BAR NAGOMI

 午後十一時。夜に負けない光り輝く都会の街。
 もうすぐ三十歳を迎える、神谷道子かみやみちこはイライラしながら駅に向かっていた。労働基準法なんて飾りだということを示唆する程のサラリーマンの群。おまけに仕事では何ヶ月にも渡る、長期的なトラブルに引っ掛かった。苛立ちは最高潮に達し、彼女は大通りを外れて脇道に入る。毎日真っ直ぐ帰る性分だが、今日はどうしても耐え難かった。
 入った路地の両脇には飲食店が数多く並んでいる。居酒屋にカフェ、ファストフード。どれもありきたりで、初めて入った路なのに興味がそそられない。曲がってしまった路を引き返すのも面倒臭い。彼女は溜息をついて歩む。左右を見渡すと、店のガラス越しにバカ騒ぎしているスーツの連中を見かける。間抜けな笑顔が、道子の苛立ちを駆り立てる。彼女は従業員十名の小さな会社で働いているが、毎日のように帰りが遅いため、誰もわざわざ勤務後に酒が欲しいなんて思わない。互いの顔色を窺いながら、脱獄するように会社を出るのだ。
 ふと一軒の細長い雑居ビルが目につく。洒落た外観の店が立ち並ぶ中、見るからに老朽化していて、注意深く見ていないとスルーしてしまいそうだ。
「【BAR NAGOMI】……」
 道子は導かれるようにビルに入る。狭い階段を一階分上ると、大きな木製のドア。その脇に【BAR NAGOMI】と刻まれたプレート。
 バーはしばらくご無沙汰している。ダイニングバーやラウンジバーなら、たまに会う友人と行くこともあるが、賑やかな所はあまり好みではない。
 オーセンティックバーには近年、女性一人で行くことも珍しいことではない。道子はドアの取手を掴み、軋み音と共に重たいドアをゆっくり開ける。
「いらっしゃいませ」
 道子は初めの第一声に少しだけ驚く。
照明はカウンター上のペンダントライト数台のみで、明かりから離れると闇が広がっている。座席はカウンターだけで、棚に陳列されているボトルは綺麗に磨かれている。
バーテンダーは道子よりもやや年上だと思われる女性。
「お好きな席へどうぞ」
「どうも」
 道子は一瞬緊張したが、すぐに仕事の疲れに負けて、脚の高い椅子に腰掛ける。お絞りを受け取り、冷えた両手に温かみを取り戻す。
「スプモーニ」
「かしこまりました」
 タンブラーに氷を数個。カンパリを注ぎ、グレープフルーツジュースを注ぐ。氷を避けるように、トニックウォーターをゆっくり注ぎ、タンブラーを満たしていく。炭酸の泡立つ音が狭い店内によく響く。
 道子は待ち時間にカウンターの縁を指と指で挟んでみたり、窓の方に視線を移したり、天井を見ていたりしていた。
 バーテンダーは最後の仕上げに、グラスの縁にレモンスライスを飾り、ストローを差す。
「お待たせしました」
 コースターの上にスプモーニが置かれる。ピンク色をした、女性に人気のカクテル。
「ありがと」
 道子はストローで一口飲む。カンパリとトニックウォーターの苦み、グレープフルーツのフルーティさが上手く調和していて美味しい。生力を失った喉に命が蘇る感覚。無論、居酒屋で出されるものとは比べ物にならない。バーこそ、本物に出会える場所だと道子は確信している。
「おいしい」
「ありがとうございます」
 女性のバーテンダーは上品に頭を下げる。道子が二口目飲んでから、彼女は話しかける。
「お客様、もしかしてインテリアコーディネーターですか?」
 道子は目を丸くして顔を上げる。
「え、どうして分かったの?」
「カウンターの材質に興味を示されているようでしたし、窓に掛かっているカーテンや、照明をじっとご覧になられていたので」
 道子の口元に笑みが浮かぶ。
「すごい。お店に入ってまだ数分なのに、そんなことまで分かるのね。さすが、接客のプロ」
「いえ、まだまだ未熟です」
 バーテンダーのはにかむ様子もまた上品。
「天板はフィオレストーン、カーテンはマナ、照明はオーデリック。椅子はアルフレックス、で正解かしら?」
「すごいです……よくお分かりで。お客様もさすがプロですね」
「いやいや、まだまだ未熟よ」
 互いに笑いを込み上げる。
「最初はこんな雑居ビルになんて……って思ったけど、内装は結構こだわっているのね」
「はい。今は自分のお店のようなものなので」
「ん? マスターじゃないの?」
「ここは父のお店です。店名は、私の名前なんですけどね」
「へー、ってことはナゴミさん?」
「はい。【和】に【水】と書いて和水なごみといいます」
「そうなんだ。自分のお店のようなものってことは――」
「父は昨年から体調を崩してしまいまして。うちは父子家庭なので、今は私が店主のようなものです」
「そうなんだ……。気まずいこと聞いちゃったかな」
「いえいえ、気になさらないでください」
 道子はポケットから煙草を一本取り出し、オイルライターで火を点ける。暗闇に灰色の煙が立ち昇る。
「和水さんは結婚してたりする?」
 上品なバーテンダーは苦笑いする。
「残念ながら未婚ですね」
「じゃあ、彼氏は?」
「それも残念ながら……」
「ここは定休日とかあるの?」
「決まった休みはありません。基本的には年中無休です」
「そっか。お父さんが大変だし、ゆっくりはしていられないわね」
「お客様もお仕事、毎日遅くまでやっていらっしゃる感じですね」
「まあね」
