里帰り

 玄関のチャイムが鳴ると同時に、膝の上に寝そべっていた灰色の生き物が、ぴくりと体を揺らした。暫くの間の後、高い音がもう一度。灰色のもふもふは小さな三角の耳をくるりと回し、前に向けた。
 がらがら、と控えめに引き戸が開かれる音がする。
「こんちはー」
 ここ数か月、何度もテレビを通じて聞いた声が、玄関から聞こえる。機械越しでない彼の声は、若干高くて若々しく、それでいてほんのわずか疲れているように聞こえた。
 灰色の生き物が、くい、と首を伸ばす。興味があるのだろうか、尻尾が小さく揺れる。
幹太かんた?」
 名を呼ばれ、じわりと感動と懐かしさが混じった感情が、胸の中に広がった。慌てて打ち払うと、杉浦幹太は胡坐をかいていた膝へと視線を落とした。膝の上の主はちらりとこちらを見上げるも、退く気配を見せない。玄関に向かって声を上げようとして、ふと悪戯心が疼いた。
 顔を見てから声を出してやる。
 携帯を手に取り、指先だけで簡単に操作する。この居間から玄関は見えない。同様に相手からは、幹太の姿が見えない。そもそも『こちら』に帰って来てから幹太の顔を見ていないだろうし、声も聞かせていない。無機質な文字列のやり取りが、この数か月、二人を繋いでいた。
『上がってこい。居間』
 史上最短レベルの文字列を送信した瞬間、数メートル先で小さな振動音が聞こえた。暫くの静寂、そして小さな物音。
「お邪魔します」
 とすとす、と、気を遣った足音。耳に届くその足取りはふらついていないようで、幹太は胸の内で小さく安堵する。膝上の生き物は、音の主が壁を透かして見えているかのように、金に光る瞳を真ん丸に開いて見つめていた。
 居間と廊下を隔てる障子に大きな影が映ったのもつかの間、半分開いた障子の隙間から、黒い髪が顔を出した。
 かっちりとした肩、整った顔立ち。さっぱりと切りそろえた黒髪。ほんの少しだけ細くなった頬。そしていつでも、好奇心を湛えている大きめの瞳。
テレビで見飽きるほど眺めたその顔に、子供のころから変わらない笑みが浮かんだ。
「久しぶり、幹太」
「おう、……お帰り、みのる
 数か月前、世界中を賑わせた宇宙飛行士――武田穣が、幹太の実家の廊下に立っていた。

