契情騙記
布団を
夜陰の中から俥の影が浮かび上がってくるころ、町は一日の終わりを迎える。変わって外の街では一日が始まる。通りの左右に無数に待機している俥は、終わる町から始まる町への渡航便だ。
「もう起きているのかい」
くぐもった男の声が聞こえた。薄暗い室内を振り返ると、布団がもぞもぞと動いている。
「遅くまでは寝ていられませんから」
それだけ答えてまた外を向く。町の
煤が払われていくような
「なら僕も早起きになるさ。ぎりぎりまで一緒にいたいからね。別れの朝に布団の内と外で離ればなれでは寂しい」
背後から回された男の手に、自分の手をそっと機械的に重ねる。寂しいと言うのならばそれに応えなければならない。たといそれが心情を映さない偽りの態度であったとしても、そこに真情を見いだすのは相手の領域だ。
「ここはいつまで旧習に
花街での営業は昼過ぎから夜明けまでと定められている。ずっと昔に定められた規則を制度化しているそうだ。
「決めたのはお上ですから、わたしにはわかりかねます」
「これからの季節はお日様に急き立てられてしまっていけない」
「お上の言いつけをきっちり守っているから、踏みこまれるおそれもないのではありませんか」
「それもそうか、値段もきっちりしている」
「それもこちらが決めたことではありませんから」
「わかっているよ。おかげでぼったくられることもない」
ふふっと笑うのが背中越しに伝わってきた。
通りを俥が何台か走り抜けていく。混雑を厭う者、他の客に顔を見られて困る者は早々に町を出る。男もいよいよ別れが名残り惜しいと感じらしく、
「また近いうちに来るから」
「もう古物屋のお世話にはならないでくださいね」
昨夜の上気した顔を思い出す。親から継いだなけなしの掛け軸を金に換えてまで会いに来た。それほど君に会いたいという僕の意気をどうかわかってほしい。
気を引きたいばかりに、どれだけお金をかけているかと熱弁するのは無粋だ。自分がいくらするかは知っている。通う頻度と男の仕事を考慮すれば、世間で入れ揚げているといわれるほどの無理はしていないのはわかる。
「自由な金がなければまたそうするかもしれない」抱きしめる力が強まる。「嫁を売ってでも来たいぐらいなんだから」
「そうまで言ってくださるのは嬉しいですけれど――」
真か
「あなたも家庭がある身。けして無理はなさらないでください」
そこを踏まえた上で、相手の自尊心を適度にくすぐる。真に受けず、かといって
「そうまで言ってくれるかい。本当に、毎日でも来たいくらいなんだ」
感に堪えないといった様子で何度も口を寄せてきた。
いくら通ったところで一夜の買いきり。身請けの代金を積み立てているわけではない。限られた通いの中で客に良い夢を見てもらう。ここはそういう世界で、わたしはそういう生業に就いている。
「どうも、僕は君のことが――」
とっさに指を伸ばし、男の唇にぴたっと当てて黙らせる。男がぐっと唾とともに言葉を呑む音が聞こえた。わたしはなにも言わず、媚びるように笑ってごまかす。みなまで口にしていれば、男はそれを自分の本心だと勘違いしてしまうだろう。それは花街で見てもらう良い夢の域を越えてしまっている。
一夜の終わりの寂しさを紛らわせようとして、つと口にした言葉に勘違いしてしまう男は多い。何気ない自らの一言で、自分がふいっと騙されてしまうのだ。大抵は時間が経てば冷静になって、あのときは熱を込めすぎたなと自戒する。しかし自分に騙されたまま本気にしてしまう者も少なくはない。
良い夢といえども花街での一夜はしょせん
夢であり、嘘でも本当でもない。花街で遊ぶにはその範囲をよくよく承引することだ。もっとも世の中はそう心得た通人ばかりではないから、遊びからの逸脱を見張り、管理するのもわたしたちの勤めだ。夢を見させ、思わせぶりに振る舞いながらも逸脱させない。わたしたちにはその境を見極める目が求められている。
良い
わたしも辛うじてその手練を発揮できたようだ。
嘘はつかないけれど、本当のことも言わない。
花街に限らず、帝都の人間のほとんどがそうした型で占められている。そう言っていたのは
姐さんは
俥が
一日の終わりが遅くなりはじめた。
男はあれから一度も顔を見せていない。昼の街で生活するうちにふっと気持ちが冷めたのだろう。そういう人はよくいる。のめりこんで蕩尽するよりよほど健全だ。そう思っていたのだけれど。
「ではあなたに金を預けたりはしておらんのですな」
「……はい」
「虚偽の証言はためになりませんよ」
刑事が眠そうな目をこすりながら言う。証言の真偽はどっちでもよさげな態度だった。
数十分ほど前にわたしを訪ねてきた刑事は、男の行方を追っているという。勤め先の金を横領していたのが表沙汰になる寸前に、どこかに雲隠れしてしまったそうだ。それ以上の事情は捜査中だからの一点張りで教えてはくれない。
男がよく通っていた相手ということで、警察はわたしがかくまっているのではないかと見て足を運んだのだろう。もしもあの男が来ている最中に刑事が訪ねてきたのならば、「お上の言いつけを守って営業しているのに踏みこまれるんだね」などと言ったかもしれない。
もちろんわたしはなにも知らないので、
「先ほどからすべて正直に申してあげております」
「では寝物語にお金の話は一切しなかったと」
「親から継いだ掛け軸を処分して、それで通うお金を工面したとは申しておりました」
「そのために苦労しているというようなことは」
「嫁を売ってでも入れて通いたいと、そういったことは口にしていましたが……」
「それだけあなたに入れこんでいた」
「
「あなたはそう思っていたが、相手は本気だったかもしれない」
「まさか」
「もし会いにきたらすぐに連絡をください。楼主にも話をしておきますので」
「逃げているのにわざわざ会いに来るとも思えません」
「逃げる男ってのは、たいがい好きな女のところへ姿を現すもんです」
好きな女だなんて。思わず笑いだすと刑事は渋面を作った。疑いが増したかもしれない。だけど刑事があの男とわたしに
この町での好きは外の街での好きとは違う。ましてやわたしは男が嘘を本当と取り違えるのを防ぐために、その一言をも口に出させなかったのだ。色恋が生じる隙などなかったはずだ。おそらく。しかし……、
「会いに来る可能性はないとは言いきれません。楼主にあなたを身請けしたいと申し出ていたほどなんですから」
刑事の言葉が深く突き刺さって、なにも言い返せなくなってしまった。
一夜の
男はそんな話を一度もわたしにしなかった。
いや、もしかしたらあのときの彼はそれを告げようとしていたのではないだろうか。だとすれば、彼は情緒を了得した上で
しかしわたしはみなまで聞かずにそれを
ならばわたしが騙していたのは彼ではなくて――
客を乗せた俥が町を去る刑事とすれ違うのが見える。町は登楼の盛りを迎えようとしていた。
町の灯火点けくれば、廓のもとに人は集う。
夢と
サークル名:蒸奇都市倶楽部 (URL)
執筆者名:蒸奇都市倶楽部(シワ)一言アピール
広報が「みんな忙しいので」と忙しくない僕に頼む。
お題+蒸奇の世界設定は難しくない。しかしスチームパンク風が厳しい。なので僕はこれを無視して、広報に「首尾よくやりました」と伝えた。嘘じゃない。本当のことを言っていないだけ。まあ、そんなやり取りなかったんですけどね。
でも本当のことは書いています。