かわいいひと

自分の家で眠れなくなったのはいつの頃からだろう。学生の頃は、いつまでも深く眠っていられたのに、十年経った今、僕は、眠ることが苦痛でしかない。
浅い眠りは悪夢を見せる。毒を飲まされる夢。正確には、毒を飲まされるすんでのところで目が覚める。知っている人間が、僕に毒を盛ろうとしている、その予感だけがはっきりしていて、僕は毒を飲まされないように、気がつかないふりをしながら逃げようと思うのだけれど、些細な障害に行く手を阻まれうまくいかない。何故か下着姿だったり、抜けることのできない会社の会議中だったり、大学受験の最中だったり、だ。シチュエーションは違えども、毒を盛られようとしていること、その犯人がふたりであることは変わりない。最初のうちはさりげなく飲食物に混入していたが、こちらが避けているのに気がついたのか、巧みな誘導でその食べ物を食べなければならない状況に追い込んでいく。とうとう毒を飲まされそうになり、そこで目が覚める。早く、早く誰かに、助けを求めなければ。逃げださなければ。呼吸は乱れ、寝間着は汗で湿り肌に張り付く。そしてようやくここが自宅のベッドの上で、今までのは夢だと気づく。そうだ、夢だ、いつもの夢。見れば見るほど鮮明になっていく夢。

汗を吸ってにわかに重たい綿の寝間着を脱ぎ、下着も新しいものに着替える。クロゼットを開くと、皺ひとつなく、正しく折り目のついたシャツがハンガーにかけられ並んでいる。乾燥剤と消臭剤を効かせたクロゼットの中は何のにおいもなく無機質に空気が乾いている。シャツには埃ひとつ、髪の毛一本もついてはいない。毎度きちんと染み抜きが施され、常に新品のような白さを保っている。僕は一番左のシャツを手に取った。着る時は左側から取るのがルールだった。
身支度を済ませ階下に降りる。まだ午前五時。リビングはカーテンを隙間なく引かれしんと静まり返っている。クリーニングから戻って来たのであろうセーラー服が、ビニールをかけられたまま、カーテンレールにぶら下がっていた。キッチンもテーブルもどこまでも美しく磨き上げられ無駄なものは一切置かれていない。僕は昨日買っておいた菓子パンを同じく買ったパックの牛乳で腹に流し込み、誰にも会わぬよう速やかに家を出る。
役割を演じ、必要不可欠なことを最小限のエネルギー、最短の方法でこなしていくことに特化していく、それがどれほど楽なことか。職場では何よりも効率を求められる。多少人間関係に問題があろうが、仕事が出来れば誰も文句は言わない。仕事は僕の救いだった。だからのめり込んだ。

「体調悪そうですね」
 昼休み、自販機で栄養ドリンクを買おうとしていたところに話しかけられた。
「あんまりよく眠れなくて。妙な夢を見るんだ」
「夢?」
「うん、毒を盛られそうになる」
「毒、ですか」
 僕は一体何を言ってるのだろう。
「そう、毒。いつもそうなんだ」
「警告」
「え?」
「夢判断って知りませんか? 私、大学の時に興味があって調べたことがあるんです。毒を盛られるのは、警告の暗示です。誰かがあなたに悪意を持っている」
「やめてくれよ、そんな迷信」
「でも、毎回その夢って、なんだか暗示的じゃないですか。あなたの無意識が危険を察知しているのか、はたまた別の意思があなたに何かを伝えようとしているのか」
「やめろよ、気持ち悪い」
「怖がりなんですね」
 彼女は一歩僕に近づき、僕の胸にとんと額をぶつけ、何かをつぶやいた。僕は反射的に彼女の肩を押しやり身を引き、咄嗟に辺りを見回した。かわいいひと、と聞こえたが空耳かもしれない。彼女は奇妙にも、より一層微笑んだ。人工的なつやのある真っ赤なくちびるが三日月のように歪み、そのまま彼女は踵を返した。

 残業を済ませコンビニで弁当を買い、僕は自宅とは反対方向の電車に乗り込み、街から少し離れた無人駅で降りた。線路沿い、踏切のそばにそのアパートはある。らせん階段のついた安いだけが取り柄の古いアパート。鍵を回しドアを開ければ生活感のない部屋。家具は最低限しかない。冷蔵庫と電子レンジ、卓上IH。ガスは使っていない。クーラーとノートパソコン、ひとり掛けのソファと食卓、折り畳みのベッド。陽はろくに当たらず、壁紙はしみや日焼けが目立ち、きちんと窓を閉めても、どこからか隙間風が入ってきてみしみしと不気味な家鳴りがするが、自宅の息苦しさに比べればたいしたことはなかった。
レンジで弁当を温め遅い夕食をとる。ふらふらだが、汗臭い体でそのまま眠れる気がせず、僕は服を脱ぎ捨てるようにして浴室に向かう。汗でべとつく体を、ほとんど水のシャワーで流す。皮脂で不快にぬめる顔と頭皮と髪とを石鹸でごしごしと一緒くたに洗う。
 これだけ体がきつければ、深く眠れるのではないか。期待とともに不安もせりあがる。これで眠れなければ僕は死ぬかもしれない。
 髭を剃ろうと洗面台の鏡の前に立った。荒れた肌は全体青白く、目の下だけがどす黒い。眉間や口元にはくっきりとしわが刻まれ、暗い影を落としていた。伸びた髭を手のひらでこする。すると鏡の中の自分も同じ動作をする。しかし妙な違和感が胸をざわつかせた――動きがぎこちない気がしたのだ。
 僕は鏡の中の自分――もしかしたら、自分じゃない誰か――を凝視した。向うも、僕をじっと睨みつけてくる。眼球は血走り、白目は黄みがかっている。確信した。これは僕じゃない。偽物だ。
「お前は誰だ」
 僕は牽制するように低く言った。しかし特に反応はない。姑息にもまだ僕のふりをしている。だが僕は騙されない。僕はピストルを構えるようにもう一度ゆっくりと言った。
「お前は誰だ」
 顔が歪む。化け物めいてくる。正体を現し始めたらしい。もはや僕の顔ではない。
「誰なんだ、お前は!」
 後ろから視線を感じて背が凍る。恐怖を振り切るように僕は勢いよく後ろを振り返る。
 そこには黒い塊が蠢いて――よくよく見ると、黒猫だった。エメラルドグリーンの瞳で僕のことをじっと見ていた。
「なんだ、ペーか」
 ペーは洗面台に飛び乗り、僕をじっと見つめてくる。水が飲みたいのだ。
 蛇口をひねると勢いよく水がほとばしる。ペーはざらつく舌でぺろぺろと水を舐める。
 馬鹿馬鹿しい。僕は深く息を吐いた。寝が足りないせいだ。猫の仕草を見ているうちに、精神のざわつきが治まっていった。

