待ち時間に彼女を
駅舎だった。
相当古い木造で、しかし現に自分のような利用者がいるのでさびれた印象はあまりない。掃除が行き届いているのであろう。始発の前と終電の後には屹度管理している人間も出入りしているのであろうが、しかし基本的には、自分が居る間には鉄道会社の従事者を見掛けることはない。
無人駅だ。
空調の類いも完備されてはおらず、夏は扇子を、冬は特別に誂えたコートと使い捨ての懐炉を活用することによって、僕は待ち時間を凌いできた。一日を通してもこれ程乗客は来ないのではないかと思う二十ばかりの木製のベンチには、誰の趣味なのか分からない色褪せた座布団が敷いてある。元は紅色だったのだろう。木枠の窓は、今日では中々見掛けなくなった手延べ硝子だ。風景が微妙に歪んで見える。日を浴びた木々と、滅多に車の通らない舗装された道。
果たして今が出勤前なのか退勤後なのか、そんなことは忘れてしまった。つい先程迄怒って口角泡を飛ばす教頭の頭頂部の肌色を呆然と眺めていた気もするし、朝食の味噌汁と玉子の匂いが鼻をくすぐっていたような気もする。しかし思い出せないのはおかしい筈だ。駅で待ちぼうけを食らっているということは、これから学校に向かうべく最寄り駅に居るのか、それとも下宿に帰るのならば学校の近くに位置する駅に居るのか、それ位の判断はつきそうなものなのに。
首を傾げて空虚を眺める体勢をとって初めて、真向かいのベンチに人影のあることに気が付いた。
思わず驚きの声を上げそうになったところを堪える。紳士たるもの無闇に取り乱してはならない。まして淑女の前で。
自分の勤務する学校指定のセーラー服だ。赤いタイが一際目を惹く、伝統的な形のものだ。女生徒は僕の存在を意に介さない様子で、手許の文庫本を読み耽っているようだった。スカートの丈は校則に則った大人しいもので、女にしては短く切り揃えられた烏の濡れ羽の黒髪も、教師という立場から見れば好感の持てるものだった。しかし、その面立ちには見覚えがなかった。
あまり規模の大きくない、片田舎の学校なので知らない顔はないと思い込んでいたが、どうやら僕は余程俯いて授業を行っていて、生徒の顔すら碌に覚えていないようだった。教頭も僕に対して憤る訳だ。
いや、もしかすると彼女は転入してきたばかりなのかもしれない。それで僕のことも知らず、挨拶もせずに腰掛けているのだ、屹度。
なるべく自分に責任のない、妄想の答えを導き出したところで、不意に彼女が目を上げた。ものの見事に目が合ってしまった。その顔に笑みの気配はなく完全な真顔で、射抜くような視線を受けてしまった。
気まずい思いになる。僕がじろじろと見ていたので気に障ったのだろう。こちらにその気がなくとも、下手をすれば通報沙汰になるやもしれぬ時代だ。不用意なことをしてしまった。
後の祭りであろうが、一応目は伏せておく。と、その拍子に、手許にあったスケッチブックが音をたてて落下した。
いけない。大切な物なのに。
拾い上げて、付着した砂埃を手の甲で払う。
いや、自分はスケッチブックなど持っていただろうか。しかし、自分の手から落ちたのだから、自分の所持物である筈だ。
丁度描いている面が地面に当たったので、僅かながら汚れてしまった箇所がある。入念に指で紙面を払えば、殆ど元通りに見えた。彼女が駅舎のベンチで、目を伏せて文庫本を読み耽っている。それ以外には、絵と目の前の現実との差異は見受けられない。
現実と?
そうか、僕は右手に持った鉛筆でスケッチをしていたのだ。
違う点があるのならば、当然描き直さなければならない。
いや、何故そうしなければならないのだろう。そもそも何故、僕は駅舎で見知らぬ女生徒の様子を。
じっとこちらを見据えたままだった彼女が不意に立ち上がったので、僕は少なからず動揺した。これでは更に修正箇所が増えるではないか。いや、僕がこの絵を描かなければならない理由はない。
「理由?」
彼女が口を開いた。表情に合う硬質な声調だった。
「理由など要りますか」
そう言って確固たる足取りで歩み寄ってきたので僕は後ずさった。と言っても、腰掛けているので大して距離は空けられなかったのだが。
「貴方は筆を止めてはいけません。私が消えてしまうではありませんか」
「消える…?」
僕を見下ろす彼女の睫毛が長い。
「早く続きを」
思いの外冷たい手が、僕の鉛筆を持つ右手を握った。
「ちょ、ちょっと待ってくれ」
その時彼女の手はいつも冷たかったことを思い出した。思い出して、何と言葉を継ごうとしていたか忘れてしまった。
彼女の手は季節を問わず冷たくて、いつも僕は彼女の体調を案じたものだった。冬になると、他の生徒には露見しないよう密かに使い捨ての懐炉を渡していた。
それこそ毎日のように、貢ぎ物を献上するかのように。
そうだ。彼女は僕にとって。
「済まない。忘れていた」
「酷いですね」
彼女は真顔のまま言ったが、その口調は些か気心の知れた柔らかいものになっていた。そうだ、彼女は感情を滅多に顔に表さないので、僕は最初のうち苦労したものだった。しかし僕とて自分をさらけ出すことは得手としない質であったから、そういう意味では、僕たちは似通っていたのだろう。
だからこそ。
「しかし、分からなくなってしまったのだ。僕の筆では生計が立てられないことが十代で分かった。だから教師をしているのだ。こんな腕で、君を再現したところで意味はないのではないか」
「貴方がご自身で役割を定めたのではありませんか」
「役割…?」
「ええ。私が生きて、貴方を憎からず思っているという嘘をつく、役割」
「嘘」
嘘だとは認めたくない。
認めたくない思いがあまりに強い。彼女の喪失を認めたくなくて、危うく彼女の顔まで忘れてしまうところだった。
が、しかし。
彼女がいないことが本当である。彼女がいるのは絵の中でしかないのだと自分を納得させるために、そもそも描いていたのではなかっただろうか。
僕と彼女が初めて出会った駅舎で、転入してきた彼女が文庫本を読み耽っている場面を、自分なりに昇華しようとしたのではなかったのだろうか。
僕は考えを咀嚼して、飲み込むために目を閉じてから、なるべく笑顔に見えるよう努めた顔で彼女を見上げた。
「確かに君の言う通りだ、僕は君のために止まってはいけない。筆を止めてはいけない。そうだったのだ。ありがとう、」
謝意の後に名前を呼んだが、彼女の姿はどこにもなかった。僕には何故か、それが当たり前のことのように思えた。
僕以外誰もいない、駅舎だった。
電車が来るまではまだ時間がある筈だ。僕はスケッチブックに目を落として、また鉛筆を走らせ始めた。
彼女はクロッキー用紙の上で微笑んでいる。
サークル名:キンシチョウコ(URL)
執筆者名:谷水春声一言アピール
彼と彼女、或いは彼女と彼女にまつわる恋や想いや幻想や幽霊の話を書いています。