東風吹かば

 とある所に、名も知られぬ小さな島がある。
 季節が巡る度、名を知られぬ花々が咲き誇る、島がある。
 なぜ、その島に花々が咲くのか、今となっては知る者も語る者もいない。

 その日、藤井幸子が帰宅したのは、遅い春の日が落ちた後であった。
 灯りの少ない夜道を歩くのは、些かの不安があったが、下町一帯への大規模な空襲の後とあっては、仕方の無い事だろう。
 それよりも、学徒動員でやらされる作業の方が、ずっと重荷に感じられていた。
 作業そのものは被服ではあるが、やりなれない作業をやらされると言うのは、それだけで余分な負荷がかかるものだ。
 肉体よりも精神的な疲労を覚えて自宅に帰り着いた幸子の目に留まったのは、三和土に置かれた見慣れぬ革靴であった。
 お客様かと思いつつ居間へと向かうと、そこにいたのは、草色の軍服に身を包んだ、一人の青年であった。
 よく知った顔だった。まったく知らない表情と態度をしていた。
「お帰り、幸子。征男君だよ、見違えただろう」
 幸子の父の言葉を受けるように、征男と呼ばれた青年は軽く頭を下げた。
 澤田征男。かつて、書生として住み込んでいた。国元には身寄りが無いらしく、幸子の父が、それこそ親代わりに面倒を見ていたのだ。彼女にとっても、兄のような存在だった。少し頼りない、と言う形容詞がついてはいたけれど。
 しかし、今目の前にいる青年は、その頼りなさを些かも感じさせない、凜々しい居住まいであった。
 俗な表現で言えば、格好良かった。
「幸子、征男君は、これから任地に向かうとのことで、挨拶に来たのだ。せめてもの餞をする。お前も同席なさい」
 父はそう言うと、台所へと声をかけた。
「母さん。幸子も帰ってきたから、始めよう。料理を持って来なさい」
 幸子の母は、乏しい配給物資をやり繰りする術に長けており、卓の上には質素ではあるが、心のこもった料理が並べられた。
 かつてこの家にあった、他愛のない日常の思い出話がされる。
 だが、幸子はどこか違和感を覚えていた。
 この人は、征男は、こんな作り物のような顔で話す人だっただろうか。こんな余所余所しい態度で、自分に接する人だっただろうか。
 父の元で、古典文学を学んでいた、どこか頼りなかった青年を、戦争がどこかへ連れ去ってしまったように感じられたのだ。
 それでも、ふと見せる眼差しは、あの頃のままで、それが一層幸子の内心をやきもきとさせた。
 場の和やかな空気が一変したのは、征男が飛行機乗りとして、東京を離れ九州へ行く、と告げたときだった。
 それを聞いた父は、一瞬表情をしかめ、
「馬鹿者が。もっと勉強をしておれば、こんな事にはならなかったのだ。もっと勉強をして、目を悪くしていれば……」
 それ以上言葉を続けず、しばし黙り込んでしまった。
 無言でいた父はやおら立ち上がると、戸棚から秘蔵のウイスキーを取り出した。
 今では贅沢品となってしまった、その四角い瓶の中身を、征男は軍務があるからと一口だけ飲んだ。次いで父は、こんな日なのだからと、幸子にも一口だけ飲ませた。
 それが見合いの真似事だったのだと気付いたのは、時間になったからと席を立った征男を、最寄りの駅まで送っていく途中であった。
 事によっては、明日の命も知れなくなったこの青年に、父はわずかでも温もりを感じさせたかったのだろう、と。
 消え入るような声での「もう少し早く」も、きっとそうなのだろうと思えた。
「少し待っていてください」
 征男の足を止めさせると、幸子は道端へとしゃがみ込み、路傍に生える草の種を摘みとる。
「こちらをお持ちください。名も知られぬ草の種です。ですが、季節が巡れば花を咲かせ、実を成らせる草の種です」
 ハンカチに包まれて差し出された草の種を、征男は恩賜の品であるかのように押し頂いた。
「ありがとうございます。何よりの手向けです」
 ハンカチ包みをポケットにしまうと、ここまでで結構ですと言い、一人駅へと歩き出した。
 途中、ふとしたように立ち止まり、僅かに顔を幸子へと振り向かせた。

