暗き波間から見上げるひかり

――ああ、月が出ているな。
 夜空を穿つ青白い真円と散りばめられた星々。零れた独白はその美しさへの感嘆などではない。月の高さと星の位置から、意識を失っていた時間が僅かであったこと、元いた場所から流されていることを把握する、ただの確認作業だ。
 ざぷ、と水中に沈んでいた腕を上げる。重い。水を吸った衣服が鈍重に腕に絡み、思うように動かない。いや、体の重さは魔力を使い切った上、望まぬ夜間遊泳で体力を失ったせいだろう。今は岩場を枕に横たわり、肩から下はゆらゆらと波に遊ばれながら浮かんでいる状態だ。頬を撫でる温い潮風は不快だったが、初夏という季節柄、水温がそこまで低くないのは幸いだ。
「……殿下はご無事だろうか」
 辺り一面、見渡す限りの漆黒の海。
 ざざ……と寄せては返す波音の中、青年――カフュエイは、ここにはいない主の無事を願った。

                * * *

 カフュエイの主は、一国の王子であり『勇者』と呼ばれる存在だ。
 魔を滅するのが勇者の任務である以上、魔族や魔物と敵対するのは当然のこと。しかし難儀なことに、勇者に守られている人間達からも命を狙われることが多々ある。目先の利益ややむを得ぬ事情など、理由は千差万別のようだが、勇者という防波堤がなくなればいずれ己の身がどうなるか。それすら考え及ばないのなら、ずいぶんと愚かな話だ。

 もっとも、魔族でありながら勇者に仕えている自分も、魔の側から見れば同様の愚か者なのかもしれない。

 その勇者とカフュエイを乗せた客船が襲われたのは夜更けの出来事だった。大きな衝撃音と揺れ、非常事態を知らせる警鐘が船内を駆け巡る。
「敵襲か!?」
 と、主たる勇者の少年が何故か目を輝かせながら尋ねてきたので、それには答えず船室へと放り込み「安全が確保されるまで絶対に部屋の外に出ないように」と念押しして扉を閉ざした。そうしている間にも船への衝撃は続き、次第に船体が傾きつつある。
 敵の標的は間違いなく勇者だろう。そのために大型客船ごと沈めようという、単純かつ大掛かりな作戦だ。しかし倫理はさておき、無関係の人間を巻き込むのは策としては悪くない。こちらは救助と保護を優先しながら、襲撃者への対応を強いられることになる。
 だからカフュエイもまた、単純かつ大掛かりな対策を取った。それならば『船を沈めなければいい』。
 船首に立つと、赤く長い髪と漆黒のマントが夜風に大きくはためいた。愛用の杖だけを伴に、夜の空と海の間へ身を躍らせ、全身に炎を張り巡らせるように魔力を解き放つ。それに応え、杖に灯る炎が一際燃え上がった。
 船底が傷つき傾ぐ船が淡い光を帯びた魔力に包まれる。すると船は傾きを正しつつ海から浮かび上がり、滝のような海水が船体を伝い落ちていく。そしてそのまま徐々に加速をつけ、大型客船は海上を『飛行』し始めていた。目的地は明日の昼に到着する予定だった港へ。まずこれで主と乗客の安全は守られたはずだ。
 対象の質量と距離を考えれば、これだけで魔力を使い切ってもおかしくない。しかしカフュエイにはまだやるべきことがあった。
 船への襲撃者は水棲の魔物とそれを操る魔族が複数。残された力でそれらを打ち倒し、最後の一人が海底へ消えると同時に意識を失ったのだろう。自身にかけていた『飛行魔法』が解除されて落水し、潮流に流されて今に至る、というわけだ。
 
 遠く、船にかけた魔法から、その役目を終えた精霊達が解き放たれる気配を察知する。首尾よく港へと辿り着いたのだろう。一刻も早くそちらへ向かいたいが、その前に、海に落ちた際に手放した杖を回収しなければ。どちらにしてもこの場に長居をする気はない……のだが。
「……っ、くそ。もうしばらくは無理か」
 濡れた岩肌は滑り、体温を失った指では体をうまく支えられない。気ばかりが逸る。
 夜空は明るいのに、この身を捕えたままの海は深く、光を拒む。あまり暗い場所は好きではないのだ。このまま闇そのもののような海に飲みこまれる錯覚を覚える。規則的に繰り返す波音はかえって静寂を際立たせていた。
 暗く身動きの取れない場所、など。昔、遥か昔の記憶が蘇るようで不愉快だ。そしてそれを恐れている事実もまた癪だった。
 カフュエイは諦めたように力を抜いた。たゆたう闇に身を任せ、瞳を閉じる。
 殿下は無事なのだ。ならばそれでいい。
 それ以外など――他の命も、裏切り捨てたかつての同朋も、今こうして無様に漂っている自分さえも、全て些細な事だ。しばらく休めば回復する。あと少しだけ、この暗闇に耐えればいいだけだ。
 そう心を決めた矢先、

 瞼を閉じたままでもわかる。月よりもなお眩い光が海上を照らした。

 熱を伴う橙光からは強い魔力の波動を感じる。そしてそれはカフュエイの良く知るものだ。
――まさか、そんな。
 理性が拒絶する事実を、感覚が先に理解する。同時にざあっと全身から血の気が引いた。動かないはずの体を無理やり起こし、僅か回復した魔力で体を浮かせると、カフュエイは予測が間違いであることを祈りながら光の真下へと向かう。

