赤マルとショートピース

 祖母の千代が死んだ。僕は祖母の名前が千代だったことを久しぶりに思い出した。でも、すぐに忘れた。
 というのも、祖母が花に沈み、甘い香りの細く立ち昇る煙に満たされた夜、叔父を好きになったから。祖母のことなどどうでも良くなった。
 通夜振る舞いとかいう食事の席で、肩を叩かれた叔父の俯く横顔に不明の身震いがした。頼りない、特に今は一層弱っているだろう叔父の姿に胸を打たれた。これが恋なんだな、と多感な年頃の僕はたくさんのことを感受しているから分かった。
 僕は恋の瞬間も、努めて冷静に真っ黒な詰襟の学生服を汚さないよう、慎重に手を伸ばして烏龍茶の壜を抓んだ。すると一つ下の妹である巳槻は目ざとく僕に言った。
「蒼兄ちゃん、コーラ取って」
 自分で取れよ、と言いたい。僕はちらりと巳槻を見た。健康的に日にやけて身体もどちらかといえば父譲りの肉付きのよさだ。僕とは対照的だ。
 ほら、と僕は烏龍茶より先にコーラの壜を取り王冠を外してやって、コップに注いでやる。コーラだとすぐに消えてしまうけれど、美味しそうな泡の立て方も知っている。そこまでやる丁寧さが僕に対する家族の印象だ。
「ありがと」と事もなげに妹が言うので、目元に唾を吐いてやりたかった。
 母の陽子に先ほど咎められたせいか、妹は時折スマホを出して少しいじってはしまう、を繰り返している。ふん、親族の死んだ時まで連絡を取らなきゃいけない奴なんて、僕なら友達になりたくないな。とは言え、もう祖母のことを考えていないのだから、僕も似たようなものかも知れない。
 僕は自分の烏龍茶の王冠も外す。左斜めに向かって座っているよく知らない親族のコップに先に注いでやる。礼を言われ、笑顔で一応の会釈をする。それでようやく僕のコップにも飲み物が注がれる。
 会食のざわつきの中から、向かい席の二つ左隣に座る叔父と、その兄である僕の父・鋼造、僕ら側に座って兄弟に相対している二人の坊さん。彼らの会話を断片的に聞き取りながらその様子を眺めている。気づかれないように時折、母と話をしながら。
 叔父と父、二人の坊さんの四人の会話といっても、実質は父を中心にした坊さんとの話し合いだった。喪主である父が坊さんの相手をしなければいけないことは聴いていたが、それにしても叔父は元々ほとんど喋る人ではなかった。
 弱い人だと思った。不明の身震いがまたした。

