一葉奇談

 京の名物といえば神社仏閣に舞妓はん、ついでに生八ツ橋、というのが外から見たもので、地元の人なら学生と言うかもしれない。私はそれに古書店も付け加えたい。一時、新刊書店を脅かしたブで始まるチェーン店ではない、個人経営の古色蒼然とした店だ。それが繁華街の中にも在り、住宅街のすぐそばにも棚を並べる。
 ある意味、学生とは肩を組み合う間柄で、卒業の時期になると、おそらくは教授の著書であろう教科書が学生から古書店に流れ、次の月には「何年の教科書があります」などという札と共に売りに出される。
 昨年度用済みの教科書が果たして、翌年度の学生に買われていくかどうかは定かではない。ただ、この種の店というのは私にとってはちょっとしたトラップで、店の前に出された特売棚のに、ふと呼ばれた気がして散財してしまう経験は一度や二度ではない。
「呼ぶ」本というのは、実際、手にして読んでみるとなかなか面白いもので、半ば呼ばれることを期待して、半ばは恐れつつ(なにしろ積読の増大というのは読書家にとっては悩ましいものだ)時折は、そうした古書店の前を通りすがったりもした。
 件の本も、そうした中の一冊で、タイトルは形而上学がどうした、という代物だった。本来的には私には縁も用も無い内容と思われた。「呼ばれた」と感じた理由は全くわからないながら、分厚いハードカバーがワンコインという価格設定はちょっと心くすぐられるものがあって、つい五百円と引き換えに持ち帰ってしまった。
 当時住んでいたのは、それなり使えるキッチンに居間兼寝室収納付きの一間、風呂トイレはユニットという物件だった。高さ制限のある土地だったので五階建てが限界で、その最上階が自室だった。五階はエレベーターの付かない限界の時代に建てられたので、自室には階段で戻るしかない。
 けっこうやかましい表通りの喧騒が、上った分だけ薄くなる。半ばうるさく、半ばは静かな部屋で、敷きっぱなしの布団の、くしゃくしゃのシーツの上に胡座をかき、持ち帰った本の頁をひっそりと開いた。
 専門外の専門用語の羅列された頁は、一行も当然のことながら理解できない。本当にどうしてこれに呼ばれたと感じたのだろうか。
 パラパラと投げやりに最初から最後に向かって頁をめくる途上、中程でぱたりと開いて止まった。挟まれていた栞が繰られる頁を押しとどめたのだった。
 栞じゃない。もっと大きな紙片。
 葉書だった。
 絵葉書だ。
 片面にどこかの風景が写し取られ焼き付けられている。少し色褪せたそれは石塀と石段の続く路で、どんな小さな車も乗り入れられそうにない歩くしかない細い石畳の路で、石塀越しには古い民家の瓦屋根、それにこんもりと繁った庭木の頭が覗いていた。塀の向こうから石段の路へと張り出した百日紅の花が、退色した中にまだ薄っすらと紅い。
 色を残してるのは百日紅だけでなく、画面の半分を占める石塀と石段の反対側に、手すりも無い路の外に、やはり古い民家の屋根と庭木の頭が雪崩落ちるように下に向かい、果てには小さな青が見える。海だ。
 ぴっ、と取り上げてひっくり返せば、宛先があるべき裏面にはどこの住所も記されていない。誰の名も差出人の名すら無く、一言だけ、「今、ここにいます」と、小さくしたためられていた。
 男の手なのか女の筆かも定かでない、生真面目で端正な文字が、元は黒かったのが少し色が抜けたか、青みをのこして「今、ここにいます」とだけ、自己の存在を訴えかけてくる。薄れかけていつつも、肉筆の文字は網膜の底にまで焼き付いた。
 さては、私を呼んだのは本ではなく、挟まれていたこの葉書だったらしい。
 奇妙なことだ。どんな縁があって私のもとに舞い込んだものか。こんな葉書をこんな本に挟む知り合いに心当たりは無い。「今、ここにいます」としたためた筆跡にも見覚えは無い。そもそも、私宛にしてはどちらも古色を帯びすぎている。にもかかわらず、葉書は来るべき場所に来たような顔で私の指の間に居座っている。
 宛先が書かれてないということは、相手の家に直に投函されたか、それとも本に挟まれて送られたのかもしれない。そんなものが古書店に流れてしまった紆余曲折を考えると少し複雑な気分になった。いったい、葉書の文字は読むべき人に読まれたのかどうか。
 裏を返し、表に返し、まじまじと一葉の葉書を飽かず眺めた。殊に景色を切り取り写した側。
 これはいったいどこか。日本であることは間違いないようだ。海が見えるから、この内陸の街ではないことも確かだ。鄙びた風情は大阪でも神戸でもない。関西に限らず都会らしい都会は全て除外だ。石段の多い場所。日本海側か太平洋側か瀬戸内か。