 道子は煙草を灰皿に置いて、スプモーニを口にする。
「毎日好きでもない仕事に、バカみたいな時間使って。でも、なぜ続けているか。それはただの惰性。会社辞めたいって思ってるんだけど、同業者は似たようなものだし、他業界に行って一からやり直すのも大変になってくる歳だし。コーディネーターなんて華やかに聞こえるけど、言うなればただの御用聞き。お客様が『あーしろ』『こーしろ』、『あーじゃない』『こーじゃない』って言ったら休日削ってでも、別の提案をしないといけない。しかも、それは見積もり。注文に結びつかなかったら、ただの骨折れ損。注文になったとしても、うちは所詮下請けだから、クライアントにほとんど持って行かれちゃう。本当、何やってんだか」
 道子は日頃溜まっていた毒を吐き、二本目の煙草をくわえる。
「分かる気がします。今更他の所へ行っても……と思う不安。ただでさえ稼ぎが少ないのに、一からやり直すなんて到底思うことができない」
「でしょー? でも、結局嫌な状況に甘えているだけなんだよね。変えたいと思っていても実行に移せないのは、怠惰で、勇気がないから。ちょっとでも動けば、何かが変わるかもしれないのに、体も頭も動かない。本当は結婚したいし、子どもも欲しい。仕事を続けながら子育てしたい。でも、実際は違う。こんな働き方してるから、男には愛想つかされていつも別れることになるし、自分が自分の子どもだとしたらこんな母親絶対イヤ」
 笑顔を失った道子はスプモーニを飲み干す。
「社長は『和の心』とかいう名目で、集団行動が大事ですなんて言いながら、結局は社員同士の顔色を窺わせて帰れないようにしてる。本当、腐った会社」
「『和の心』、ですか。解釈が難しい言葉ですよね」
「え?」
「私が思う『和の心』。それは即ち『大和魂』。互いに顔色を窺うような、それぞれの個性を押し潰すようなものではなく、大きな和の魂。つまり、各々が強い精神力を発揮し、それを大きな絆として築き上げていくことが『和の心』だと思うのです」
「は、はぁ……」
 予想外の返答にきょとんとする道子に対し、和水は店の暗さを搔き消すような笑顔を見せる。
「もしよろしければ、私から一杯サービスさせていただけませんか?」
「は、はい。ぜひ」
 和水は「ありがとうございます」と言うと、ウォッカ、ホワイトキュラソー、ライムジュースの瓶を取り出す。それぞれを均等の量、氷の入ったシェーカーに注ぎ入れ、蓋をする。和水はとても軽やかな手つきでシェーカーを振る。その姿はどこか女神を思わせるほど神々しく、氷が揺れる音が耳に心地いい。和水は振り終えると、ロックグラスに少し黄身がかったカクテルをゆっくり注ぐ。
「お待たせしました。カミカゼ、と言います」
「神風? 日本のカクテル?」
「発祥はアメリカと言われていますけどね」
「へー、そうなんだ。あたしにこのカクテルを作ってくれた理由は?」
「名前の通りです」
「神風特攻隊」
「ええ」
 道子の表情に笑顔が戻る。味はとても辛口。外国生まれのカクテルなのに、まるで日本刀のように鋭利。
「鋭い味。この身がどうなろうとも進んで行け、っていうことかしら?」
「今の職場に拘る必要はありません。しかし、変わろうとしないことこそが一番恐ろしいと思うのです。惰性はよくありません。お金に成る成らない、無駄かどうかも関係なしに、一度は自分が進みたい方向に足を一歩踏み入れてみることです。結局、自分で選び、やりたいと思ったことじゃないと人間本気になんてなれませんから」
 道子はカミカゼをもう一口飲む。
「まさかバーで説教されるなんて思わなかったわ」
「すいません。決してそんなつもりでは」
 道子は手首を左右に動かして否定する。
「違う違う、褒めてるのよ。和水さんと話してると楽しいわ」
「ありがとうございます」
「今日はこれを飲んだらもう帰るけど、必ずまた来るわ。垢抜けた姿でね」
「はい、ぜひお待ちしております」

 道子が【BAR NAGOMI】を出る頃には、夜空に満月が浮かんでいた。いつもは眠すぎて死にそうな深夜でも、今日は眠気が這い寄って来れないほど彼女は爽快感を覚えていた。


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サークル名:教授会(URL
執筆者名:紗那教授

一言アピール
創作文芸界のプロフェッサー、紗那教授でございます。アンソロジーのテーマが「和」ということで、ヒロインの名前とバーでの和んだ雰囲気を掛けて執筆させていただきました。また、久しぶりに表紙も自分で描きました。落ち着きと安らぎの一杯をお楽しみください。

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BAR NAGOMI” に対して2件のコメントがあります。

  1. 浮草堂美奈 より:

    カッコいい! 大人の世界!

    1. 紗那教授 より:

      浮草堂さん

      遅れましたが、コメントありがとうございます!
      イケメンがいるバーもいいですが、女性バーテンダーのいるお店も素敵ですよ!
      ぜひとも、ロマンチックなオーセンティックバーへ。

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