別れ
先ほどまで、祖母と言い争っていた。いくら言葉を尽くしても頑として折れない祖母に。その名残からか、物の怪への恐れは無い。もし物の怪であれば退治してみせよう。出遅れた
足を速めて側によると、女は小刻みに震えていた。すぐ側に人が来ているというのに気にする気配も無い。
「もし」
そっと女の肩に触れる。震えているが、温もりがある。物の怪ではない。これは人だ。肩を支えて起き上がらせると、女と目が合った。
思わず叫び声を上げそうになり、慌てて口元を袖で覆う。髪は乱れ、白粉は涙で流れ落ち、真っ赤な眼は枯れることのない泉となって涙を噴きだしている。泣き声を漏らすまいと袖をきつく噛みしめる女は、御台所の乳母だった。京の都からこの鎌倉に嫁ぐ御台所に従って来たこの乳母は、いつも落ち着いて取り乱した姿など見せたことはなかったはずだった。なぜこんな姿で打ち伏していたのか、なぜ御台所の側に控えていないのか。問いを言葉にしようにも舌先がいうことを聞かない。
祖母の言葉は本当なのだ。稲妻に打たれたように確信する。御台所が落飾するというのは。不意に震えが足もとから上ってきた。足が思うように動かず、へなへなとその場に座り込んだ。肩を抱いている御台所の乳母もろともに。
昨夜、叔父である将軍・実朝は八幡宮で殺害されたのだという。死に顔は見ていないけれど。将軍家の遺体に対面したいと何度懇願しても、祖母は許さなかった。引き下がるつもりはなく、長いこと言い争っていたのだが。そんなとき、祖母から御台所の
叔父はもう、この世にいない。叔父の命は奪われてしまった。それ故に御台所も俗世を捨てることになったのだ。赤子のときから大切に慈しんで養育してきた御台所の落飾を、乳母はその目で見ることができず飛び出してきたのだろう。
立ち上がろうと思うのだが、足にも腰にも力が入らない。ただ、荒い息をして御台所の乳母と並んで呆けたように崩れているしかなかった。
どれほどの時間が経っただろうか。向こうから近づいてくる衣擦れの音がした。御所の女房の誰かが通りかかったのだろうか。
「そこで何をしているのです。二人とも」
くすり、と笑みを含んだ声に思わず顔を上げる。隣で、御台所の乳母が息をのむ音がする。この声は、御台所。堪えきれず、獣のような嘆きの声を上げる乳母を尻目にどんどん近づいてくる。
「こんな時刻に風に当たっては冷えますよ、まだ雪はこんなに積もっているのですから。姫君」
すぐ側に来て膝をついた御台所の髪は、肩で切り揃えられていた。
「今度、海に行きましょう。もう少しして落ち着いたら」
御台所の居室に入り、冷えた体を温める白湯をすすっているとその言葉がぽつりと漏れた。嘆きでもなく、慰めでもなく、深く考えもせずに滑り出した言葉。
「そうね、そうしましょう」
頷いた御台所は、肩の辺りに手をやる。つい数刻前までは肩も背中も艶やかな黒髪が覆っていたというのに。御台所の黒髪を惜しむ言葉も、喉の奥に貼りついてしまいうまく出せない。童女と同じ尼削ぎ髪になり、小柄で若々しかった御台所が年若い少女に見える。
「昨夜からは長い一日でしたね。恨めしいほどに。姫君の寝所の支度をさせました。そろそろお休みなさい」
昨夜から一睡もしていないだろう御台所がなだめるように囁く。本当に長い一日だった。
昨日の朝は誰もがめでたく晴れがましい一日になると信じて疑いもしなかったというのに。建保七年正月を迎えて、ここ数日は毎日のように雪が降り新年の吉兆と皆思っていた。昨日は、右大臣に任じられた将軍・実朝が京の都からの勅使や御家人たちを引き連れて八幡宮に
寝所へ、と促す御台所を遮って言葉を押し出す。
「あの、叔父上にお会いしたいのです。御台所さま」
悲しげに、しかし断固として御台所は首を横に振る。叔父の首がない常ならぬ死であるゆえに。あのときの祖母と同じように。
「いいえ、姫君。もう御所のお顔を見ることは叶わないのです」
御台所の尼削ぎ髪が左右に揺れる。御台所は将軍家に対面したのだろうか。あまりにも透徹な瞳にそれ以上、叔父との対面を言い募ることは出来なかった。
