詩と写真の本。切ない、悲しい、愛しい、恋しいをつめこんだ本が出来ました。
(作者サイトより転載)

sanka

 読み終わったあと、溜息になった。殆どセリフのない淡々とした情景がゆるく広がり、目の前にちらりと自分の記憶の中にある光景がかすめてはふっと消える──実際にそんな経験があるかどうかとは関係なく。モノクロームの写真たちがそんなふうに思わせるのかも知れない。今まで見てきた写真や映画や本やドラマなんかの既視感に近いのか。
 収録されている詩は常に一人称で「君」への気持ちを語る。凝った言い回しや語彙ではないから逆にすんなり自分の視点に置き換えることが出来るのだろう。理解を拒絶したくないなら、こういうことはとても大事だ。

 いくつか、特に好きな詩と言葉をあげておく。

「海岸」
 そういう設定、と呟かないと胸崩れてしまうことはきっとある。ちょっとだけ自分自身と乖離して、まるで他人事のように見ていますということにしないと組んだ骨組みの大事な部分が外れてしまう、そういうことなのだろうと思う。

「手紙(出すことも、読まれることもない)」
 哀しみと想いが常にゆらぎながら身の内にあること、それをこぼさないように生きていくこと、時々叫び出しそうになるのを押さえ込むこと。つらいほど優しくなれることは美しく、けれど寂寞はなお強く、そのコントラストが胸に沁みる。この本の白眉であると思う。

「俺だけのために」
 人混みで立ち止まって見たくなる気持ちはよく分かる。試す、というほど強いものではないのだけど。でもほんの少しでいいから何かの答えが欲しい時は、あるよね。

「ノート」
 自分たちの糸は消して交わらないのだという諦観は多分正しいのだろうと思う。今はたまたま同じクラスの中にいて糸は並行に伸びているけど決して交差することなく、クラスという糸繰りを離れてしまえばどこか別の所へ行ってしまうのですね。切ないとまでは行かないけれど、微かな寂しさが全体に漂っている。

 
 収録されている詩は恋愛詩だが、恋などと安易に呼びたくない。恋という正統ではあるがありふれた名前を与えてしまうとこの詩群に付与された微かな温度や息づかいがひどく生臭くなってしまう気がするのだ。
 「君」を好きだという気持ち、人を好きになるという気持ち、それは恋という強く正しい単語とはまた趣が違うのだと、そう思う。
 そして振り向かれなくても、叶わなくても、もっと酷いことがあったとしてもそれでも人は人を好きになるし好きになったことを無かったことには出来ないし、好きな気持ちを失うことも出来ない。硬直化? そうなのかもしれないけれど、その気持ちを大事に胸に埋めて生きていくことはきっと美しくやるせない一つの物語だ。

 そしてこの本はそんなセンシティヴで絶妙なバランスの上で、何でも無いことのように立ち続けている。写真も雰囲気に合っている。全部モノクロだが、これでいいのだと思う。色がつくとイメージがどうしても興る。それはこの詩の上に漂うかすかな、本当にささやかな紗を見えなくしてしまう。
 この本と会えて嬉しかったです。本当に、ありがとう、ありがとう。


発行:空想少年はテキストデータの夢を見るか?
判型:文庫 100P
頒布価格:600円
サイト:空想少年はテキストデータの夢を見るか?

レビュワー:小泉哉女