 ごめんね、さっちゃん。

 幸子には、征男の口がそう動いたように感じられた。
 それを確かめる事も出来ないまま、青年の姿はやって来た電車の中に消えていった。

 水杯を交わし「行って参ります」とだけ口にして、征男は機上の人となった。
 それが、まともな事では無いとわかってはいた。だが、もうまともな手段では、この国を護ることが出来なくなっていることもわかっていた。いや、わからされていた。
 納得しきれない部分は、藤本家の人々を少しでも護る事が出来るのならと、抑え込んだ。
 ただ、未だ暗い東の空を見やり、せめて最後に日の出を見たかったとは思った。
 数時間後にはその動きを止めるであろう発動機の音を響かせ、征男の操縦する飛行機は故郷を飛び立つ。
 もう二度と降ろすことのない着陸脚を引き込むと、進路を西寄りへと向ける。
 少し進むと、海上に小さな島が見えた。
 名も無き、小さな島だ。
 だが、二つの理由で、とても重要な島であった。
 一つには、この島を起点に進路を南に向けると、敵艦隊が遊弋する海域へと向かえること。
 もう一つは、そうやって飛んで行く若者達が最後に目にする、故国の土地であると言うことであった。
 ゆえに、この島をぐるりと一周してから南へ向かうことを、上層部も黙認していた。
 故郷と最後の別れをすることを。
 征男もまた、ゆっくりと旋回しながら、操縦席の天蓋を開く。
 星明かりに暗く浮かぶ島へと一瞥を送ってから、ハンカチ包みを取り出し、その中身を撒いた。
 種を見送りながら、征男は願う。
 芽吹け、根付け、咲け、実れ、繋がれ、と。
 そして、かつて打ち込んでいた、古典が口をつく。
「東風吹かば にほひをこせよ くにの花……」
 一瞬、言葉が詰まる。
「主なしとて 春を忘るな」
 僅かに滲んだ涙を、ハンカチで拭う。
 質素な木綿のハンカチ。持ち主のせめてもの心か、小さく梅の花が刺繍されていた、
 手袋を外し、素肌でそっと刺繍をなぞる。
 不思議な温かみを感じてから、征男は外へとハンカチを放った。
「貴女まで、連れて行けません」
 進路は南へと向けられた。

 黎明の空の下、水平線に敵艦と思しき影が見えた途端、激しい対空砲火が放たれた。
 橙色の曳光弾が、幾筋も機体を掠めていく。
 だが、征男は冷静だった。
 曳光弾が細長く見えている内は、照準が外れているのだ。怖れることは無い。
 進路を、対空砲火が放たれている方向へと向ける。
 征男は思わず息を飲んだ。
 少数の艦隊。その中心には、板切れを乗せたようなフネが見える。
 空母だ。大物だ。
 征男は速度を上げ、教えられた通り、高度を海面近くにまで下げる。
 対空砲火は激しさを増し、周囲に水柱がいくつも立つ。
 怖くない。これで、国を護れるのだ。
 怖くない。これで、あの人達を護れるのだ。
 機体に強い衝撃。
 恐らく、対空砲弾の破片がどこかに当ったのだろう。先程までは無かった振動が、機体と征男とを揺さぶる。
 だが、止まらない。止められるはずも無い。
 引き返すことはできない。
 途端に征男の視界がじわりと滲み、ぼやけた。
 何故だ、ここまで来て。
 ああ、そうか。
 征男は気付いてしまった。
 もう一度、あの家に帰りたいのだと。
 もう一度、あの人に会いたいのだと。
 そして、もっと生きていたいのだと。
 小さかった敵艦は眼前の壁のように迫り、居並ぶ敵兵の顔が見える。
 さっちゃん、こんな土壇場で、こんな弱気な事を思ってしまった僕を、どうか、嫌いにな…………。

 その朝、幸子は妙な胸騒ぎを感じて目が覚めた。まだ夜は明けきっていない。
 人の気配を感じて居間へと行くと、父が険しい顔で、壁に掛けられた時計を見ていた。
 幸子の知る限り、故障などしたことの無かった時計が、少し前の時間で止まっていた。
 それを見た瞬間、幸子は例えようのない、強い悲しみの衝動に襲われた。
 何故そのような衝動に襲われたのか、彼女にはわからなかった。ただ、その場に泣き崩れるしか出来なかった。

 とある海上に、小さな、名も無き島がある。
 その名も無き島には、今年も名も無き花が咲き続ける。
 なぜその島に、そんな花が咲くのか。
 知る人も、語る人も、もういない。
 だが、花は、その命を繋げ続けようと、季節が巡る度に咲き続けるのだ。


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サークル名:POINT-ZERO(URL
執筆者名:青銭兵六

一言アピール
「咲いた花なら散るのは覚悟」そう歌われた時代がありました。しかし、散るためだけに咲く花などありましょうか。そんな思いから、今回の作品は書いてみました。普段の作品とは少し作風が違いますが、当方に興味を抱いていただければ幸いです。

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