20,000 miles away
人間たちはみんな、海にかえっていった。
かつて、地上には多くの種類の生物が生息していたという。
人間もそのひとつだった。
あるとき、大波が地上のあらゆる生物を海にさらっていったという。
人間もそのひとつだった。
§
僕らは、海に沿った道を北に歩いている。
地上には、人間が残していったものが沢山ある。今歩いている道、向こうに見える堤防、消波ブロック、桟橋、コンクリートの建物、発電のための風車や水車。色々。それぞれに役割を持っていて、けれども今はそれを失い、ゆっくりと老いていくばかりだった。
「ストップ」
僕は、先を歩く相棒に声をかける。
相棒は立ち止まり、振り返る。
「記録するのか?」
「うん」
僕らは、ちょっと珍しい形の建物を見つけた。
「こいつに、何か大事な意味があるって?」
「たぶん」
水族館、と書かれた看板がある。僕はデータベースを参照する。水族館。水生生物を飼育、研究、展示する施設。その機能上、多くは海の近くに造られた。
相棒は看板を写し、その周辺の風景を写し、さてどうする、とこちらを見る。
「中に入ろう」
「崩れそうだぞ」
「危ないと思ったら、引き返すよ」
「あんたのお守りをする俺の身にもなってくれ」
悪態をつきながら、さっさと中に踏み込んでいく。僕は慌てて追いかける。ひと言余計なくせに、行動は早い。
建物の中は、壁も床もひび割れていた。気を付けて歩かないと転びそうだった。
『まずは、太平洋をイメージした大水槽からご覧ください』
「え」
驚いて声がした方を見ると、天井に小さなスピーカーがある。水槽の前を通ると、自動で音声が流れるらしい。若い女性の、やや低めで落ち着いた声が説明する。イワシ、サメの仲間、エイ。食卓に上るもの、そうでないもの。毒のある魚、群れで泳ぐ魚、長い旅をする魚。声は平易な言葉で説明する。
相棒が暗い水槽を照らし、同時に映像を記録している。魚はいない。緑色に濁った水が溜まっているだけだった。
僕らは順路に沿って水槽を巡る。近い海から遠い海へと、音声は順番に説明する。日本海、ベーリング海峡、地中海。動かないエスカレーターを上がって、水槽は二階に続く。パナマ湾、モンタレー湾、グレート・バリア・リーフの珊瑚礁。
「なあ」
「何?」
「あれ、珊瑚?」
いつも黙々と記録するだけの相棒が、珍しく問いかけてきた。
分厚いガラスの向こうに水はなかった。どこかにひびが入り、流れ出てしまったのだろう。干からびた石灰質の残骸は、おかしな形をした動物の死骸にも見えた。角のようなものがあり、内臓のような形があり、手や牙のように見えるものもあった。そしてどれも、もうとっくに死んでいた。行く先を失い、寄り添ったまま骨になったように見えた。
「ねえ、あのさ」
僕は、記録する相棒の背中に話しかける。
「昔、こんな物語を読んだ気がする」
ふと、何かを思い出した気がして、僕はそこから目を逸らせなくなった。
幾つかの言葉をキーにして、データベースを検索する。
「こんなって」
相棒が、僕の言葉を復唱する。
「どんな」
今日は饒舌だな、と思う。これでも、饒舌な方。相棒が自分から話しかけてくることはほとんどない。僕の言葉に対して何かを問うこともない。僕が言ったとおりのことをやり、僕が言った言葉を記録する。彼はそういう装置だ。思考するのは僕の役目で、記録するのが彼の役目。その二つの機能は分離しておかないといけない。記憶しながら思考する、あるいはその逆をやろうとすると、データ処理に不整合が生じる。
なのに、どうも今日はそういう日らしい。僕らは少し混乱している。まるで感情のように。
「お墓みたいじゃない、ここ」
「墓ってのは、あれか、死んだ生き物を埋めて、微生物が分解するまで放っておくところ」
「そう見えない?」
「何かに見立てるのはあんたの役目」
類似性を探し、繋ぎ合せ、ああ、お墓のようだと思ったのだ。
「昔読んだ物語の中に、珊瑚の墓地が出てきたんだよ」
「珊瑚って、本当は海の底だろ」
「そう。海の底にお墓があるんだ。そういう物語だった」
それは古い冒険小説で、海底を潜水艦で旅する物語だった。仲間の一人が命を落とし、その埋葬のために立ち寄ったのが、海の底に広がる珊瑚の庭だった。その美しい場所が、彼らの墓地だったのだ。
今、僕の目の前にある水槽は、ぜんぜん美しくない。
でも、美しかったのだろうと想像することはできる。類似するデータを繋ぎ合せ、関連する情報から目の前の光景の過去を復元する。珊瑚の森を、光る魚が行き来する。
