花も僕らを知らない

 博物学者ローレン・アイズリーは、その著書の中でこう言っている。
「自然に関して『ありふれた』状況などはありえない。昔むかし、世界には一本の花もなかったのだ」
 そのとおりだ。
 そして人間がこの星に生まれた頃には、世界は花で溢れていた。ついこの前まで、人は花のない世界など知らなかったのだ。
「どうだろうね」
 ファエトンは言った。
「今も、知らないつもりかもしれないよ」
 彼がチェストの引き出しの奥から見つけたのは、カラカラに干からびた花束だった。
「ドライフラワーって言うんだよ。センスないなあ」
 呆れたようにファエトンは言う。
「同じことじゃないか」
 干からびた花は、干からびた花だ。
 僕らは、もう何十年も前に廃墟となったベルリンの街にいた。僕が普段ねぐらにしているアパートの、二階の一室だ。窓から見えるのは、見渡す限りの闇だった。今夜は月もない。星の光で、わずかに建物の輪郭が分かる。あとはただ、吸い込まれるような、黒く澄み渡った世界。僕はベッドの上で煙草を吸いながら、ぼんやりした頭でそれを眺めていた。
 この街に住んでいた人々は、遠いところへと去った。
 新しく、平和で、美しく優しい街へと。そして、悲しみや別れや、戦争の悲惨さなんてものはここに置いたまま、二度と戻ってくることはなかった。

 人々は、ほんとうに何もかもそのままにして行ってしまったらしい。ベッドの上にはマットレスも毛布も揃っていたし、サイドボードの上にはマグカップが置きっぱなしで、コーヒーか何かが入っていたらしく、黒っぽい残骸がこびりついていた。そういう生活の痕跡を、ファエトンはもの珍しそうに手に取り、眺め、もとに戻していた。ドライフラワーも、そうして見つけたのだ。
「バラだね。それから、デイジーもある。スイートピーと、あとは……季節が滅茶苦茶だなあ」
「結局、花って何なのさ」
 僕は問う。
 この世界に花はない。人間が何か考えなしのことをやって、きれいさっぱり消滅してしまったという。戦争とか、化学兵器とか、ナントカ実験とか、そういうやつだ。興味はない。ないものはない。
「アーケプラスチダに属する生物の一種だよ」
 ファエトンは答える。
「何て?」
「緑色植物亜界、種子植物。あのさ、クー」
 彼が僕の名前をわざわざ呼ぶのは、何かややこしいことを考えているときの癖だった。世界の在り方とか、人間は何処に行くのだろうとか、そういうレベルの。
「花はどこに去ったんだと思う?」
 そう問いながら、ドライフラワーをこちらに差し出す。
「花なんてもうどこにもないよ」
 僕は答えながら、受け取る。見た目どおり、かたくて、縁はとがっていて、それでいて軽く、脆そうだった。情報として目にしてきた花とは、何もかもが違っていた。色鮮やかでもないし、柔らかそうな感じもしない。美しさを欠いた花に何が残るのか、答えられる人間はきっと、もうこの世界にいない。
「どこにもないよ。ただ、消えただけ。違うの?」
「どうかなあ」
 ファエトンは僕のすぐ横に腰を下ろし、僕の手元のドライフラワーを覗き込んできた。
「可哀想に。これは化石と同じだよ。命をまっとうできずに、亡骸だけが残ってしまった」
「ああ、なるほど」
 言われてみれば化石のようだ。色褪せて、生命の形だけが残る。
「なあ、クー。俺はね、花がまだどこかにある気がするよ」
 そのファエトンの言葉は、真っ暗な部屋の、小さなランプの明かりの中で、優しく響いた。彼の穏やかな声には、夜が似合う。僕は、クーがそう言うなら、そうなのだろうと思った。彼の言葉はいつも正しい。
「遠い昔、ノアの箱船には脊椎動物を中心とするごくわずかな生物しか乗せてもらえなかった。人は人が知るものしか救えない。だから、人が人が滅ぼせるのも、人が知るものだけなんだよ」
 確かに、ノアの箱船の挿し絵に、菌類やゴキブリが描かれているのは見たことがない。菌類は描かれていても見えないのかもしれないけれど。
「知らずに滅びていったものも、あるような気がするけれど。でも、それはそれとしてファエトン、君は時々ものすごく明るいことを言うね」
 俺はいつだってこうだよ、とファエトンは笑う。笑いながら、立ち上がり部屋を出ていく。機嫌がいい。
「寒いだろ。外で火を焚いて、コーヒーでも淹れてやるよ」
 僕は、彼が階段を下りていく足音を聞きながら、新しい煙草に火を点けた。煙を細く吐き出しながら、そういえば煙草だってもとは植物だった、なんてことをぼんやりと思い出す。
 それから、名前も知らない場所で密かに生き長らえている花のことを考えた。深い森の奥で密やかに羽を広げる昆虫たちのように。あるいは長い間、人間に見つけられることなく、名付けられることもなかった深海の生き物たちのように。
 どこかには、あるのかもしれない。
 考えれば考えるほど、そんな気がしてくる。

 僕らがその姿を知らないように、その花もまた僕らを知らない。

『弓と空』前日譚 (第8回Text-Revolutions頒布予定作品)
冒頭の引用は、『投げびと―コスタベルの浜辺から』(ローレン・アイズリー著/千葉 茂樹 訳/工作舎)によります


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サークル名:エウロパの海(URL
執筆者名:佐々木海月

一言アピール
「土には雨を、夜には言葉を。その一瞬に呼吸するものたちへ」静寂と孤独のSF小説。

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