 翌日の告別式は、人を葬るのに最適な曇天だった。最適な日だから、滞りなく済んだ。
 告別式を終えて、近しい親族が思い出話をしている中、僕は式場からそっと抜け出してアパマンショップと蕎麦屋を挟んで営業しているドラッグストアの裏口に潜り込んで煙草を吸う。カーゴ車に空の段ボールが詰まれた更に奥。死角になっている場所だ。学生服の尻ポケットに隠した赤マルを一本口に咥えて喫う。父の財布から抜き取ったタスポで購入したり、時には学校の友人である雄司から少し高値で買ったりする。雄司は学校でバイヤーみたいなことをやってる。僕は父の目を盗める時にしか煙草を購入できないけれど、雄司はいつでもマルボロ、メビウス、セッター、ウィンストン辺りは備えていて、欲しがる同級生に色をつけて売る。もちろん、付き合いのある奴らにしか売らないし、僕を含めたそいつらも雄司のことを誰にも告げ口しない。僕らは青空に向かって背伸びをしたいのだから。
 一本目が吸い終わってもすぐに二本目には手をつけない。暇つぶしにニュースアプリを眺めている。ただあまり長居もできない。どこかで切りをつけて母と妹のところに戻らなくては。
 ニュースはどこかテンプレートみたいなものばかりだった。同じことが毎日毎日、表面だけを取り替えられて流されているようだった。○○県の議会議員の問題発言とか、大物俳優が死んだりとか、かと言えば若者俳優が問題を起こしたり、農村に熊が出て猟友会が出てきたり、小さい子供の命が奪われたりとか、都道府県別有効求人倍率の推移とか。毎日毎日表面だけが洗われて、きっと中身は一緒のことばかりを言ってる。
「……蒼汰君?」
 やっと来た。よかった二本目を吸っているところで。視界の端に頼りない人影が映って、僕は言う。
「ああ、潤矢叔父さん。煙草?」
「え、……あ、ああ」
「僕ライター持ってますよ」
「い、いや。君が吸うのは」
「うん、見つかっちゃって驚いてます。やべ、どうしようって。ここなら人に見つからないなと思ってたのに、あー……失敗しましたね」
 嘘。僕は朝、叔父さんを観察して、ここで煙草を吸うのを目撃してる。大人なのに堂々と喫煙室で煙草を吸わないのは、叔父さんが一人になる時間を作るためだろう。だから僕もここで煙草を吸っていた。
「叔父さん、僕の弁明を聞いてもらう前に、とにかく火をどうぞ」
 叔父さんは僕に言うべき言葉を探していたようだが、僕がライターで火を点けると、むうとかうう、とか唸って自分の煙草を出した。人差し指と中指で挟んだ短い煙草。ショートホープだった。僕の周りで吸ってる奴はいない。なんだ、叔父さん、ちょっとカッコいいじゃん、と思い口角を上げた。
 叔父さんの煙草に火を点けてあげる。叔父さんの指は父と違って細くて骨ばっている。僕は叔父さんの息子なんじゃないかと、ふと思う。なんだか嬉しくなる。叔父さんは少し皮が余った感じの喉をふくらしてから、口の端から溜息みたいに煙を吐いた。
「……」
 叔父さんは面倒なところに出くわしたと思ってるんだろう。そうだよ。叔父さんはこれから面倒なことに巻き込まれる。
「叔父さん、僕、家族の中ではいい子で通ってるんです。もちろん学校でも」
「……」
「まあ、でもこれは同級生の仲間内から買った赤マルです。あれ、親父のタスポで買った奴だっけかな? あれ」
「……」
「まあ、いいや。初めて吸ったのも赤マルです。親父の愛煙してる奴ですから、しばらく盗んで吸ってたら馴染んじゃったんですよ。こういうのって好みというより、……なんていうか出会いってことですよね」
「……ん、まあ。そう……だな」
 僕のクラスにもこういう奴はいる。スポーツがあまり得意でなくて、喋りも下手なボーっとしてる奴。恋する叔父さんじゃなかったら、絶対に話しかけない。
「ねえ、叔父さん。叔父さんはどうしてショートホープを吸うんですか」
「……短いから」
「短いから?」
 叔父さんは吸い終わった煙草を携帯灰皿に入れた。
「すぐに吸い終わるから、……人を、待たせない、から」
 僕は呆れる。嗜好品の煙草ですら、人のことを考えて選んでいるようだ。
「蒼汰くん……いつから煙草。……あ、いや好きなの」
「中学入って半年くらいで吸い始めました。ヘビースモーカーになりたいくらいですけど、そんなに量が手に入るわけじゃないですし」
 これも嘘。煙草は背伸びするための道具。嫌いではないけど、父みたいにスパスパ次々吸いたいとは思わない。
 それより、そろそろ僕は戻ったほうがいい。それで僕は喪服の肩口に右手を置いて、左手を耳に添えて叔父さんにひそひそと言う。
「ねえ叔父さん、僕はそろそろ戻らないと。お願いです。家族には黙っていてください。叔父さんと僕だけの秘密にしてください。どうか」
 僕は声変わりを終えたけれど、でも声は美しい。合唱もテノールを上手くこなしている。落ち着いた雰囲気を醸しながら、不良グループと何となく仲良くできる付き合いの良さがある。にきびはできたことがない。僕は僕が割りと好きだ。でも他人を好きになったのは初めてだ。
 初恋。僕はどうして叔父さんの弱弱しい横顔を好きになった? 弱いからだよ。自分より弱そうな大人にぞくぞくする。いじめっ子といじめられっ子を傍から見ていただけの僕は初めてその関係を理解する。いじめっ子はそいつが嫌いだからいじめるんじゃない。
 そいつの弱さを好きになっていじめる。
「じゃあ……叔父さん。また」
 僕は叔父さんに背を向けて歩き出そうとして、背中越しに言う。
「叔父さん。僕……僕、ずっと叔父さんのこと好きです。普通の人が女性を愛するのと一緒の……好きですよ」
 嘘を言って早足で叔父さんから離れる。まるで僕に告白してきた二年生の女の子じゃないか。言うだけ言って逃げるように駆けていった女の子。彼女も僕に見えないところでこんな不明の喜びに満ちた表情をしたのだろうか? 口角が上がっておかしくておかしくて仕方がない。
 でもね、叔父さん。叔父さんを好きになったこと、それだけは本当だ。叔父さんをいじめたいくらい大好きなんだよ。
 叔父さん、次会うのは四十九日だよ。僕も叔父さんのことを考えて夜を過ごすから、どうか叔父さんも僕の言葉に惑ってよ。
 死んだ千代のばあちゃんなんてもう過去に流して。僕の渦に呑まれてよ。


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サークル名:羊網膜傾式会社(URL
執筆者名:遠藤 ヒツジ

一言アピール
弊社は<文学は先ず実業ではなく虚業であるべき事>を社是とする架空企業。作風は現代・純文芸寄り。新刊予定は、恐怖・不条理系作品をまとめた短編集『そぞろ』(100頁程度、300円、文庫)。暗闇で初音ミクの声に職業斡旋される「遅れてきた女たち」、恋した瞬間に起きる悲劇譚「身体はあなたのもとに」などを収載。

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