 やはり、夢を見た。相変わらずだった。ついにふたりは強行に及んだ。僕は羽交い絞めにされる。相手は小柄そうなのに、どこにそんな力があるのか、僕はちっとも身動きがつかない。じたばたと四肢を動かしても、絡みつくように締め上げられ、何の意味もなさない。もうひとりがまるでじらして楽しむかのようにゆっくりと、僕の口に毒を近づける。信じられない力で顎を掴まれこじ開けられる。あまりの痛さに僕は抵抗を緩めてしまい、生暖かいものが口の中に押し込まれたところで目が覚めた。相手は女だった。深紅の妖しい唇を鮮明に覚えている。時計を見やると午前五時、自宅よりは少し長く眠ることができたようだ。僕はじっとりと汗をかいた体を再びシャワーで流し、猫の世話を済ませて部屋を出た。

「今日も栄養剤だけですか? だめですよ、体壊しますよ」
 昼休みのいつもの時間、振り返ると彼女だった。
「お弁当作ってきたんです。榎木さんの分も。よかったら一緒に食べませんか?」
 赤い包みを差し出され、僕はぎくりとした。この光景を間違いなく僕は以前見ていた。僕は逃げ出そうと震える膝を押さえて丁重に断った。彼女は笑顔を崩すことなく、そうですか、と引き下がった。
「そういえば」彼女はふと何かを思い出したように言った。
「榎木さん、夜中にどこに行ってるんですか」
「え」
 あまりに唐突な質問に――しかも何故、この女から聞かれるのか理由がわからない――僕は面食らい、冷汗がにじんだ。
彼女は肩をすくめるようにしてくすくすと笑う。細められた弓なりの目はしかし、少しも笑っていないのに僕は気がついた。
「手料理、食べないんでしょう。毒入りかもしれないものね」
「何を言っているのか分からないんだけど」
「毒、誰から盛られるんですか? 奥様? お嬢様?」
 嫌な汗が流れた。僕に毒を盛るのは……。女はそれだけ言い残し、背を向けて去っていった。

 僕は女のことを考えた。確か同じ部署の事務員だったと思うが、どうだったか思い出せない。あまり人に関心がないため、名前もわからない。仕事上何の関わりがあったのか、それすら覚えていない。何の印象も持ったことのない人間にどうしてそんなプライベートなことまで知られているのか、不思議でならず、気味が悪かった。考え事をしている間に気がつけば駅のホームにいた。明日のプレゼンに使う資料の一部を入れていたUSBメモリを、うっかり自宅のデスクトップパソコンに挿しっぱなしにしているのを思い出し、僕はアパートでなく自宅に帰ることにしていた。ペーのことが心配だが、早朝会社に出勤する前に寄ればいい。そう思い昨日とは反対側の駅のホームに立った。
 特急列車が通り過ぎ、視界が開けた。ふと何気なく見上げ、僕は目を見張った。女が――あの女が立っていた。能面のような白い顔に暗い笑みを湛え、手には赤い包みを持って、僕をじっと見据えていた。向かいのホームにいる意味を、僕の脳みそは考えることを拒否していた、しかし考えざるを得なかった。もし、今この時間、線路沿いのぼろアパートに向かっていたら……。僕は半ば叫び出しそうになり、腰が抜け膝が笑いそうになるのを、ぎりぎりの所で押しとどめた。女は破顔しこちらに伝わるようゆっくりと真っ赤なくちびるを動かした。
「か・わ・い・い・ひ・と」


Webanthcircle
サークル名:こんぺき出版(URL
執筆者名:豆塚エリ

一言アピール
車いすの詩人・豆塚エリと紅茶専門の喫茶店のマスターとふたりでやっているちいさな出版社。

ひなびた温泉街、別府にある喫茶店で紅茶と焼き菓子と音楽を嗜みながら創作や議論を重ね、リトルプレスを作っています。

Webanthimp

かわいいひと” に対して1件のコメントがあります。

  1. 浮草堂美奈 より:

    ひ……ひいいいいってなりました! サイコホラー! サイコホラー!

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください