汀にて
海の中は普段とはまったくちがう様相で渦巻いていた。
物心付く前から海で泳いでいた
もがいても、いったいどこに海面があるのかさえ分からない。海水で目がしみて、すぐに息が苦しくなった。
このままでは溺れ死んでしまう。
辰三は十になった。死、というものは理解している。暮らしぶりはさほど豊かではなく、腹が減っていることも多かったが、それでも死ぬ方がましだと思ったことはなかった。
海で死ぬと人魚に生まれ変わるという。だけど、こんな暗くて苦しい場所で生きていくなんて嫌だ。明るい太陽の下に戻りたい。
苦しい。息ができないことがこれほど苦しくて恐ろしいなんて、思いもしなかった。誰か助けて。誰でもいい。すぐに、すぐに、いますぐに。海の上に、息が吸えるところに連れて行って。
辰三は何もない海中に手を伸ばし、海面を求めて腕を振り回した。
うしろから抱きかかえられたのは、その時だった。
●
目の前に広がるのは、陸に挟まれた内海だ。両側の陸地には峻険な山が連なっていて、海を渡る風は穏やかなことが多く、滅多に荒れない。今日もたくさんの舟が漁に出ていた。
辰三は、そんな舟から隠れるように岩場の陰にいた。打ち寄せる波が爪先を洗う。
「またここで怠けてる」
軽やかな声と笑顔が、波間から現れた。
「
「いつもそう言って、怠けているじゃない」
波間から現れた彼女は、辰三の足元近くの岩に両腕を乗せた。揺れる水面の下に、いるかのような体が見える。
美汐は人魚だ。五年前、高波に飲まれた辰三を助けてくれたのが彼女だった。
それ以来、人に興味があるという美汐と、こうして会っている。
「ほら。怠けてるから、あの子が呼びに来た」
美汐が岩に両腕をついて、遠くを見るため体を持ち上げる。美汐の視線を追いかけると、岩場から続く浜に、見知った人影を見つけた。
「またね」
「もう帰るのか」
「あの子、わたしを嫌っているでしょう」
美汐は浜を一瞥して、
「じゃあね」
今度は引き留める間もなく、海の中へ消えてしまった。今日こそ、言おうと思っていたのに。
「辰三、またこんなところで!」
名残惜しさは甲高い怒声で吹き飛んだ。岩場の高いところから辰三を見下ろす
「もうすぐ父さんたちが漁から帰ってくるのに」
「ちょっと休んでただけだ。そんなに怒るなよ」
立ち上がると、亜夜の溜息が降ってきた。
「また、あの人魚に会ってたんでしょう」
見ると、亜夜は怖い顔をしている。
「海に引きずり込まれるよ」
「五年前に俺を助けてくれた人だ。そんなことをするわけない」
「人魚の考えてることなんてわからないよ。父さんや母さんも心配してる――わたしも。だから、もう、会わないでよ」
亜夜の表情も声も、急に弱々しい。目をつり上げて辰三を呼びに来るくせに、すぐにこんな顔をする。辰三が、美汐を見送る時のような顔を。
だから、いつも美汐に言い出せないのだ。
●
五年前、辰三が家族と共に高波にさらわれた時、誰もが諦めた。けれど、辰三だけが岩場で、ほとんど無傷で見つかった。
この海には人魚がいる。人魚の影を見たという話は時折聞く。けれど、人間を助けたという話は、辰三の他に聞いたことがない。
家族を亡くした辰三は、亜夜の両親が引き取った。
父親同士の仲が良く、もとから辰三とは兄妹のようなものだった。同じ家で暮らすようになってもそれは変わらなかったけれど、最近は、少し違う。
辰三も亜夜も十五になった。村の中には、この歳で夫婦になっている者もいる。亜夜は辰三とそうなるのだろうし、両親もそれが辰三にとって一番いいと思っている。
辰三と夫婦になりたがる娘は、亜夜の他にはいない。仕事を怠けて岩場に潜むような男は、娘たちの眼中にないのだ。
辰三は、すぐに岩場へ行ってしまう。命を助けてもらった代わりに、辰三は人魚に心を奪われたのだ。今日も、姿が見えないから探したら案の定だった。
人魚は辰三の命を助けたが、住む世界さえ違う異形の生き物だ。
亜夜の姿を見ると人魚はすぐに海中へ消えてしまうから、間近で見たことはない。けれど、山で猟をする亜夜は目がいい。長い真っ黒な髪で、亜夜たちより年上の、美しい顔をした女だと知っている。
あの美しい人魚は、いつかきっと、辰三を海の中へ連れて行ってしまう。辰三に興味がないのに、何年も、岩場にやってくるはずがない。
濃い灰色の雲が垂れ込めていた。雨はないが風はいつもより強く、海は荒れ始めていた。嵐が近づいていて、漁師たちはそれに備え忙しそうにしていた。
その中に辰三の姿が見当たらない。
それに気づいた亜夜は、家に置いていた弓矢を取りに行ってから、岩場へ向かった。
岩に寄せる波はいつもより大きく、音を立てて白く砕けている。嵐はまだ遠いようだけど、あんな状況の岩場にいるのは、どう考えても危険だ。海辺で育った辰三がそれをわかっていないはずがない。
けれど、やはり、辰三は岩場にいた。波にもまれながら、岩にしがみついてまで。
あれでは、いつまたさらわれるかわからない。
辰三を呼ぼうとして、砕ける波の間に、真っ黒な頭を見つけた。辰三に向かって何か言っているようだけど、波と風で、亜夜にはよく聞こえない。
亜夜は矢をつがえ、弓を構えた。
こんな天気なのに、辰三があそこへ行ってしまうのは、あの人魚のせいだ。辰三の心を海の中へ引きずり込んで、次はその体まで引きずり込もうとしている。
波間から顔を覗かせた人魚が、亜夜を見た。髪と同じくらい真っ黒で大きな目と、亜夜の目が合う。
人魚の女は、食い入るように亜夜を見ていた。弓矢を持っているからだろうか。それにしては、あまり驚いていないようにも見える。
そんなふうに見つめて辰三を虜にしたのか。
白い胸元に狙いを付けて、亜夜は矢を放った。
●
昼間は海面に近づいてはいけない、と何度も繰り返し教えられる。人間は危険なのだから、と。
魚や貝を採るのは人魚も同じだ。違うのは下半身の作りと、生きる場所くらい。
他に何が違うのだろう。美汐は昔から興味があった。危険といわれる理由も、美汐にはよくわからない。人間は人魚を採らないし、海の中に攻めいってくることもない。
人間が海の中に来たとしても、人魚にはかなわない。
昔、何人かの人間が高波にさらわれ、海に落ちた。美汐が助けられたのはそのうち一人の子供だけで、後は皆、沈んでしまった。
それほど海に弱い人間の何が危険なのだろう。
助けた子供のその後が気になり、岩場から観察していたら、その子――辰三と再会した。
辰三と話をしていくうち、人間もまた、人魚をよい存在と思っていないことを知った。
人魚と人間の間の交流はほとんどないから、仕方がないのかもしれない。
「でも、わたしたちがきっかけとなって交流が生まれるかも」
岩に乗せた両腕に顎を乗せ、美汐は辰三を見上げた。美汐の両手で簡単に抱えられた子供は、いつの間にか、ずいぶんと大きくなっていた。
「俺は、美汐と話せればいいよ」
辰三は乗り気ではない。最近、特にそうだ。
昔は美汐と話すのを純粋に楽しみに待っていたのに、今は違う。妙に真剣で温度の高い目で、美汐を見るのだ。
人間が人魚を慕うなど考えもしなかった、とは思わない。人魚と人間の違いは些細なものだ。お互いを恐れているけれど、話をすれば、恐れることはないとわかる。
だから、あの子も、話をすれば、きっと美汐が怖い存在ではないとわかってくれる。
辰三を呼びに来る、彼の幼なじみの亜夜。長い髪を頭の後ろできつく一つに結んで、二本の足で砂浜に跡を付けながら、岩場に向かってくる。つり上がった目は辰三と、岩陰にいる美汐を見ている。
亜夜が美汐をどう思っているのか、あの目を見ればわかる。だけどあの目が、辰三では決して望むべくもないあの目が、辰三のような目に変わったならば――。
美汐と話せればいい、という辰三の気持ちが今ならわかる。亜夜と話したい。亜夜の声を、波の音にかき消されない距離で聞きたい。
だから、時間をかけて、美汐は怖くない存在だとわかってもらうしかない。
「じゃあ、またね」
亜夜の姿が見えた。本当はもっと見ていたいけど、亜夜が嫌がるのは知っている。
「美汐。俺を――」
なのに、辰三はいつも引き留めようとする。
「辰三!」
でもおかげで、亜夜の声が聞こえた。美汐は辰三に軽く手を振り海へ戻る。辰三が何を言おうとしたのか、今度聞けばいいだろう。
けれどその前に、嵐の気配がやって来た。久しぶりに大きな嵐となりそうだ。
まさかこんな時に、辰三は来ていないだろう。見に行ったのは念のためだった。
「辰三、何をしているの! すぐ陸へ戻って」
波が打ち付ける岩に、辰三はへばりついていた。
「俺は人魚になりたい。人魚になれば、美汐とずっと一緒にいられる。五年前、そうしていればよかった」
「ばかなこと言わないで。あの子が――亜夜が、ほら」
こんな天気でも、亜夜がこの岩場に向かってくる。しかし手には、いつもにはない物を持っていた。
あれは何だろう。それに、何故か亜夜も、辰三のように思い詰めた目をしている。
遠いけれど、亜夜と目が合った。いつもはすぐにそらしてしまうのに、今はまっすぐに美汐を見ている。
あの亜夜が、美汐から目をそらさずに。
わかってくれたのか。それとも、話をしてくれる気になったのか。
歓喜が滲んだ瞬間、胸元に重い衝撃を感じた。
押し寄せる波が、美汐を海に引き戻す。
何が起きたのかよく分からない。胸に細い棒が生え、そのせいでひどく痛くて、血が流れ出ていた。
辰三が、もがきながら美汐に手を伸ばすが、荒々しい海流に阻まれた。
彼はきっと知らないだろう。
海で死んだ人間は、確かに、人魚に生まれ変わる。そして――。
流れるそばから海に溶けていく血が、泡に変わっていく。
海で死んだ人魚は泡となるのだ。
それを教えようにも辰三の姿はどこにもなく、呟きも泡となった。
サークル名:夢想叙事(URL)
執筆者名:永坂暖日一言アピール
ファンタジーとか現代ものとかSFとか、色々と書いています。雰囲気も色々。頒布物は短編集がメインですが、異世界お墓参りファンタジー長編もあります。『汀にて』の雰囲気が気に入った方にお勧めの短編集は、テキレボ初頒布となる『永坂残酷物語』です。