でもそれは墓地ではない。ただ美しい光景に過ぎない。
じゃあ、なんだろうな。
と、思考するのが僕の仕事なのだけれど、分からないなあ、と思う。材料が足りていないのか、繋がるべき回路がまだ構築されていないのか、ともかく分からない。美しかったものに悲しみはなく、朽ちて美しさを失った後に悲しい影が残る。
ただ、物語の中で死んだ誰かをこの幻の中に葬ることは、ある種の悲しみと呼んでもいいのかもしれない。
「なあ、それって、大雑把にどんな話なんだ?」
「潜水艦で旅をする話だよ。だいたい六万マイルくらい、あっちこっち」
僕らは珊瑚の水槽を離れ、さらに奥に進む。
六万マイルも旅をするのに、どうしてタイトルが二万マイルなのかは分からない。ややこしい事情があるのだろうけれど、今は調べる気になれない。
「それだけかよ」
「それだけ」
「つまんねえな。潜水艦なんて、外もろくに見えねえんじゃん」
僕らはもう、音声ガイドなんて聞いていなかった。どうせ相棒がぜんぶ記録しているのだ。あとでゆっくり確認すればいい。
僕らの役割は、人間の痕跡を知り、分析し、そこに意味を見出すことだった。何のために、と言われても困る。人間だって、同じことをしていた。化石を掘り返し、遺伝子を分析し、自らの遠い過去の姿を求めた。僕らがやっていることと似ている。
「あのね」
僕は、少し前を歩く相棒の背中に、そっと話しかける。
「潜水艦なんて、なかったんだよ」
「あ?」
相棒は立ち止まり、こちらを振り返る。
「その物語が書かれたとき、潜水艦はなかったんだ。誰も海の中を旅したことなんてなかった。空想の世界だったんだ」
「へえ」
相棒は、少し困ったように笑って、また歩き出す。僕がよく分からないことを言いだすと、彼はこんな顔で、そっと聞いてくれる。
かつて空想を、現実が追いかけた。人間が海の中を自由に行き来する時代が、物語のあとに訪れたのだ。
その遠い日の幻を、今は僕らが追いかけている。
§
エスカレーターをもう一つ上がると、屋上に出た。
ペンギンが飼われていたらしい。極地の風景を模したような痕跡がある。本来のペンギンの生息域ではないから、色々な工夫をしていたのだろう。今は一羽もいない。
海が見えた。
海岸には座礁した船が積み重なり、片づける者はもちろんいない。船以外にも、色々なものが流れ着いている。自動車、ベッド、自転車や発電機、布きれや木切れ、そして、骨。
波は穏やかだ。少し曇って薄暗い。気温は日に日に下がり、じきに冬と呼ばれる季節が来る。
この世界は、珊瑚の庭だ。墓地だ。不意にそんなことを思った。
「僕は」
と、僕は言う。
「何」
相棒がこちらを見る。
「こういうのが欲しい」
「こういうのって、どんなだよ」
相棒は問うた。その声が、やけに優しく聞こえた。
「絶対に行けない場所」
「俺らだって、遠い海には行けないぞ」
「うん」
行く必要もない。だから、遠い海のことを考えもしない。行かなければならない理由があるなら、きっと考えるだろう。どんな場所だろう、とか。どうやって行こう、とか。でも、そんなことを考える理由はないのだ。
人間だって、別に遠い海を目指す必要なんてなかった。ここを訪れた人々の多くにとって、そんな必要はなかった。
「みんな、ただ、焦がれただけだよ」
言ってから、ようやく僕は、僕を理解する。
僕だってそういうものが欲しかった。届かないものに焦がれ、手を伸ばし、やはり届かないのだと打ちのめされて、その想いを水槽の中に見つけたかった。空想の六万マイルを旅するように。
下で見た沢山の暗い水槽の中に、かつては海の断片が描き出されていた。みんなそれを見て、遠い海のことを考えた。そういう場所だったのだろう。ただ綺麗だとため息をついたのか、行ってみたいと思ったのか、知りたいとか、手に入れたいとか、そのどれもが人間の感情としてパターン化され記録されていて、記録として確認することはできる。けれど、僕には決して手に入らないものだった。僕には、そんなものを生み出す機能はない。
ないのだ。
ここはその焦がれた想いの墓標なのか、と。
凍える海の向こう、色褪せていく水平線に向かって、僕は意味もなく叫んだ。
サークル名:エウロパの海(URL)
執筆者名:佐々木海月一言アピール
「土には雨を、夜には言葉を。その一瞬に呼吸するものたちへ。」「すべては、137億年の中の一瞬。」をテーマに、静かで孤独なSF小説を紡いでいます。