「あ、いたいた! おーいカフュエイ、無事だったか?」

 夜の海にそぐわない朗らかな声が名前を呼んだ。忙しなく揺れる小舟の上でぶんぶんとこちらに手を振っている。
「向こうに杖だけが浮かんでいたから驚いたぞ。杖の炎がお前の居る方角を教えてくれたから、近くまでは来られたが……こう視界が悪いと探すのも大変でな」
 先程落とした杖が、確かにその人物の手に握られていた。魔力の炎は海水に浸かっても消えることはないが……いや、今はそんなことはどうでもいい。
 小柄な人影は、空いているほうの手で自慢げにぴっと上空の光球を指差す。
「こうして目印を打ち上げておけば、お前から探してくれると思ったんだ! こういうの漁火というのだろう? 釣果が上々で嬉しいな」
 何故当たり前のように人を魚扱いしているのか。この距離ならば顔も完全に視認できる。小舟に立つ少年の姿は間違いなくカフュエイの主――ノルヴァリュウス王子その人だった。
 驚愕と困惑で集中が切れたのか、派手な水音を立てカフュエイは再び海へと落ちた。
「ええ!? どうした、大丈夫か? 怪我はしていないよな?」
「で、ン、ゲホッ! なっ、何でアンタがここにいるんですか、殿下!」
 目の前の相手が急に落下した上、鬼気迫る様相で問い詰められて驚いたのだろう。空の橙光がふっと消える。小舟から身を乗り出すように屈むと、ノルヴァリュウスはようやく説明、いや弁明を始めた。
「お前に『絶対に船室から出ないように』と言われただろう? だから私は、その直後に部屋から出て船内の探索を」
「『だから』と前後の辻褄が合っていませんよね!?」
「まあそれはさておき。船が傾いて乗客が恐慌状態に陥りつつあったから、必ず安全な場所に送り届けることを約束して、落ち着くように呼びかけたんだ」
 こういう状況において『勇者』の名は強い。混乱を鎮めるのに彼以上の適任はいなかっただろう……が。
「『安全が確保されてから動け』という言いつけは聞こえていませんでしたか?」
「まあそれもさておき。で、後のことは爺やと船長に任せて、私は救命艇で海に降りたのだが」
「待て、今何かおかしな発言が聞こえたような」
「そうしたら船が空を飛んでどこかへ行ってしまうじゃないか! 何あれ楽しそう、私も乗りたかった!」
「いや乗ってりゃ良かったんですよ! 何わざわざ降りてるんだ!?」
 思わず敬語も忘れ、語気が荒くなる。その剣幕に押されてか、
「う、確かに軽率な行動だったが、ちゃんとお前と合流できたし別にいいじゃないか。船での自分の仕事はちゃんと済ませてきたのだから」
 ノルヴァリュウスは拗ねたように顔を背ける。あくまで自分は悪くないという姿勢だ。
 その言い分に、思わずカフュエイは小舟の縁を掴んで項垂れた。大きなため息が漏れる。
 船に居るよう指示したのはもちろん危険から遠ざけるためではあったが、船外の敵はカフュエイが、船内の混乱はノルヴァリュウスに任せる、という役割分担の意味合いも含んでいた。それは事実だ。
 だが彼は勘違いしている。
 カフュエイが怒る理由を『自分の仕事を放棄してここにいるから』だと。だから、すべきことはしたと主張しているのだろう。
 そうではない――そういうことではないのだ。
 話を聞く限り、敵との戦闘中も、カフュエイが意識を失っている間も、この頼りない小さな船で一人海上にいたということになる。それを考えると心臓が冷たくなった。
 安全な場所に居ると、そう思っていたのに。

「殿下、答えてください……どうして船を降りたのですか?」
 低く抑えた声色の問いに、ようやく本気で怒られていることを察したのか、ノルヴァリュウスはしゅんと肩を落とす。その姿を見据えながら、カフュエイは慎重に言葉を重ねる。
「自分も戦いたかったからですか? それともオレが負けるとでも?」
「……お前、暗いところ苦手だろう」
 質問には答えずに、ぽつりと零す。
「船室に残されて、ふと窓の外を見たら満月のはずなのに海は真っ暗で……ここにお前を一人で置いていくのは嫌だな、と思った」
 思いもよらぬ主の言葉に返答に窮していると、対照的にノルヴァリュウスは意を決したのだろう。敢然とした口調で畳み掛ける。
「そうしたら客船に魔法がかけられただろう!? あんな大魔法の後に戦ったら、魔力切れを起こして倒れるに決まっているじゃないか!」

「私はお前の主なのだから、私がお前を迎えに行くのは当たり前だろう!」

 真っ直ぐな言葉と瞳に心中を見透かされないよう、俯いたのはカフュエイのほうだった。目の前で暗い波間がゆらゆらと漂う。
「……そんな理由で残ったのですか」
「そんな理由だ。悪いか」
「悪いに、決まっているでしょう」
 カフュエイの主は、一国の王子であり『勇者』と呼ばれる存在だ。
 一人の従者を案じたために危険に身をさらすような選択を、肯定してはいけない。
 例え、暗闇を恐れたのが事実だとしても。その選択を――嬉しく感じたとしてもだ。
「……そろそろ船に上がったらどうだ? 勇者付きの魔法士が海に落ちて風邪など、格好がつかないだろう?」
 ばつが悪そうにかけられた声と、差し伸べられた手に顔を上げる。

 夜明けはまだ遠いはずなのに、それはひどく眩しく映った。


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サークル名:キノコ本舗。(URL
執筆者名:○まる

一言アピール
ファンタジーの世界観を中心に小説・イラストを創作しています。
今回のアンソロの主従コンビは、テキレボ7の新刊でも登場予定です。
「戦闘狂勇者と過保護魔族の騒乱ファンタジー」をテーマに、ドタバタ元気に暴れまわるお話になればいいなと。
楽しんでいただけたら嬉しいです。

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