 スマホで思いつく限りの地名を検索してみたけれどもぴたりと合致する画像はヒットしない。もしかしたら、送り主が自分で撮った写真を用いた葉書なのかもしれない。「今、ここにいます」という想いをフレームに託して。
 考えを巡らせるうちに鼻につんと潮のかおりが届いた。潮の香だけではない。緑の呼気、何かの花の甘さ。往来から立ち上る排ガスに満ちた街中ではあり得ない澄んだ空気。幻臭なんてものがあるのだろうか。
 顔を上げればにおいだけではなく、目の前には絵葉書の光景と同じ、もっと色鮮やかな生々しい、そのものである石段と土壁の旧い家並みが存在した。塀越しの緑、百日紅の花の色。絵葉書ではわからなかったが百日紅の花は少しこぼれて石畳に紅を散らせていた。
 自室に戻り靴も靴下も脱ぎ捨てた後での出来事だ。裸足の裏の皮膚に石畳はごつごつと固くひやりと熱を奪われる感触があった。全身が潮と緑の気を含んだ濃厚に澄み切った空気に浸されている。
 知らない土地、立っている路は一本、上るか下るかどちらを選ぼうか。
 上には誰かが待ち構えている気がした。順当に考えれば、「今、ここにいます」と書き記した手の主だろうか。男であれ女であれ、本来の宛先の人物でない私が顔を合わすのは何か気まずいように思えて、下に下っていった。絵葉書のフレームの中から景色が次第次第にずれてゆく。眼下にあった民家が私の背に並び、上へと去ってゆく。いや、私が下へと去ってゆく。当然だが、直に踏む路はフレームの外の彼方まで続いて、不意に途切れたりはしない。初め小さく臨まれた海が樹木や家屋の陰に隠れては現れ、現れるたびに広く見え、潮の香も強くなってきた。
 ふと、下りていく先の路に誰かの待つ気配を感じた。違う。下に居る誰かは今まさに私の方に向かって来ている。
 会ってはいけない。
 上に待つ誰かに対して覚えた同じ感覚にとらわれ私は狼狽えた。とっさにきびすを返せば、上に待っていたはずの気配も私に近づいて来ている。奇妙に切羽詰まった追い詰められた気分になった。私はここに居てはならない異物、邪魔なものなのだ。去らなければ。どこへ?
 片側はどこまでも連なる石塀。
 上下どちらからも迫ってくる気配に出くわさぬみちは一方向しか無い。下になだれ落ちていく緑と屋根瓦の側。その先の海の側。
 私は飛んだ。石段の石畳を蹴って。
 どすん。
 両足の裏が踏んだのは、シーツのよれた万年床の上だった。背後に速度違反の車の吹かしたエンジン音が聞こえる。
 どうやら私は窓から自室に飛び込んだらしい。といっても、背にした窓ガラスはきっちりと閉じられ、鍵もかかってカーテンも引かれているのだ。
 窓から差し込む光は、時など一秒も経たぬかのように変わらず、ただ、布団の上には、投げ出された本と葉書の上には、どこから吹き込んできたものか百日紅の濃いピンクの細かいフリルのような花弁が散っていた。
 面影も見ない気配に挟まれたいたたまれなさを思い出し、二度はあんな目に遭いたくないと懲り懲りした気分になった私は、煙草など吸わぬ身ではあるけれど、近所のコンビニまで行って百円ライターを買って帰った。キッチンのコンロはIHなのだ。
 拾った絵葉書を細かく千切り、掃き集めた百日紅の花弁と一緒に小皿に乗せて、流しの内側でささやかな焚き火を作った。
 ちりちりと燃えてゆく紙くずと花弁は、悲鳴の一つもあげなかったが、灰になる寸前、立ち上った煙からはかすかに潮の香が感じられた。

 残された、読むには手に余る本は今も書棚で眠っている。売ろうにも古すぎて売り物にならない代物だし、これを燃やすのはちょっと骨が折れすぎる。日焼けした背表紙が目に入るたびに、まさしく罠にかかった心地になってたまらなかった。
 なのになぜだろう。その本を手に、旅に出る夢を時折見るのだ。
 旅先はきっと、長い石段と石壁の続く鄙びた町だ。海と緑の香が濃くたちこめ、季節が合えば百日紅も咲いているだろう。
 そこで私は誰かと出会うだろうか。
 絵葉書の差出人か受取人と会うだろうか。幻ではない現実で、彼らは私を受け入れるだろうか。
 夢見るだけの今は、まだわからない。

サークル情報

サークル名:暮亭
執筆者名:壱岐津 礼
URL(Twitter):@ochagashidouzo

一言アピール
文体にこだわりあり。怪奇と幻想を嗜みます。

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