸を少しすかしてソファで煙草に火を点ける。久しぶりにライターではなくマッチを使ったそれからは、仄かに香ばしい煙が立ち上る。チャイナタウンで買ったもので、植物を燻したような独特の香りが気に入っていた。
「アイリスってば。ソファで吸うと家の中じゅう臭くなるじゃないの」
「別にいいだろ、たまには。今日はわざわざベランダに立つ気力ないんだ」
 学校の課題が終わったのか、年下の同居人――あやめが部屋から出て来て、リビングにいた僕にちょっとだけ非難めいた目を見せる。けれど、栗皮色をした柔らかで上品な長髪を揺らした彼女は、すぐに気遣うような心配そうな視線を向けてきた。僕の苦手な、偽善者の視線。
「誰かと、電話してた?」
「日本にいる母さんと。相変わらず過干渉で困るね」
「なんだか、疲れてるように見えるわ」
「あの母親と電話して疲れない方がどうかしてるよ」
 ぐうっと背筋を反らせて伸ばすと、突き上げた両腕が僕を覗き込んでいた緩いウェーブの髪に当たった。
「……何」
「あ、ううん……アイリスの家が過保護なの、意外だなぁって。ほら、アイリスって結構自由でしょ? だから、家風も自由なのかなって思ってたの」
 隣に座っていいかと視線で尋ねるあやめに手でソファを勧めながら、僕は二本目の煙草に火を点ける。ガラスの灰皿に置かれた一本目の先端から、赤く燃える灰が落ちた。
「そう思うくらい、僕が自由に見えるんだとしても、それは僕が自分で選び取ったことだからだよ。すべてを傷付けることを恐れて何も選べない、君と違ってね」
「……」
 どうして僕は、彼女の素直すぎる瞳に苛つく度に、いつも棘のある言葉を投げてしまうんだろう。こんなに、辛そうな顔や悲しそうな顔をさせたいわけじゃないのに。けれど、彼女は反論することもなくそれを飲み下してしまう。まるで、自分の苦手なコーヒーを飲むように。味が馴染まないと思いながらも、それは自分に必要なことだろうと、意に沿わないものを一生懸命飲み込もうとする。
 その姿勢が常に僕の心をざらつかせて、不愉快にさせるのだ。……けれど、最近は不愉快というよりは、何か触れるべきでない物に触れられているような、逃げ出したくなるような感情が増えた。まるでこれは――
(僕自身が、つけ込まれるのを怖いと思ってるのか)
 浮かんだ考えに、ふっ、と煙草を咥えたまま小さく笑い声を上げると、あやめは不思議そうに笑った。僕と同じ名前をした彼女。純真無垢で、過去の僕とよく似ていて、傷を受け入れることにさえ意味があると信じて疑わない彼女。
「ねえ、あやめはさ、中学とか高校の時に、未来の自分への手紙って書いたことある?」
「ああ、そういえば授業であったわね」
「僕のクラスもあったんだけど、なんかあの時、自分の未来に希望なんてものを見出してやるのがすごく嫌になって……気が付いたら、自分に向かって遺書を書いてた」
 あやめが、あからさまに目を丸くする。そんな僕の代わりに傷付くような表情をしなくていいのに。
「多感な時期って奴だったんだよ。僕の好きな歌手が、そのものずばり遺書って曲を書いてて。それが好きだったんだよね」
「どうして……? そんな、暗そうな曲なのに」
「どうしてだろ。陰気な学生だったからかな」
 痛そうな表情で膝を抱えるあやめにはぐらかしながら、僕は考えた。何故なんだろう、あの頃の死は酷く魅力的に思えた。本当に死にたいわけじゃなく、ただ世界から逃げ出したかった。僕には遺書を残したいほど愛しい相手も、遺す物もなかったけれど、望むとしたら、ただ自由になりたい。そう思っていた時期だった。
「……誰かに、執着して欲しかったからじゃないかしら」
「え?」
「あ、ううん……私が、そう思っただけなんだけど。遺書って、読んでくれる誰かに向けて残すものでしょう? だからアイリスは、その先にいる自分に、辛かった自分を救って欲しかったのかなって……。どう? 今のアイリスは、その自分を受け止め切れてあげてる?」
 思いもよらない解釈に、煙草から灰が落ちるのも忘れて彼女を見つめた。弱さを見つめるまっすぐな視線を持つ彼女だからこそ、思いつく考え方で。その優しさに触れて欲しくない、と思った僕は、反射的に伸ばされた柔らかい手を払い除けていた。
「アイリス?」
「っ、ごめん。これ、洗ってくる」
 空のカップを携え、平静を装いながら台所に向かう。あの温度に触れられると、調子が狂う。何も知らないくせに。たかが一時期住むだけの同居人のくせに。けれど、自分に無条件に向けられるその暖かさが、酷く心を掻き乱すことは否定しようがない。奇妙な苛立ちに包まれた震える手が、飲みかけになってしまったコーヒーをシンクに晒す。まるで心に広がる染みのように、茶色い波紋が広がっていた。

サークル情報

サークル名:マルメロとくるみの木
執筆者名:マルメロ
URL:https://www.pixiv.net/users/10215797

一言アピール
ルームシェアから始まる社会人百合やSF百合、音楽を介した名前のない関係性を目指して、本を書いてます。時に優しく暖かく、暗さや欺瞞を持つけど絶望には墜ちきれない、日々を生きていく子達の何てことはないヒューマンドラマが多めです。ぱっとはしないけれど、どこにも上手く属せない誰かの居場所になれたら幸いです。

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