 幹太が立ち上がろうと足を動かした途端、膝の上に堂々と陣取っていた灰色の猫が、幹太の膝から降りた。喉元の鈴がちりんと鳴る。不満げな顔で幹太を一瞥した後、猫はカーペットの上を澄まして歩き、奥の部屋へと消える。それを見送った後、幹太はようやく腰を上げた。ちゃぶ台に手をついた時、よいしょ、と声が出たことに、思わず苦笑いする。
「なかなかのお出迎えだな」
「こういうのも新鮮だろ? 国家レベルの豪勢なお出迎えなんて、され慣れているだろうから」
「なかなか手厳しいじゃないか」
 廊下に立ったままの穣を招き入れながら、幹太はにやりと子供じみた笑みを浮かべた。穣からは困ったような、それでいて楽しげな表情が帰ってくる。
「おじさんとおばさんに挨拶はしてきたのか」
「ああ、してきた。ついでにマスコミも撒いてきた」
「お疲れさん、世界的有名人さま」
「やめてくれ」
 穣が腰を下ろしながら、苦笑いを浮かべる。撒いてきた、と言いながらも、きっと横柄な応対はしなかったはずだ。「宇宙飛行士、十数年ぶりの里帰り」を撮ろうとこんな田舎まで足を運んだマスコミに、丁寧に接した後お引き取り戴いたのだろう。有名になってもなお気取らない彼に、幹太は口の端だけで笑った。
「茶で良いか」
「ああ、ありがとう。……おばさんや、嫁さんは?」
「買い物。ほら、そこの新しくできたアウトレット、……あー、去年できたんだよ、隣町に。折角俺たちも帰ってきたことだし、おふくろが下のちびの服を買ってやるってさ。連休だから混んでいるだろうに、親父とちび二人も連れて、いそいそと」
 台所に準備されていた新しい茶の封を開け、ポットからお湯を入れながら、少し大きめの声で話す。この日のために下ろしたのだろう、揃いの青い茶碗が、盆の上に載っていた。
「なんだか色々気を遣わせちゃったみたいで、悪いな」
「気を?」
「何て言うか、……いや、やっぱり何でもない」
 語尾にわずかな笑いを含んだ声に、幹太はテーブルから身を離して居間を覗き込んだ。思った通り、昔と同じ、体の後ろに両手をついた穣の姿がある。目を細めて穏やかに笑う顔と、かけられた言葉の含意にどう反応して良いのかわからず、幹太は台所へと半身を引っ込めた。
 穣がこの連休にあわせて里帰りする、と聞いて時期を合わせたのは確かだが、そこをずばり指摘されるとなんとなくこそばゆい。それに「色々」ということは、幹太が気づいていないところで何かあるのだろうか。首を傾げながら、幹太は急須を小さくゆすり、真っ白な茶碗に茶を注いだ。
「そういや、おふくろが昨日の晩、お前のドキュメンタリーを観ていたよ」
「そうなのか? 恥ずかしいな」
「中学校の校舎が映ってさ、大騒ぎしてた。小中高全部の卒アルも出てたぞ」
 壁越しに小さな苦笑が返ってくる。色味がどうしてもそろわず、片方が若干濃い茶にこちらも苦笑いをしながら、居間へとこぼさないように運ぶ。台所と居間をつなぐ敷居をまたいだ時、足元で、ちりん、と小さな鈴の音が聞こえた。
「こら、危ないから向こうに行ってろ」
 足を小さく動かすと、にゃお、と不満げな声の後、再び鈴の音が聞こえる。盆に意識を向けたまま視線をわずかに動かすと、視界の隅に、尻尾を不満げに揺らしながら、台所へと入っていく灰色が見えた。
 盆をちゃぶ台におろし、茶と茶菓子を相手に出すと、幹太は穣の向かいに腰を下ろした。小さな居間に、わずかな空白が生まれる。何から話せば良いのか、どちらから話し出すか。相手を意識しながら互いにぼんやり何かを考えているときの、若干の気まずさを含んだ不思議な静けさ。
 十数年の間が、ちゃぶ台を挟んで向かい合う二人の間に、薄くひんやりとしたヴェールを落としているようだ。
 息苦しさに、幹太が小さく息を吐いた時だった。
 にゃお、という小さな鳴き声が、その薄膜に穴を開けた。二人分の視線を集めた猫はどこか得意げに、幹太へと――もとい、胡坐をかいた幹太の膝へとすり寄ってきた。その細く温かな体を抱き上げ、ふと気紛れに、猫の胴体を持ったまま、その腹が穣へと向くように抱きかえる。
「ほーら、すっごい偉いおじちゃんだぞー」
「おじちゃんって言うな、少なくとも同い年だろ。お前より若い可能性だってあるしな」
「ああ、……」
 ウラシマ効果、という単語が幹太の脳裏をよぎる。何と言って良いかわからない幹太をよそに、穣は楽しげに猫へと視線を送っていた。
「可愛いな」
「おふくろが近所の家から貰って来たんだとよ。今じゃ親父もおふくろも溺愛しっぱなしらしくて」
 猫を膝に乗せながら、背後にある柱のひっかき傷を親指で指さすと、穣が快活に笑った。
「なかなか元気なお嬢さんだな。……触っても良いか?」
「ああ」
 再び猫を抱きかかえると、尻尾がばしりと幹太の胴を叩いた。伸びた猫の胴体や尻尾がちゃぶ台にぶつからないよう、迂回して相手へと猫を受け渡す。
「おお、暖かいな。柔らかい」
 穣がそっと膝の上におろし、慣れた手つきで猫の喉元を撫でる。
「宇宙に居る間、ずっと動物が触りたくって仕方がなくてさ。今回は、飼育実験はなかったから。人間以外は」
 冗談を交えた時だけ、穣の顔に悪戯っぽい笑みが浮かんだ。
穏やかな表情で猫を撫で続ける穣。そして幹太への態度とは打って変わり、ごろごろと喉を鳴らしながら撫でられている猫。両者を、幹太は毒気を抜かれたような表情で見つめるしかなかった。
「なんだよ、穣にはすぐに懐きやがって」
 愚痴交じりの声を漏らすと、穣は猫の顔を覗き込み、余裕を含んだ笑みを零した。
「動物は、大事にしてくれる人はわかるもんなぁ」
「いや、俺だって邪険に扱ってはいないぞ」
 むすりとした声で幹太が答えると、「まあ、慣れているっていうのもあるだろうな」と返事が返ってきた。
「幹太さ、あいつ、覚えているか。フェリセット」
「ああ、もちろん」
 フェリセット、というのは、穣が中学生の頃から飼っていた猫だ。彼が土手かどこかで拾ってきた茶虎の猫で、病弱で、それでいて瞳は綺麗な青だった。大人になっても青い瞳の猫は、何らかの遺伝子疾患を有している可能性がある。そう獣医に言われた、と話しながら猫を撫でる穣の横顔は、寂しげで優しかったのを覚えている。結局何度か大病を患いながらも、普通の猫と遜色ないくらいには長生きしたと、社会人になったある時聞かされた。
 にゃぁお、という長めの鳴き声と青の瞳を思い返しながら、幹太は口を開いた。
「宇宙に初めて行った猫の名前を貰ったんだったよな」
「おお、よく覚えているな」
「お前な……、二人で必死こいて調べただろ。フェリックスなのかフェリセットなのか、どっちが正しいのかって文献つきつけあってさ。お前こそ、俺の努力をよくも忘れやがって」
「悪い悪い」
 悪びれる様子もなく謝る穣に、思わず幹太にも苦笑が浮かぶ。じわじわと笑いが込み上げ、くつくつと笑う。穣も小さく吹き出し、やがてどちらからともなく声に出して笑いだした。その様子を灰色の猫が、じっと金の瞳で見上げていた。
「さて、と」
 穣が顔を上げた。
「話したいことは山のようにあるけれどな。まずは幹太と嫁さんとの馴れ初めから聞かせてもらおうか」
「嫌だ」
「良いじゃないか。“浦島太郎”に教えてくれ」
 穏やかな時間が居間を流れる。二人の間を隔てていたはずの十数年――幹太、および地球暦で考えると――の月日は、溶けて消え去っていた。


Webanthcircle

うずらやの小金目創庫(Twitter)直参 C-27(Webカタログ
執筆者名:轂 冴凪

一言アピール
今回テキレボ3に、「うずらやの小金目倉庫」名義の合同サークルで参加させていただきます。普段はホットミルク系SF(すぺーすふぁんたじぃ/すこしふしぎ)、ファンタジー等の短編を中心に活動しております。どうぞよろしくお願いいたします。

Webanthimp