「棺には、以前下げ渡された御髪を入れることにしました」
鶴ヶ丘へ向かう大臣拝賀の一行は、それは華やかで壮麗なものだったと聞く。鎌倉殿の威風を国中に明らかにするが如く。
八幡宮で神拝の儀式を終えた叔父が外に出た夜、異変が起こったのだと言う。異母兄の
これまでに起こったことのあれこれを思い巡らして悶々とする様子を見かねたのだろう。御台所の寝所で共に休むことになった。御台所の寝所は
「姫君、もう眠って?」
向こうから御台所の声がする。
「いいえ、とても」
「そうね、わたくしもよ」
とても寝られたものではないわね、御台所がため息と共につぶやく。
何を見た訳でないけれど、八幡宮の境内が自然と眼裏に浮かぶ。そこで繰り広げられたであろう惨劇が。将軍家から流れた血は、神域の地面に染みこんだのだろうか。一面に積もった雪を朱に染めたのか。振り払おうと、身を起こして御台所の声に耳を傾ける。
「わたくしね、父に言われましたの。「海を見て参れ」と。昔、この鎌倉に嫁ぐ際に」
その昔、帝から「歌枕を見て参れ」と陸奥守に任じられた
「近江の湖よりも遙かに大きくて広い海を見たわ。波がいつも穏やかとは限らなかったけれど」
自らの心の内を覗きながら話す御台所の声を聞いていると、恐ろしい光景はだんだんと薄らいでいった。
「御所の家集にも、海を詠んだ歌が沢山あったわね。姫君は、どの歌が思い浮かぶかしら」
将軍家の顔が、穏やかに晴れ晴れと笑う叔父の姿が唐突に目に浮かんだ。それなのに叔父はもうこの世にないのだという。そして御台所は、髪を下ろして尼となってしまった。
じわり、と涙がこみ上げて夜着の袖を瞼に押し当てる。叔父が殺害されたと邸に一報があったのは深夜のことで。朝を待って御所に向かうよう諭す乳母を振り切って、御所に駆けだしたのだった。慌てて追う供人とともに。一夜が明けても叔父の死を実感できず、涙を流す暇もなかった。
「もう、寝てしまったかしら?
「いいえ、まだ起きています。御台所さま」
ぬぐってもぬぐってもあふれる涙をそのままに、叔父の和歌に思いをはせる。涙が声に出たのを御台所に気づかれてしまっただろうか。
「すまの浦に
「名所の、恋の歌だったわね。本当に、もう……」
この歌のように、ほのかにさえも叔父の姿を見ることは出来ない。遺体に対面することも許されず、思い出の中の叔父を偲ぶよりも他にない。御台所の声にも、涙が混じる。
「
「いはずとも思ふ心の……」
京の都から鎌倉に下向した御台所の十数年の日々を思う。両親、兄弟と別れての東下り。十を少し過ぎたばかりの御台所は、都を懐かしんで涙したこともあったはずだ。そんな中での叔父の存在は御台所にとって、ただ一つの心強いものだったのだろう。
心中を察していたたまれなくなり几帳をかき分けて
「冷たい手」
御台所の両手に包まれて、そっと目を閉じる。御台所の薫き物に心安らぐ思いがする。
「鞠子姫。わたくしは、都に帰るつもりよ。御所がお隠れになって、もう、わたくしの鎌倉での役目は終わるの……今来ている、
将軍家の葬礼が終わり、次なる鎌倉殿が決まったら。鎌倉殿の御台所としての役割をすべて終えたら、と。
ああ、叔父との別れは御台所との別れでもあったのか。驚きは一瞬のことで、御台所の言葉が静かに染みこんでいく。
「まだ二位さま……義母上にはお話ししていないけれど、いずれね」
声を潜めて語られる決意に、ただ頷くより術がない。御台所の掌がゆっくりと髪を撫でる。やさしい手の感触に寂しさがひたひたと迫ってくるが、引き留める言葉は口から出なかった。
「もちろん、都に帰る前に行きましょうね、海に。波の音に抱かれて共に由比の浜を歩きましょう。どこまでも」
波の音が耳の奥で聞こえる。浜辺に立ち尽くしているかのように。返事のかわりに、御台所の手をぐっと握り返した。
サークル名:庭鳥草紙(URL)
執筆者名:庭鳥一言アピール
北海道から九州まで、すあま食べ比べ本と歴史創作小説を持って巡っています。なんて素敵にジャパネスクの二次創作小説もあります。
今回のアンソロ投稿作品は、第6回のアンソロ作品「対面」から三年後の話です。